起業を考え始めて気づいたこと
起業しようと心に決めて動き出し、今は起業準備でクタクタだ。やることが多すぎる。作業は果てしなく、そして、はかどらない。
気持ちが沈むようなことなんて幾らでもある。近頃は、良いことと、悪いことが波のように織り交ぜでやってくる。
体も疲れているけれど、心が疲れた時には、まあ、決まって少しだけダウンする。昨日もそうだった。なんだかちょっとしたことだったのに、心が折れた。疲れすぎているのだろう。
けれど、夜には心がパーッと明るくなるような情報が舞い込んできた。
やっぱり心なのだろう。ちょっとしたことで疲労が抜けていく。そして、思った通り、昨夜はよく眠れた。
そんな迷いの時、わたしは色々な方と話しをする。とにかく分からないことでいつまでも悩んでいたくはない。さっさと確かな情報が知りたくなる。
いやいや、けれど、それは違うのだ。確かな情報なんてきっとどこにもない。それもわかっている。ただ、それでも誰かと壁打ちがしたくなる。そんなことをしながらだんだんと自分の行く先が整い始めている。
と、そんなふうに動いていくうちに、ちょっとした発見があった。
親が起業家だという人は、起業するのが普通の環境で育っている。だから「やりたいことが決まったなら、まずは法人登記!」といわれて、「まだ準備さえ整わない状態で外に出た」という人がいる。
反対に、親がサラリーマン家庭では、「起業はリスクが高すぎる。本気なら、事業計画書を書いて、収益が上がる見込みがあるのかあらゆる方向から検討して、それで間違いが無いのなら動いてもいいかもしれない」といわれたりする。基本、起業には反対なのだ。
で、わたしはというと、後者なのだ。公務員の親に育てられ、夫はサラリーマンだ。けれど、わたしの気質はといえば、おそらく前者だと思う。
修士論文を書いた時もそうだった。どう書くか、どこにスポットを当てるか、ずいぶん迷った。考えると幾通りも書いたいことがあった。それでも、書き直す時間は無かった。とにかく時間が足りなかった。仕事と大学院、二足の草鞋に家事があって、しかも、やたらと分析に時間のかかる研究テーマを選んでしまった。もちろん、3年在籍するほどの経済的余裕もなかった。
だから、迷いに迷って書き始めた。振り返ると2週間、布団で寝ていなかった。
きっと、十分に迷っていたら1月や2月は軽く経過しただろう。修論を書き上げる時間はわずかしかなく、その間はまるで戦場だった。
あの作業をもっと入念にしていたら、もっといい修論が書けただろう。けれど、恐らくわたしは道半ばで大学を後にしていたに違いない。どちらがいいのかはわからない。けれど、悩んで悩んで動けないより、わたしは悩みながらも動いていきたいタイプなのだと思う。
それにしても、同じ起業でも、これほど育った環境で捉え方が異なるのだ。そして、誰に相談するかで返ってくる答えもこれほど異なる。そう、起業は、正解のない世界だということだ。
もちろん家族に相談はするけれど、家族には起業経験者はいない。だから、起業経験者に意見を聞くのが今の自分の気持ちに最も近い。
よくよく考えても上手くいかないことはある。けれど、トライ&エラーで膝小僧すりむきながら歩いた先に、偶然にも光が見えることだってあるかもしれない。とにかく、やってみるまでは、誰もそれが上手くいくか否かはわからないのが人生だし、起業なのではなかろうか。
それは企業の新規事業でも同じことだろう。チャレンジしようとする人に向かって、それは危険すぎる、上手くいく保障など無いという声が必ず社内であがる。その声を振り払って前に進むのは、実に負荷がかかることだと思う。
チャレンジする人には、きっと、決まってそんな試練が待っている。
起業を考え始めて数年。
そのことを、口にして数か月。
考えていた時と、言葉にしてからでは、雲泥の差があって、他人ごとだった様々な事柄が、今は全て自分事になっている。ゼロイチは恐らく経験してみなければわからないことなのだ。それでも、先を行く人たちは、同じ道を通られたのだろう。
そうして、わたしは今、人生、経験していないことがどれほ多かったかということに今さら気づいている。ただ、知りたがりのわたしにとってはそれは楽しいことでもある。
誠実に動いても、笑われることもある。まあ、致し方ない。それでも、応援してくれる声は徐々に増えてきている。
起業したいのであれば、自分を信じるしかない。そして、そんな自分を信じてくれる人と繋がっていくしかない。
これもまた学びだし、生きているってことだし、それこそが人生だと思う。
※最後までお読みいただきありがとうございました。