トリップ中のプチトリップ
飛行機の機内で観る映画って、
とても不思議だと思う。
目的地は同じなのに、隣に座っているのは親しい友人や家族なのに、そこで観ている映像は、受け取る物語はまったく違うものであり、過ごした時間は自分だけのものである気がするから。
5年ほど前、家族でシンガポールに旅行したときのことだった。私と夫と息子は、行きの飛行機で3人並びの席に座っていた。
シートベルトの着用サインが消えてすぐ、夫と息子は機内エンターテイメントのパズルゲームに夢中になり、私は画面に表示された映画のリストから何を観ようか考えていた。
目に飛び込んできたのは新海誠監督の作品である「言の葉の庭」。美しいタイトルと画像に心を惹かれて、なんとなく見始めた。
初夏、ある雨の日に主人公の男子高校生が学校をさぼっていると、同じように会社を休んで時間をつぶしているらしいOLふうの女性に出会う。新宿御苑を舞台に、ふたりの時間が少しずつ紡がれてゆく。
映像も音楽も繊細で美しく、私はヒロインの女性に強く共感してしまい、旅行中の機内であることを忘れて物語の世界にのめり込んでしまった。
ある事情から仕事に行けなくなってしまったヒロインの雪野。私も昔、会社でたまならくなる出来事があり、新宿御苑でチョコレートをつまみにビールを飲んで…とまではいかないけれど、時々街をふらついて仕事をサボっていた。
もうずいぶん前にその会社は辞めていたし、とっくに忘れたと思っていたのに、エンディングで当時の気持ちがぶわっと蘇ってきて気がついたら泣いていた。
無言でぼろぼろと涙を流す私に気がついて夫は驚き、そんなに泣ける映画だったのかと聞いてきた。
彼はたぶん、悲しい内容だとか感動のラストがとか、そういうニュアンスで聞いてきたのだと思う。たしかに切ないシーンも感動もあったのだけれどそういう事ともまた少し違う、私は全力で仕事に向きあい、そして挫折したときの自分を重ねて泣いていた。
けれどその長い話を、複雑な時間を楽しい家族旅行のスタートにしみじみと語るのは何か違う気がして、私はただ夫の問いに頷いて機内サービスの紅茶をごくんと飲んだ。
行き先はシンガポールのはずだったのに、私はその前に観た映画にどっぷりと浸り、そのまま過去の世界にも寄り道をしてしまっていた。
旅行はとても楽しかったのだけれど、あの行きの飛行機で観た映像が、過ごした時間が忘れられない。いま思い返しても、得難い時間だった。
ここ数年、コロナの影響から飛行機に乗る機会自体がとても少なくなっていたけれど、つぎに乗る時はまた映画を観て、あの時のようなトリップ中のプチトリップをしてみたいなと思う。