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【短編小説】 水滴|後編

家に帰ると、暗い廊下に何かが擦れるような音が響いていた。手探りでライトのスイッチを入れて音のする方を見ると、蛇口から水が勢いよく出ていた。蛇口を閉めたその夜から、僕は水滴を眺め続けた。

水滴はペースを変えることなく、僕の視界を移動し続けた。それ自体が時間であるかのように、正確なリズムを空間に響かせていた。しかしその間、僕は彼女と別れた日のことしかしか思い出すことができなかった。耳をくすぐる彼女の髪、笑い声、真剣な顔、吐息、そして青い花柄のニット。人は飛べないのか。 僕は混乱した。時間が僕の中から失われていくような気がした。もしくは自分の知らない場所で、自分は時間を刻めているのだろうか。例えそうだとして、僕に時間は必要なのだろうか。空腹を感じるのが悔しかった。スナックやパン、そしてペットボトルのゴミが僕を囲んでいた。時間はきちんと経過していた。

いく日か経った白昼に、僕は外に出た。空腹と喉の渇き、そして身体全体が振り回されるような揺れを感じたからだった。街は裸の太陽に晒されおり、両眼を覆う水滴の残像がその光景を遮っていた。しかしその風景に物質的な変化が見られないことは分かった。自動車は正常に動いていたし、信号も機能していた。道行く人々や犬は何か悩みを抱えているような表情ではあったが、それもいつものことだった。コンビニに入ると、僕はまず飲み物が並んだ棚から水を取り出して飲んだ。途中で足元に軽いものがいくつもぶつかる感覚があったが、下を向く余裕はなかった。水を半分ほど飲み干すと、僕は食品コーナーに行き、サンドイッチとおにぎりの袋を開けてそれらを齧った。数口食べると空腹は絶望から抜け出し、ようやくレジに向かうことができた。開封されて中身の損なわれた袋やペットボトルを差し出すと、店員は何も言わずに僕の顔を見た。そしてそれは現実を見ているような顔ではなかった。彼は私の顔から目を離さなかった。瞬きさえしなかったから、僕も彼の両眼を平等に見る努力をした。

彼から目を離したのは、店の外を歩いていた通行人のせいだった。左眼の切れ端で捉えたその人は青い服を着ていた。後ろの方で店員の大きな声がしたが、僕はそのことよりもいつの間にか外に出ていた自分自身に少し驚いた。勢いよく開かれたドアの風圧を背後に感じたが、その時にはもう走り出していた。その服が駅の改札を入り抜けようとした時、僕はその背中に大きな二つの花柄を見た。改札を抜ける時に警告音が鳴ったが、それはすぐに遠のいて小さく醜い音に変わった。階段を登るその後ろ姿は彼女そのものだった。中途半端な長さの茶髪と小柄な体、そして小動物みたいな小さな歩幅だった。ただ一つ違うのは、彼女が走っているのを初めて見たこと、そしてその先には手を振っている背の高い男がいることだった。僕が階段を登り終えた時、二人はもう遠くの車両に乗り込もうとしていた。僕は閉まりかけている近くの車両に乗り、満員の人混みをかき分けて彼女のいる車両に向かって進んだ。乗客はまるでクローンのように一斉に携帯を覗き込み、彼らの発する言葉は重なり合って騒音に変わっていた。彼らは黒いスーツに身を纏って、同じような匂いのしそうな使いこまれたネクタイを締めていた。その均一で平凡な景色の中で、僕は今自分がどこにいるのか、彼女に近づくことが出来ているのかさえ分からなかった。

その男の顔が二車両ほど先に見えた時、僕は自分がきちんと前に進んでいたことを知った。その男は周りの人々よりも頭一つ突き出ていた。彼から彼女の存在を想像せざるを得ないことに苛立ちを覚えたが、男の顔を常に捉え、そこに向かって進めば彼女はいるはずだった。彼は横を向いて車窓越しに見える街を眺めているようだった。無表情で、そうした景色に無理に関心がない風を装っているようにさえ感じられた。しかし彼に近づくに連れてその表情が明確になってくると、それは間違いであることが分かった。彼の表情は固まっていた。それは恐怖というよりも、得体の知れない何かに話しかけられているような、脳みそが状況に追いついていないといったような顔だった。僕はその表情に確かな違和感を覚えたが、僕を立ち止まらせたのは彼ではなかった。乗客全員が彼と同じ方向を向き、同じように怯え、次第に目と口を見開いて必死に何かを言おうとしているのが分かった。しかし何も言えないようだった。彼らの内の一人があげた言葉にならない叫び声で、僕はようやく首を曲げて車窓を見た。そこには移り行くビルがあり、アパートがあり、商業施設があった。街の人々は作りかけの電信柱みたいに直立して固まっていた。彼らの視線は僕のそれを同じ方向へと向かわせた。そこにあったのは白い線だった。その線は次第に太くなり、青白くなり、形を歪め始めた。心臓が高鳴るのを感じた時には、それが波であることが分かった。

「津波だ」

と乗客の一人が叫んだ途端に、車内には無数の悲鳴が湧き出た。津波は十階ほどもあるビルを飲み込み、さらに高い電波塔までをも覆おうとしていた。ゴミのように小さい自動車を食い散らかすように運んでいるのをその中に見た。飲み込まれた人間の姿など目に写りさえしなかった。

それは奇妙な光景だった。僕の中のあらゆる固定観念を取り払ったところで、大都市とそれに襲いかかる巨大な自然の猛威は交わるはずのないものだと感じた。文明と自然、本来共存すべき二つなのに、それらはあまりにも極端で絶望的な融合だった。これで誰が得をするのだろう。飲み込まれた人々は今何を思っているのだろう。残された人々は何を感じるのだろう。そして死を待つ僕らは、残りの命をどう使えば少しは報われるのだろう。

彼女のことを考えよう。でも僕はやはり、あの水滴を見ながら回想した彼女しか思い出すことが出来なかった。僕の耳をくすぐる彼女の髪、高くて日の出のように澄んだ笑い声、時折見せた真剣な顔、静かな吐息、青い花柄のニット。でも最後に彼女に会うことができればそれでいい。僕は走り出す。車内のカオスが僕を遮る。彼らも誰かを想い、熱気となって車内に充満している。僕も一人の人間なのだ。僕は走らないといけない。僕は彼女に会うことができる。男の頭は見えなくなったが、僕は彼女を見つけられる気がする。人混みをかき分けながら、もがきながら進む。僕はあまりにも身勝手な人間だ。でもそれは幸運なことだった。

津波はもうそこまで来ている。飲まれた車が嵐の中の船のように畝り、今や流されている人々は虚無に浮かんだ星のように、残酷なほど目立っている。

津波が目の前の建物を飲み込んだ時、僕はそれを見るのをやめた。前を向くと、すぐ先に二つの青い花が見えた気がした。でもそれはすぐに消えてしまった。

すでに動きを止めた電車の窓の外から、一羽の鳥が羽ばたく音がした。


終わり

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