運動へとつづく空気感
週末、大人の哲学を語る会で「空気感」をテーマに皆様とお話ししました。今回は恐らく参加された方にとって、実に遠くて身近なテーマだったのではないでしょうか。とても盛り上がり楽しい一時間になりました。
わたしは、この「空気感」について考えずにいられなかった時を過ごしたことがあります。その時感じていたのは「どうして人は何かに引きずられていくのだろう」と言う虚しさと、恐ろしさでした。
一度流れが作り出されると、その流れはもう誰にも止められません。
もちろん、それは日本だけでなく、世界中で起こります。
まるで、畑も道も家も街も飲み込んでいく、洪水のような勢いで何もかも飲み込んでいきます。
その始まりが誰かの「正義」であったとしても、その正義が、人の優しさや、儚さや、慎み深さなどを容赦なく飲み込み、ズンズンと進んでいくのです。
ただ、嵐が通り過ぎた後、人はハタと気づくのです。
いったいこんな恐ろしいことを誰がどんな魂胆でやってのけたのかと。
けれど、探しても、この人が真犯人であると誰もが納得するような人は見つかりません。
なぜなら、誰もがそれを支持して動いた一人なのですから。
それがわたしの感じた「空気感」でした。
集団で行動する時、恐らく人は大なり小なりこんな経験をしているのではないでしょうか。
分科会の中で、SNSに関する意見が出ました。確かに、SNSでは時にドキリとする出会いがあります。先日も、妻と子を事故で亡くされた男性に対して誹謗中傷を繰り返していた人のニュースが流れてきました。それを繰り返していたのは女子中学生でした。
こうしたケースでは、おそらくどの国も犯人を処罰するルールがあると思います。そのルールがあったからこそ、その少女は特定されたのです。
ウエーバーは国家についてこんなことを言っています。
国家とは、ある一定の領域の内部で、「正当な物理的暴力行使の独占」を実効的に要求する人間共同体であると。恐らくそれは、法律や、警察や、国の持つ軍隊を指すのだと思うのです。
それらの役割とは、「国内の秩序の安定」です。
そうした国という枠内で、SNSで誹謗中傷を繰り返す人は、先の少女のように警告や処罰の対象になります。
こんなふうに、国は人々の暮らしを安全に保つために、警察や軍隊である暴力を行使します。
もちろん、国際法もありますので、国家間でもそうした枠があります。
けれど、「空気感」は少し違うと思うのです。
ユダヤ人であるハンナアレントは、彼女の経験した恐ろしい過去を振り返り、ファシズムでも共産主義でもない、独特で、かつ支配的な形を「全体主義」と表しています。
彼女の思うこの「全体主義」は、洪水が何もかも飲み込んでいくように、国や体制の枠を超えて行く破壊的な力を指しているのだと思います。
この、なぜかどうしようもなく一人一人が抗えず、共に流されて行く様を、ハンナアレントは「連鎖反応」と呼んでいます。
それはとても単純な事のようですが、想像もつかないことでもあります。
なぜかと言えば、人の行為が、他の人の反応を引き起こすからです。
それは、始めの人の行為が、その初めに動いた人には思いもよらない帰結をもたらすことがある、という事でもあります。
そして、現代はそれが簡単に起こるのだと思うのです。
「マス」ではなく審査基準のない「個人」が発信するプラットホームが世界中にあって、フェイクニュースが飛び交い、誰もがアルゴリズムで自分の志向を強めるよう繰り返し同じ情報を目にする「枠」のない世界でわたしたちは暮らしはじめています。
だからこそ、人の中で生きて、人の中で暮らし、誰かと関わりながら生きているわたしたちは、知っておくのがいいのかもしれません。
本当は、わたしたちは自分の行動がどんな未来を引き起こすのかわからない「不自由さ」の中にあるということを。
と言っても、それを言っているのはハンナアレントなのですが。
『比較政治学入門』『全体主義の起源』『人間の条件』をイメージしながらお話ししてみて、こうしてもう一度文字に起こしてみると、「空気感」について、自分はこんなことを伝えたかったのだなと感じました。
※最後までお読みくださりありがとうございました。
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