「人間である」という洗脳
今日は読書録。ちゅうか、ここ5年の読書の集大成その1。
…ついでに自分への備忘録のために書いておくと、「その2」はジルボルト・テイラーという脳神経学者(だっけ?)の「奇跡の脳」という本で、だが今日のテーマからは僅かに外れるので、今日は語らない。
…というわけで本題。
ここ5年間で「人生観を根本から覆す」トテツモナイ本2冊に出会った。
もちろんこれらは「人生観を変えてやろう」と意気込んで読んだわけではない。が、後から思えば、「本を読む、という(だけの)体験で、ここまで世界観が変わることがあるのか!?」と、これまた目からウロコを落とした次第。
1冊目は、もはや私が語るまでもない世界的ベストセラーの「サピエンス全史」、ユヴァル・ノア・ハラリ著。
…著作の内容について解説するのが目的ではないので詳述はしないが、とにかく私が感銘を受けたのは;
「ホモ・サピエンスが(個体の完成度としては遙かに上回る性能を持った)ネアンデルタール人を駆逐して世界の覇者となった最大の理由は『虚構(フィクション)』を信じることができる能力を持っていたからである」
という、世界初の指摘(だと思う)がハラリ博士によって提示されたことだ。
こちらも詳述はしないが、ネアンデルタール人が「あくまで個体として完結した生き方」をしていたのに対し、ホモ・サピエンスは大勢でひとつの概念(目標でもターゲットでも何でもよい)を共有し、それによって集結することができる、ということだ。確かに考えてみれば、人類の為した大事の大半は、戦争にせよ建築にせよ、大人数での所業である。
しかしさらに重要なのはここからだ。
しかも人類は大勢で集まると何かを盲信したがり、宗教や独裁政治といったものを形づくることになる。これは「情報(なかんずくフィクション)を信じ、共有し、それに立脚してシステムを構築する」ということなのだが、考えてみればこれは宗教や独裁政治に限らず、言ってみれば「(現在を含めた)人間社会のすべての基礎は、すべて「フィクションである」といえるのだ。それは法律や規則、ルールの形を採ることもあれば、マナー・礼儀の形であることもあれば、「常識」という形であったりもする。しかし煎じ詰めれば、「常識」とは紛れもない「フィクション」であり、ゆえにそれを絶対視することは「愚かであり間違いである」、と表現することも、これまたできるだろう(それをオオヤケに表明するのは別問題💦)。
…その他にも「農業」というものが、これまでの概念では「果てしなく長く続いた『狩猟』という不安定な状態から脱却することのできた、人類史上稀にみる画期的なデキゴト」という、なんだかイメージ的には産業革命みたいな金字塔的なイメージを持っていたのだが、これが見事に覆されて「農業の発明と発展によって、人類は労働に縛られることになった」という方向の展開をみせる。言われてみればこれは産業革命とて同じで、便利になった反面、人類は永劫続くとも思われる『労働の鎖』につながれることになった、と言えなくもない(そしてこれは、現在私が再懐疑している資本主義の台頭にも繋がることになるワケだ)。
…要するに、私が極端(かつ強引)に要約すると「人間社会において我々が価値を置いているもの、というのは、肩書きであれ地位であれ社会システムであれ何であれ、さらにはアイデンティティそのものでさえ、すべて虚構である」ということになる。言われてみれば、確かにその通りではないか。それは他の星に行って通用するかというと、もちろんしない。なぜなら「フィクションの共有」がなされていないからだ。
…で、この結論を「ふーんハラリ博士面白いこと言うじゃん」で終わればよいのだ。ほとんどの読者は、そうだろう。
しかし私は「人間社会は、すべてフィクションに立脚している」ということに気づく、という、いわば「パンドラの箱」を開けてしまったのだ。言われてみれば、世の中の仕組みはすべて、1つの例外もなく、「フィクション」なのである。
この事実との折り合いをつけるために、私はエラく骨を折った。繰り返すが、私が「なるほどねー面白かったねこの本」で終えていたら、こんなことにはならなかった。
しかしそれから数年かけて、私はこの「アンチテーゼ」を、哲学用語で言えば止揚(アウフヘーベン)させることができたので、今では「なるほどねー面白かったね」で終わらなくてよかった、とも言える。
余談だが、「歴史を学ぶ意義は何か?」ということがよく議論される。
そしてその大半の結論は「歴史は繰り返す。したがって過去の歴史を学べば、これからの歴史を予測することができるから」的な感じだろう。
…だが私は昔から「ん?」と思っていた。そして近年、日本の近現代史を学び直して「いや、歴史学ぶ意義って、そんなんじゃないじゃろ?」と漠然と感じていた。
ハラリ博士のこの話題は、この記事の最後にもう一度、言及する。今回の記事の、白眉ともなる部分だ。私は目から大きなウロコをまた落とし「さすがは世界的な歴史学者」と恐れ入りました💦。
…さて2冊目。
ダニエル・エヴェレットという言語学者の著した「ピダハン」という著作。
こちらは少々解題が必要だろう。
「ピダハン」というのは、ブラジルのあたりの原住民族の名称。
著者のエヴェレットという人物は言語学者で、こういった未開の民族の言語を研究しており、さらにはそれにより「キリスト教を布教させる」というクリスチャン(伝道者・宣教師)でもある。そういった立場から、このピダハン族にキリスト教を布教させんとするのだが、結論言うと逆にピダハンの人生観に強い影響を受け、キリスト教(およびその文化・世界観)を捨ててしまった、という展開。
今となってはなんでこの本を読もうと思ったのか思い出せないが、大部なので図書館で借りた。たぶん原題が、この写真にもある通り「Don't sleep, there are snakes(寝てはならない、ヘビがいるから)」ということから興味を持ったのかも知れない。
…で読み始めると、まさに面白くて寝食を忘れる。
内容の大半は、西洋文明の申し子であるエヴェレット自身がエラい目に遭いながらもピダハンとのコミュニケーションを確立し、互いの間に見えない絆を築いてゆく、というありがちでベタな内容ではあるが、とにかくリアリティと説得力が強い。
私も読書メモをどこかに失くしてしまったので記憶から呼び起こすしかないが、特筆事項のうち3つをリストアップする。とにかく「ピダハンが現代の常識とどれだけ違うか?」そして「その結果、彼らが(生死のクリティカルな境目に常にいながらも)どれだけシアワセか?」ということである;
・「過去」・「未来」に相当する言語(単語)がない
…エヴェレットは言語学者なので、このあたりの知見は信頼できるだろう。でさらに驚くべき事は「単語がない」以上、「そういう概念がない」ということだ。要するに「過去・未来」という概念がない。
現代人には想像もつかないことだが、しかし考えてみれば、現代人の不幸のほとんどは、これらの概念からもたらされるもの、ではある。ゆえに現代に於いても「過去・未来のことは考えない」という挑戦的なアプローチがあっても、いいと思う。
余談だがこの話で思い出すのは、マーク・トゥエインだったかが『心配とは、借りてもいない借金を払うようなものである』と言っていること。現代人は、せっせとこの借りてもいない借金を払って、精神的な窮状に自らハマり込んでいる、というワケだ💦。
・便利・効率を求めない
…ピダハンの生活を見て体験したエヴェレットが、「これを使えばもっと便利になる」といって、イロイロなものを差し出す。
するとピダハンは好奇心からそれを使い始め、けっこう習熟する(というのは『食わず嫌い』ではない、ということが言いたい)。
ところがせっかく習熟したのに、しばらくすると「ピダハン、これ使わない」と言って返してくるか、捨ててしまうのだという。
…これを筋立てて理解しようとするなら、要するに「便利」とか「効率」という概念に、まったく価値を置いていない、ということだ。これは、現代人にはまったく理解不能だろう。
…チョット違うかも知れないが、敢えて喩えるなら「ポイ活」みたいなものかもしれない。現代人はほとんど全員が色んなお店、ちゅうか購買チャンネルでポイントを提案され、これを貯めて還元し得をする、というアクティビティをしているだろう。
私はそもそもポイ活が嫌いなのでやらないが、あるドラッグストアでオバチャン店員にしつこく勧められて辟易・閉口したことがある。しかしそのオバチャンのロジックは「何をどう考えてもノーリスクでお得なのだから、やらないという選択はあり得ない」という。
…いや、確かにオバチャン店員は正しいのだろう。「損か得か」という観点で見れば、だ。
だが世の中には「損か得か?」という観点に価値観を置いてない(あるいは意識的に脱却しようとしている)人間もいるのだ。その一人が私だったわけで、ゆえにこのオバチャン店員の目には私は「ワカッテナイお客」だったわけであり、逆に私の目から見るとこのオバチャンは「あまりに視野偏狭な店員」だったことになる。そしてそれらは、両方正しい。
・特殊な生死観
…これも実に特殊で、現代人がいかに「死にたがらないか?」がかえって不自然で滑稽に感じる。
ピダハンは文字通り、原題通り「ヘタに寝たらヘビに咬まれて死ぬ」ワケで💦、ゆえに夜も長時間の熟睡は決してしないのだという。同様に、これまで熟睡中に咬まれて死んだ者もたくさんいたワケで、言ってみれば「生と死はいつも同一線上にあり、死ぬことは日常茶飯事」だったことになる。
…だがこの話題は深すぎるので、別の機会に譲る。ヒトコトで言えば、私は「死ぬって、別にそんなに忌み嫌うことじゃないんじゃないの?」と気づいた、ということ。
…閑話休題。
これらピダハンの価値観は、現代人からは理解不能で、しかし現代人は「上から目線」で、「それはピダハンが未開だから」とか言うだろう。
しかしエヴェレットは、もちろん最初はそう思ったものの、ピダハンの価値観のほうが次第に正しいのではないか、と思えたのだ。私もそう思う。
…こういった「価値観の違い」というのは、強烈な単語を使うと「洗脳」ということになる。
最初は「未開人を啓蒙してやろう」と考えていた著者は、次第に自分の考え方こそが偏狭で「現代という時代の、『先進国』と呼ばれている場所の洗脳」だと気づいたのである。
…さて総括。
これらの2冊で私の世界観・人生観が大きく変わったワケだが、それ以降私は日常的に「これは正しいことなのか?正しいと言われていてそれを盲目的に信じてるだけではないのか?洗脳ではないのか?」と考えるアンテナが1本、立ってしまった。
もちろんこのアンテナは「良いアンテナでもあるし、悪いアンテナでもある」というのは言うまでもない。現代人のほとんどはそんなアンテナのカケラもないわけで、しかしないからこそ、シアワセなのでもある。
最後に、ハラリ博士の「歴史を学ぶ意義」を私の言葉で引用。原文を引用したくても場所が分からないし、そもそも博士の他の著作だったかも知れない(『ホモ・デウス』だったかも?)
ハラリ博士の主張は、下記。私はホントにトテモ大きなウロコを目から落とし、これ以降常に脳の片隅の一部を占有することになった。
「歴史を学ぶ意義は、その時代やその国という時間的・空間的条件の中で、人類がどういう制限を受け、それによってどういう(思考的・行動的に)偏りを呈していたか、ということを学び、翻って『それでは現代に生きる我々は、どういう条件でどういう制限・拘束を受けていて、どういう偏りやバイアスを(無意識裡に)持ってしまっているのか?』を悟り、その制限(洗脳)から自らを解放することだ」
…原文はカナリ異なる言い回しだったと思う。
最後の最後に。
私は月に一度、曹洞宗の寺院で早朝坐禅をしているが、その若いご住職が「坐禅とは、『人間であることの洗脳』を解くことです」とおっしゃっていた。たぶん半年くらい前のことだ。
…その回の参加者は全員感じ入っていたが、それこそ魚に説教する聖アントニウスじゃないが、皆さん忘れ去ってしまったことだろうと思う。ま当然。
しかし私は、それから半年間、この言葉がアタマを離れない。
ハラリ博士が言う「特定の時代・特定の国による洗脳」というのを解くだけでも、大変なことだ。現実に私は現代日本の「腐った資本主義根性と民主主義的事なかれ主義」に気づいて、この呪縛から逃れようとエライ苦労している。
しかし釈尊の言われる境地は「人間であることの洗脳」というのだ。
さらに次元が2つくらい上がってる感じ。
…もしもそれを解いたアカツキには、どういう境地が待っているのだろうか?