触れて、触れられて
わたしは、人との距離感に敏感。
基本、自分のエリアに人を入れたくない。
常に境界線を引いている。
それは、心についてもそうだし、
身体の距離についても、そう。
一定の距離を保ちたい。
剣道でいうところの、間合い。
竹刀一本分ぐらいの。
だから、満員電車は本当に苦手。
知らない人と身体が接することは、
わたしにとってこの上ない苦痛。
たとえ、身体のほんの端っこだとしても。
たとえ、人のバッグとか、服だとしても。
それが、一瞬だとしても。
得体の知れないモノが身体に触れた瞬間に、
鳥肌が立つ。
触れた場所に、電流が走る。
至近距離で、視線が向かい合うことも、苦手。
瞬時に目から入ってくる大量の情報は、
わたしをクタクタに疲れさせる。
だから、少々視力が悪くてもメガネをかけない。
なるべく目をつむり、
時が過ぎるのを我慢して待つ。
ずっと見つめられるのも、苦手。
自分は身体の外側に
卵膜のようなベールを纏っていて、
それによって視線から守られている、
と考えるようにしている。
そうでなければ、
わたしはその場からすぐに消えて無くなりたいと思ってしまう。
数々の苦痛を伴う満員電車での通勤生活は、
わたしの心を毎日どんどんすり減らしている。
自分の暮らす家、部屋にも、
人を招き入れることはほとんどない。
だからわたしは、ひとり暮らしが気楽だ。
家族と暮らしていた時でさえ、
ずっと小さな苦痛を伴っていた。
自分の心の中は、特に聖域。
わたしは見えない「何か」から
ずっとわたしを守り続けている。
そんなわたしが心を許せるのは、
ごく限られた人たち。
それについても、許容範囲に段階があるみたい。
ピラミッド型のそれは、
下段ほど許容条件が緩く許容人数も多いが、
上に行くに従って厳しくなり、数も限られる。
わたしは勝手に、
人に対して瞬時に審査をしているみたい。
だから、
自分の審査に通過した人としか交流をしない。
それも、親しい交流が続く人は本当に少ない。
失礼な話かも知れないけど、
わたしの承認システムはそのような仕組みらしい。
心を許すと、
身体の警戒も解けて、
まず、境界線が無くなるのがわかる。
そしてもう一段階進むと、
自分から触れたい、と思うようになる。
好きなものには、触れたい、と思う。
例えば、赤ちゃんや、こども。
不思議なことに、
わたしの心は
赤ちゃん、こどもには全く警戒心を抱かない。
全く知らない人のこどもだとしても。
赤ちゃん、こどもからは
邪悪なものを感じないからかな?
勝手に触ることはないけど、
許可をいただければ、触れたい。
ずっと、触れていたい。
手をつなぎたい。
抱っこしたい。
やわらかくて、ぷにぷにで、
しあわせのかたまり。
触れているだけで、
心が満たされ、笑顔になる。
好きな人には、
触れたいし、触れられたい。
手から、指先から、愛が伝わるのがわかる。
自然と、
どこかに触れていたいと思う衝動が湧き起こる。
でもそれは、
ピラミッドの頂点の、
ほんの限られた相手にだけ。
もっと気軽に、
何にでも、誰にでも触れることができたら。
好きな人も気軽にたくさんできるのだろうか?
境界線を引かないで済むのなら。
その方が楽に生きられることはわかっているのに。
触れて、触れられることによって、
心を許すことができ、
愛が生まれるなら楽なのに。
悲しいけれど、この法則は不可逆的。
わたしの指先はずっと、
触れられるものを求め続けている。
触れて、触れられて。
心からしあわせだと感じられるその瞬間を。