「なんもいへぬ」から始まる文学 万葉集と小田和正とアニー・ディラード
ほぼ日の学校で、万葉集講座をチラチラと聞いている。(5月末まで無料視聴!)
シンプルな私は、これで万葉集にハマった。にわかファン。
万葉集の上野誠先生の講義、全日本人必聴。あの訛りと繰り返し、万葉のあの大らかさごと現代に連れてきたような面白さです(第2回、第1回、第10回に登場)
万葉集の歌自体を味わいたいなら第2回を、シェイクスピアと一緒に万葉集も知りたい欲張り派は第1回を、そのあとで万葉集概論とでも言うべき第10回を聞くのがよいかと思うのだけど、その第10回のなかでね。
令和の出典となった「梅花の宴」という序文の解説があって。なんだかこれにホッとしたんです。
「東洋における文学の理想は、勉強して勉強して考えて考えぬいて、言葉がでなくなった状態だ」と。その「忘言」の状態が最高であるらしいと聞いて。
あの序文は、太宰府の大伴旅人邸で行われた宴会超よくてさ!だから歌詠んだよ聞いてね!っていう前フリらしいのだけど、そのなかに「言葉すらも忘れて[…]襟をほどいてくつろいだ」って記述があり、これが最上級の褒め言葉であると。
今も昔も変わらんなって。なんだかうれしく思ったの。
ほんとに楽しかったり、ほんとに悲しかったり、感情の純度が高くなればなるほど言葉にならないじゃない。言葉にすればするほど、思いが遠ざかっていくような。目の前に石田ゆり子がいたとして、紙と鉛筆渡されて、はいこの美しさを描けって言われても、描けば描くほど石田ゆり子じゃないものになるじゃない。
でもね、「その言葉すらを忘れて」って文章のあとにこう続くのだ。
ひとりひとりのとらわれない思いと、心地よく満ち足りた心のうち。
そんなこんなの喜びの気分は、詩文を書くこと以外にどう表せばよいというのか――
石田ゆり子が目の前にいたらやっぱりその美を、どうにかして留めたいのが人情なわけで。ことーばにー♪できなぁーい♪って、そういう言葉にしてまで歌う小田和正性ってものがさ、私たちはあるわけじゃない。
言葉にならない気持ちだけど、それを詩文で書くのだ!
もわもわっと捉えようのない霧のようなものを、なんとかして言葉という瓶に入れて閉じ込めておこうとする欲深い知性みたいなもの。これがかっこいいし、私も持っていたい。
◆ ◆ ◆
……と終えてもいいんだけど、いちおう本を紹介することにしているので、意地でつなげてみると。これってホラ、あれじゃないですか?
「書くことがあるから書くのではない。
書けそうもないことがあるから、書くわけだ。」
BY アニー・ディラード!
ということで今日の1冊は
『本を書く』https://1000ya.isis.ne.jp/0717.html
原典読んでないけど。手にも入らないみたいだけど…
うめざわ
*上野誠先生による「梅花の宴」序文や訳文、ここでも読めます。が、内容は同じでも、声で聞いたほうが断然わかる。歌は「口立て」で教わるものだということもよくわかる。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64010?page=3
*講義ですごいなあと思ったのが、「忘言」の例として、受講生が美智子様のお歌を引いてくるという教養の高さ…
たはやすく勝利の言葉いでずして「なんもいへぬ」と言ふを肯(うべな)ふ
これは北島康介が2008年北京五輪のときに発した「何も言えねえ」を歌ったもの。感極まる姿を、こんなにやさしくとらえておられるのですね。