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私の幼少期「自伝」より一部抜粋

「自伝」より一部抜粋

(前略)
 祖母は私が小学二年の時に火傷が原因で死んだ。
 冬の寒い日に火鉢を跨いで自分の身体を暖めていたのが命取りになった。垂れていた着物の紐が燃えて着物全体に広がったのである。気がついた時にはすでに手遅れであった。その日の夜に息絶えた。

 祖母が亡くなってから私の家庭の歯車が狂いだした。祖母の死で私の家族は村にとっては「よそ者」となった。
 村は秋になると台風で筑後川の支流の川が氾濫し、毎年のように洪水になっていた。父が独立する為に買っておいた木材が洪水によって全て流された。借財を返しながらの仕事と村人達の陰湿なよそ者に対する態度の心理的圧迫は徐々に父の神経を蝕んでいった。
 父に対する母の不満は、村人の態度と貧乏から来る苛立ちが起因して連日父と諍いを起こした。母の愚痴に苛立つ父は食事中にちゃぶ台をよくひっくり返していた。

 父は仕事場に行くのに自転車を利用していた。
 父の様子がおかしいのに気づいたのは、私達に出会っても、自転車を自分の意志で止める事が出来なくなってからである。極度の身体的過労と心労からくる神経症であった。
 父の入院で私の家庭は一気に傾いた。
 兄は優等生であったが病弱であった。弟は身体は小さいが気性が激しく、負けん気が強くてけんかばかりしていた。私は体格も良く健康で力も強かったが、非常に内気で学校では皆の前では教科書を読むことも、歌う事も出来なかった。人前でトイレに行くことすら大変な勇気を必要とした。
 学校での私へのいじめは陰湿であった。弁当の中に泥を入れたり、教科書に落書きされたり、待ち伏せして石を投げられたりした。私は力が強かったので、彼らが暴力を加えようとしても私に簡単に投げ飛ばされるだけであった。同学年で相撲の勝ち抜きでは、私は三十人以上に勝っても疲れなかった。私は勝ち負けの勝負事が嫌いであった。それと自分が目立つ事もである。
 父が知り合いからもらってきたクロという子犬がいた。私にはクロがいれば友達などは必要無かった。家庭と村との関係や学校の事も忘れさせる程の強い絆で私とクロは結ばれていた。
 
 父が入院するとすぐに母は働きに出始めた。すぐに、家には帰って来たり、来なかったりといった生活になった。外で仕事を始めた母は化粧をするようになった。始めはさほど遠くない場所で勤めていたのか、見知らぬ男が家によく遊びに来ていた。私たちに飴とかお土産を持ってきていた。どの男達からも生臭くいやらしい匂いがしていた。そのうちに、母はほとんど家に帰らなくなっていた。
 子供三人の生活が始まった。私は小学四年になっていた。兄が五年、弟はまだ小学一年だった。この頃には学校の給食が始まっていた。だが、日曜や休日は私たちの食う物は家には何も無かった。
 秋を過ぎると自然の果物も無く、村の畑やお宮様のお供えや、魚取りが私たちの兄弟の生活の糧となった。弟は父の病院に行っては、父の食事をわけてもらったりしていた。
 この頃にはすでに私達兄弟に対する村人達の完全な「よそ者」に対する村八分が露骨に行われていた。私達に対して、村の親達が自分の子供達に私たちと遊ぶ事を一切禁じたのである。
 弟は村で差別された分、学校ではけんかで同じ村の子供を押さえ付けていた。いわゆるガキ大将であった。
 冬はさらに厳しい生活となった。犬のクロも自活を強いられた。当然、村人にとっては犬も私たちも同じく、村のものを盗むよそ者であった。村人達にとっては誰が盗ったか分からぬものは、全て私たちの仕業になった。祖母の凄い剣幕の怒りはもう村人を怯えさせることはなかった。
 
 兄は学校の先生に気に入られていたし、弟はガキ大将であったが、私は内気で無口な子供を意識的に演じていた。
 私は誰かに怒られても、何か文句を言われても一時間でも二時間でも無言でいる事など何でもなかった。うそ泣きして涙を流すこともできたのである。私は抵抗するにはまだ幼すぎた。無言が唯一の抵抗であった。納得出来ないものに対しては徹底的な無言を通した。相手は誰であれ、私の事を少し知能が足りないと思っていた。むしろ私にはそう思われていた方が都合がよかった。周りの人間は子供でも大人でも人間の姿をしているかぎり、私にとっては誰も信じられる存在ではなかった。誰も彼もが力関係で動いていた。私はその関係を弱肉強食と名付けた。この原理はまだ当時の私の中では観念的な言語化は出来なかったが、この世界を支配する唯一のものと私のなかでは確信していた。
 私たち兄弟に対する同情が無かった訳ではない。私のいる村に、よその町から来た嫁がいた。村には共同の風呂場があった。持ち回りで巡回して風呂を焚いていた。脱衣場は別でも木造の風呂は混浴であった。一畳ほどの風呂桶には町から来た嫁は夜遅くに入りに来ていた。羞恥ゆえである。最後に入る者は浮かんだ湯垢をすくって入らねばならない。それでも最後に人がほとんど終わった頃に来る。
 その町から来た嫁などが、夜中にこっそりと自分の家では食わない野菜のクズとかを置いていくことがたまにはあった。無論、見つかれば私達まではいかなくとも、同類とみなされる。
 あるいは、駐在所のまだ若い警官が牛乳を二本持って来てくれたりした。若い彼はまだ同情的正義感に動かされたのだろう。
 私の母はまだ25歳で色白のふくよかな体形で男好きのする顏立ちであった。私は母が居酒屋で働いているのは分かっていた。恐らく、飲み屋ではさぞもてたに違いない。母は気紛れか、嫌な事でもあったのか、たまに家に帰ってくる。居ても、せいぜい四、五日である。その間に複数の男が家を訪ねて来る。来た相手によっては母は居留守を装うために私達を使った。母は「これは父には内緒だ」と小遣いを渡して言った。
 夜中に酔っ払って来る男もいた。母はほっときなさい、と言って布団をかぶる。すでに布団は綿が中で千切れてぼろぼろである。雨の時は家中雨漏りだらけである。畳も腐って斜めに傾いている。藁ぶき屋根の古家でもあり、手入れをする者がいないと傷むのも早い。
 母はいつの間にか家に居なくなっていた。また、いつ帰ってくるか分からなかった。
 私の家の土地が隣りの畑の農家の持ち主の、借地であるということも村人に教えてもらった。それも、毒を含んだ口調である。

 私には何よりも愛犬クロがいた。自然も村人のように干渉はしない。私は稲妻や、地震、洪水が好きであった。天災は全てに対して公平だからであった。
 洪水の風景の最初の記憶は私が三歳の時である。弟が二階の柱に縛られていて、村中が流れる泥水湖のようになった。死んだ牛や、豚や、ヤギ、鶏、壊れた家具類などが流されていた。小さな庭の桐の木の細い小枝にはたくさんの蛇が巻き付いていた。毎年のように起こるその泥水湖になった村に町の消防団の人が船を漕ぎ、おにぎりを運んでくる。そのおにぎりの味は特にうまかった。
 私達は冬でも、夏の格好であった。足は裸足である。家には塩すら無い。一度もらったタマネギを水煮で食べた事がある。だが口に含んでも不味い、それで無理に飲み込んだ、胃が受け付けずにむかつき、すぐに吐いた。その時はまる三日間何も食べていなかった。
 水だけはいくらでも飲めた。家の狭い庭に井戸があったからだ。最も、私達は川の水を飲んでも平気であった。すでに、半ば野生化していたのだろう。兄の病弱な身体も極貧のなかにあって丈夫になったのだから。そんな生活のなかでも、私は同学年のなかでは一番太っていた。
 春になれば食えるものは柳虫でも、ザリガニでも、雷魚でも、何でも食べた。だが、さすがにへびは食べた事がない。私は獸のように単に飢えていたにすぎない。
 ただ、普通の人間の日常的感情は私には希薄であった。自分の欲しい物が手に入れる事が出来なければ、諦めるのは簡単であった。始めから無いと思えばよかったのである。
 私のこの合理的なものの考え方は幼い頃からすでに具わっていた。始めから無いものであれば私の個人的な感情もおきない。私はいわゆる感情というものがよく理解出来なかったし、感情自体の出現自体が不快であった。
 何でみんなは、些細なことで感情的になるんだろう?と。だが、皆のなかでは私も皆と似たものを出さないと逆に目立つ。私は人からの干渉を極度に嫌ったのである。私はその時から客観性の強い個人主義的な相対的意識が動物に似た形で自分にあったのである。それがはっきりと自覚されたのは両親の離婚を通してであった。

  母は父が完全に精神の病いが治っていない時に離婚を迫った。退院した父は母と家で何度もお互いを罵りあった。私はその光景をいやというほど見せ付けられた。子供の立場ではただ成り行きを見るしかなかった。母にはすでに男がいた。それも二人の子持ちの男である。離婚が成立してもまだ父は苦悩していた。私の意識の中で、一晩で自分の母は単なる他人となった。これも誰もが信じがたいと思う。まだ7歳の子供が簡単に母親を他人と見做せるかと。
 私にはとっては実に簡単な意識の操作であった。私にとって親は子供の面倒を見るかぎりは、どんな事をしても親である。他の男と寝ようが、泥棒しようが、さらに言えば人殺しをしても子供の面倒を見る限りは、私にとっては親である。だが、捨てるとなれば話は全く別である。
 それまで私が、私を生んだ女に一番可愛がられていた。太った、色白の大人しい素直な子供で体温の高い私を女は湯たんぽ代わりに抱いて寝ていた。
私の本性を、女は全く見抜けなかった。女にとって自分の見栄と貧乏に対する嫌悪は当人にとって離婚の原因とはなっても、私たちを捨てる理由とはまるで関係の無い事である。私は自分を育てる限りにおいて親とみなす。だが、子供を捨てれば、すでに親では無い。
 私は他人となった女に執着する父の気持ちが分からないわけではなかった。だから一緒に演技で泣いた。私を引き取った父に私は同情しなければいけない、と自分で判断した。無論、一度きりではあったが。
父は私と兄を引き取ったのですぐにでも仕事をしなければならない。だが、当時近辺では父の仕事はあまり無かった。木工所のかんな削りの程度の仕事でも少なかった。
 
 弟は話し合いの結果、女の所に引き取られた。だが、弟の住んでいる家の状況を聞くと私も兄も怒りの感情が出た。弟は久留米市に女とその男の家に住んでいて、そこからバスで私と同じ大善寺小学校に通っていた。バスで六つの停留所を乗らなければならない程の距離である。
 弟の住んでいた家には男の子供が二人いて、一人は中学一年の女の子で、下は私と変わらない年頃である。男は昼間から酒を飲み、子供達に新聞配達をさせているという。そんな所に弟を置いておく訳にはいかない。
 私と兄は弟から聞いた住所をたよりに久留米市に行った。迷いつつ何度も他人に聞きながらやっとたどり着いた。男の家を見つけるまで三時間位かかった。古い一軒家である。私と兄は家の土間から男を見た。弟の話した通り、赤ら顔の小太りの男が酒を飲みながら偉そうに座っていた。中学一年の女の子は痩せていて態度もおどおどしている哀れな小動物の感じがした。男の子も小さく痩せて何かを怖れている表情をしている。
 女は男に気づかっているのか、迷惑そうな表情で私たちが来た事を父の指図位に思っているような怪訝な表情である。酒焼けした顔の男は生臭く贅肉のついた不快な中年男であった。
 弟に隙を見つけて帰ってこいとバス代を渡して兄と私は家に戻った。弟は二日後、迷子になりながらも帰って来た。間違えて二つ手前のバス停で降りたという。歩いているうちにお腹が空いてパンを食べたらバス代が無い。その内に夜になり、雨の中で野宿したという。弟の話を聞くとよく私の家までたどり着いたと思う。恐らく獸と同じ帰巣本能であろうか。その時、弟はまだ七歳であった。
 兄弟三人を見た父は、兄と私があんな奴等の所には弟は置いてはおけないから連れ戻した、と言ったのを聞くと「石にかじりついてもお前達を育てる」と言って号泣していた。
 父は、酔っ払ってはあの女の所に行っては罵りあいをしていたらしい。これは後日、父から聞いた話である。私のなかでは女からすでにメスという位置に格下げがなされていた。いや、動物の方がもっと純粋で我が子を守る為には命がけで守る、その意味では獣の方が格は上である。(後略)


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