【連載小説】僕のセイシュンの三、四日 #11
この物語はフィクションです。登場するあらゆる個人、団体、組織、事件、SNS等は全て架空のものであり、実在のものとは関係がありません。
また、この作品は2013年にKDP/Amazonにて発行された電子書籍版に加筆・修正をし、連載形式に分割して再発表するものです。
ここまでの話数は↓のマガジンに纏められています。
○
僕は何時の間にか自分の部屋に居て、泉の夫で砂羽の父親とその子供を置いて行った母親に、茶を出そうとしていた。
構わないでくれ、と田宮は言った。
僕だって構いたくなかった。
だが、何故だか身体が勝手にそうしてしまうのだった。
「良い部屋に住んでるね。僕が学生の頃は風呂も無かった」と田宮は部屋を見回した。
そうですか、と僕が相槌を打ったきり、部屋は重たい静寂に満たされた。
鳴海さんが勝手にベッドに砂羽と横たわって、ハナシしたら? と面倒くさそうに呟いた。
だが、何から話していいものか掴みかねている様子で、田宮は狭い部屋の壁に遠い視線を揺らしていた。そして、そうだな、と言うと、座り直して頭を下げた。
「今回は砂羽の事で君にも迷惑を掛けたようだ。すまない」と田宮は言った。
いえ、そんな、と言いながら、大学での出来事を伝えるべきだろうか、と僕は考えていた。
鳴海さんが悪びれた風もなくニヤニヤと薄笑いを浮かべていた。僕は何も言わない事にした。無駄で、無意味な事のような気がした。
僕は田宮をぼんやりと眺めた。
「鳴海が本当に砂羽を置いてくるとは思ってなかったんだ。ちょっとした喧嘩の売り言葉に買い言葉だと……。本当に謝る」
申し訳無い、と田宮はまた頭を下げた。
謝られた所で、何を許せば良いというのか僕には分からなかった。
そんな田宮に白けた視線を向けて、鳴海さんは「そんなことどうだっていいじゃない」と言い、「ね?」と僕に同意を求めた。
僕の首は縦にも横にも動かなかった。代わりに田宮が低い声で言った。
「お前は黙ってろ」
「何よ!」と鳴海さんは身体を起こした「泉のカレに別れるのを手伝わせるんでしょう? 早くそのハナシしなさいよ」
「いいから、黙ってろ!」と田宮は怒鳴った。
そして、僕に向いて、また、すまない、と言った。鳴海さんはふて腐れて、投げやりにまた横たわった。
「聞いての通りだ」田宮は言った「僕は泉とちゃんと別れようと思っている。と言うのも、砂羽のためだ。来年小学校に上がる。正式に家族になった方が何かと良いのじゃないかと思ってね」
僕は直感的にこの男の話をこれ以上聞いちゃいけないと思った。
しかし、その直感がこの数日全く当てにならなかった事を僕はイヤと言うほど思い知らされていた。
「君は本当に何も知らないのかい?」と田宮が訊いた。
僕は畔に立って、それが水たまりなのか、底なし沼なのかを量りかねている様な気分になった。
それを確かめるためにはどうしても一歩を踏み出さなければならなかった。
しかし、それを僕はとても恐ろしく感じた。
「色々あったんだ」
泉の夫が、泉の姉に子を産ませたのだ。そりゃあ色々あったのだろう。
好奇心が無かったと言えば嘘になる。
僕は田宮をただ見詰めた。田宮は滅多打ちにされた投手の様な目で僕を見ていた。そして卑屈そうな微笑みを浮かべて言った。
「事情が事情だから、君と泉の関係に文句は言えないし、これからも言わない。僕らの街に戻ってこいとはもとより言わない。必要なら慰謝料も払う。まあ、サラリーマンだから、額には限度があるけどね」
田宮は一つため息をついて、僕の出した茶を口元まで運び、しかし、飲まずに卓に戻した。
「泉は」と田宮は言った「僕と鳴海の事のせいで、突然姿を消した。唯一行方を知っていたのはお義母さんだけだったようだ。勝手に手帳を見て押しかけた鳴海とは話をしたそうだが、結局別れないの一点張りだったらしい。だから、もう君に頼むしかない。泉に僕と離婚するよう言ってくれ」
田宮はまた頭を下げた。
安い頭だなと僕は思った。
声にならない言葉が腹の底から上がって来て、胃がムカムカした。
僕はこの大人が何時まで僕に頭を下げていられるだろうとふと思った。
僕は数えた。一、二、三、四、五、六、七――。
それを遮ったのは鳴海さんだった。起き上がり、田宮に向かって叫んだ。
「何ペコペコしてんの? 泉だってこのコと十分楽しんだでしょうよ。このコにしてもこれから泉を独り占めに出来るんなら、言う事聞くしかないでしょ?」
田宮は頭を上げ、鳴海さんを見ずに、「出ていてくれ」と呟いた。
「は?」と鳴海さんは聞き返した。
「お前がいると、男同士の話が出来ない。駅前に喫茶店があったろう。砂羽と一緒にそこで待っていてくれ」
田宮は立ち上がり、鳴海さんの腕を取って、身体を起こさせた。
「何よ、何なの?」と鳴海さんは不満げに田宮に訊いたが、田宮はその視線を鳴海さんに向ける事は無かった。
結局鳴海さんは文句を言いながら、砂羽を連れて部屋を出て行った。
僕は結局砂羽の声を一度も聞くことはなかった。
ドラマなら、最後に子供が主人公にしがみついて離れたくないと泣きじゃくるのかも知れないと思った。
でも、現実世界ではそう都合良くは行かないのだ。
田宮は床に腰を下ろすと、またそのほの暗い目で僕を見詰めた。
「すまない」と田宮はまた言った「関わりのない君に一方的にお願いしてしまっているのは分かっている。今度は君に要望があれば訊いてみたい」
関わりのない? と僕は思った。
アンタが僕と泉の何を知っているんだ、と言いそうになった。
しかし、それは同じく自分に返ってくる言葉だった。
この男と泉の間にある物を僕は何も知らなかった。
僕はこう言わざるを得なかった。
「ちゃんと聞かせてください。アナタ達の事を。正直に。誠実に」
田宮はそう言った僕を平らな目で見て、表情も変えず二度頷いた。
○
僕は大学二年生だった。
八月のはじまりの頃、同じ大学の友達だった女の子がちょっとした事故で入院したんだ。
彼女から電話があって、アルバイトの代打を引き受けて欲しいと頼まれた。
受験を控えた高三の英語の家庭教師ということだった。
僕は正直あまり自信が無かった。
でも、彼女が言うには、適当に時間を潰せば良い、どうせ向こうは真剣に勉強しようとしないから、との事だった。
どうして僕に頼むのかを訊いたよ。
別に深い理由は無かった。男からの方が、もしかしたら、言う事を聞くんじゃないかと思ったそうだ。
彼女の知ってる中では、僕が一番真面目そうに見えたのもあったらしい。確かにそれくらいしか自分には取り柄が無いように思っていた。
とにかく僕は少なからずその女の子に気があったから、結局そのアルバイトを引き受ける事にした。
沢崎の家は、無個性な良くあるマンションだった。
初めてチャイムを押す時には、ドキドキした。
インターホンに名乗る時には声が震えた。
ドアを開けてくれたのは、まるで少年みたいな短髪の女の子だった。にっこり笑ってくれてね。受験生にしては幼く見えるなと思ったが、聞いていたのと違って、素直そうだった。
僕は何故だか落ち着いた気分になった。
遅れて母親が出て来て、僕を労いながら、リビングまで案内してくれた。
父親がソファから立ち上がって、僕を迎えてくれた。
僕は簡単に自己紹介して、勧められるまま、上座のソファに座った。
両親とその娘も座ったよ。父親が長々と話をしたな。
父親が言うには、沢崎の家の両親は共に高卒でね。父親は親のコネで公務員になったが、学歴のせいであまり出世が出来ずにいたそうだ。
娘には同じ轍を踏ませたくない、大学へは是非とも行かせたい、宜しく頼むと頭を下げられた。
大人にそんな風に頼まれるというのは、こそばゆいような、誇らしいような、変な気分だったのを良く憶えてるよ。
その横で、さっきの娘がニコニコと笑ってた。
何て言うか、僕はこの娘となら、仲良くやっていけそうだと思った。
それで、じゃあ、早速授業をしようか、と僕はその娘に言った。
すると、少し驚いた後、楽しそうに母親と視線を交わして、「違います、先生」とその娘は言った。
母親も微苦笑しながら、申し訳ありません、先生、実は教えて頂きたいのは、この子の姉の方なんです、この子は次女の泉と言います、高一です、長女の鳴海の方は、今日はどっかへ出かけたきり、まだ帰って来ないんです、と言った。
その時も、僕は何だか、虚を突かれたような、恥ずかしいような、がっかりしたような、変な気分になった。
僕は照れ隠しに、何ならお姉さんが帰ってくるまで妹さんの勉強を見ましょうか、と提案した。
すると、泉の顔がぱあっと輝いた。でも、ふっと不安そうに眉をひそめて、両親の顔を見たんだ。
両親もちょっと困ったような笑顔を浮かべて、視線を交わした。母親が、この子は一人でも勉強する子なんです、と言葉を濁した。
僕は授業料の事だと思った。だから、いや、これはお近づきのシルシのサービスです、どうせ本人が居なければ無駄な時間になってしまいます、と言った。
すると、父親が恐縮した風に、それじゃあ、お願いしたらどうだ、と母親に言った。母親も申し訳なさそうに頷いた。
泉はそれを見ると、飛び跳ねる様に立ち上がって、僕の手を取り、先生、こっち、と自分の部屋まで引っ張って連れて行ってくれた。
僕は何かとても良いことをしてるような気がした。
泉の部屋は、狭いけれどちょっとした図書室みたいだった。どっちを向いても本が並べてあった。僕が知っているぬいぐるみとかピンクの小物に溢れた女の子の部屋とはちょっと違っていた。
国語便覧に載っている様な本は全部あるのじゃないかと思った。
紙の匂いがした。
これ全部読んだの? と僕は訊いた。全部じゃないけど、三分の二くらいは読んだと泉は答えた。
それにしたって、僕のそれまでの人生で読んだ本の数をゆうに超えていたと思う。
泉は、書棚の一つ一つ示して、ここからここまではお爺ちゃんの形見で、こっちは小さい頃に買って貰った児童文学全集で……と説明してくれた。
そんなに読書家なら、僕の方が教えてもらわなきゃいけないかも知れないな、と僕は泉に言った。
お愛想じゃなく、本当にそう思った。
泉は慌てて、そんなことない、英語は苦手だもの、と言った。その様子がとても可愛らしくて微笑ましかった。
国語は得意でしょ? と訊いた。泉は、はい、と答えた。
国語が得意な人は実はどの教科も得意なんだよ、試験なんて物は読むチカラと書くチカラがあれば、後は中身を換えるだけなんだからね、と僕は言った。
僕の言葉じゃない、高校の国語教師の受け売りだ。
だけど、泉はすごく嬉しそうな笑顔を浮かべた。
何故だか罪悪感を刺激する笑顔だった。
僕は無警戒の子供を騙しているような気分になったんだ。
それを誤魔化すために僕は無理矢理厳しい顔を作った。
でも、中身を換えるにはそれなりの努力が要る、要領も必要だ、と僕は言い、できるかい? と訊いた。
泉は少し俯いて何か考えてから、はい、と真剣な顔で答えた。僕はその素直さに感心し、そして、五文型についての話をした。
そこに父親の怒声がリビングから聞こえて来た。
泉は、お姉ちゃんが帰ってきた、と呟くように言った。
はいはい分かった分かった、とうんざりしたような声が近づいて来て、そして、ノックも無く部屋のドアが開いた。
鳴海だった。
鳴海は無表情に僕を上から下まで見ると、小さなため息をついた。
僕のことをお気に召さなかったのがはっきり伝わるようなため息だった。
僕は何と言っていいか分からずに、やあ、と言った。
泉は僕と鳴海の表情を交互に見て、お姉ちゃんが帰ってくるまで教えて貰ってたの、と言った。
その目がせわしく動いていた。
僕は何か不味い気分になりながらも、鳴海に自己紹介した。
鳴海はぱっと笑顔を作ったが、その目は泉を睨んでいた。
そして、鳴海は、アタシのモノを取らないで、と言い、僕の腕を掴んで泉の部屋から引きずり出した。これが僕たちの出会いだった。
鳴海と僕との最初の授業は、夏休みの宿題が残っていると言ったので、それを片付けることで合意した。
学力を知るにも丁度良いと思った。
聞いていたのと違って、真剣に取り組んでいる様に僕には思えた。
確かに出来が良いとは決して言えなかった。
新品同然の辞書を見れば、普段勉強してないことも明らかだった。
質問はまるで的外れだったし、単語の綴りもいちいち怪しかった。
中学英語からやり直した方が良いと本当は思ったが、僕が教えるのはせいぜいひと月、八回位の筈だったから、到底それは無理だった。
それでも僕は一生懸命教えようとした。
鳴海が単語の意味をわからなければ、辞書の引き方まで含めて教えたし、長文が分からないと言えば、文節ごとに区切ってどう訳すかを説明した。
その度、鳴海はナルホドとか、スゴーイとか、感嘆の言葉を漏らしながら、僕の肩や背中を軽く叩いたりつついたりした。
僕はまだ若かった。生徒とはいえ、女の子に感心されて悪い気がする筈もなかった。
調子に乗った。いや、今思うと、乗らされたんだな。
何時の間にか宿題の答え全部を僕が解かされていた。
はっとして鳴海を見たよ。鳴海は笑みを浮かべて、こう言った。「先生、我慢してたけど、アナタ、クサイわ」
僕は言葉を失った。
鳴海の学力を量ろうとしたつもりが、品定めされていたのは自分の方だったとその時気付いた。
そして、鳴海の「クサイ」という言葉はまだ若い僕の心に深く刺さった。それが気になって、沢崎家からどう帰ったのかも思い出せないくらいだった。
僕はその晩銭湯で思い切り身体を擦った。
でも、その言葉までは洗い流せなかった。
情けないだろう? 僕は完全に鳴海に主導権を取られたんだ。
その後の授業は推して知るべしだよ。まず、鳴海は時間通りに帰宅した試しがなかった。必ず、三十分は待たされた。
ようやく現れても、机には簡単に着こうとはしなかった。
僕は鳴海にニオイを嗅がれない距離を保つのに腐心していたし、鳴海は関係ない事ばかり訊きたがった。
恋人はいるかとか、入院している女の子とはどういう関係かとか、どんな遊びをするのかとか、いい男は友達にいるかとか、そういう事だ。
制服のスカートをひらひらさせて、女子高生は好きかと訊いた事もあったな。
童貞かどうかもしつこく訊かれた。
僕は童貞だった。
が、分かると思うが、若い内は童貞である事がとても恥ずかしい事だったから、質問に答えなかった。
すると、鳴海は「クサイ、童貞クサイ」と鼻をつまんで見せたりした。この生徒は僕の手には負えないとつくづく思った。
一方で、泉とは親しくなれた。
鳴海が遅刻すると、僕はリビングのソファで待つことになるんだが、そういう時必ず泉は教科書やらノートを持って遠慮深げに僕と母親の顔を覗くんだ。
僕は快く勉強を見た。別料金は要らないと母親には言った。
母親は最初の時と同じ申し訳なさそうな目をしながら、それでも微笑ましげに泉を見ていた。僕も鳴海に対するのと違って、妙な安心感を持って泉に接する事が出来た。
泉は興が乗ってくると前のめりに僕に頭を寄せて来ることがあった。
僕は鳴海に言われてから、他人に自分のニオイを嗅がれるのが怖かったから、仰け反る様に教えた。
泉が不思議そうに、どうしてそんな風にするのか僕に訊いた。
クサイだろ? と僕は逆に訊き返した。
すると泉は僕の腕に鼻を寄せ、くんくんと二、三度嗅いで、特に他意も無さそうに、全然、と言った。
本当にクサイにしろそうでなかったにせよ、この子は良い子だなと僕は思った。
こっちだったら良かったのに、と改めて思わずにはいられなかった。
○
田宮は冷めた茶を口に運んだ。そして一口啜ると、僕を見詰めた。
「こんな感じでいいだろうか?」と田宮は訊いた「君の知りたい事はこんな事かい?」
僕はすぐには答えられなかった。
「いまの、どうしても必要なくだりですか? 回りくどい気がします」と僕は応えた。
「上手く整理がつかないんだ。この事を話すのは初めてだしね」と田宮は言った。
田宮は苦々しげに唇の片方を上げて微笑した。それを見て、怒りと困惑が同時にこみ上げてくるのが分かった。
「まるで自分は被害者だと言いたがっている様に聞こえます」と僕は言った。
意外そうな顔をして、「そんなつもりは無い」と田宮は言った。
そして、何かを反芻するみたいに口を動かして、もう一度「そんなつもりは無いんだ」と僕に訴えかけた。
僕はそんな事で、田宮と言い争うのは時間の無駄だと思った。
僕は静かに頷いて、田宮の話を先へと促した。
<#11終 #12に続く>
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