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僕はハタチだったことがある #02【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2014年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)から最新話までをまとめたマガジンはこちら↓です。


 


 春休みのうちに僕はハタチになった。
 ゆうきや琴子が僕の部屋に押しかけて来て、ささやかなお祝いのパーティをしてくれた。嬉しかった。
 でもそれ以上に僕の頭は混乱していた。
 間違い無く君のせいだった。
 僕はあの時、拘束が解けたのと同時に訳も分からず逃げ出した。だけど、僕はちゃんと君に問いただしておくべきだったんだ。
 僕は、もしかしたら、男にイカされたのかも知れなかった。あの時の快感が激しかったからこそ、僕の心は重かった。
 そもそも、そんな「罠」にかけられる理由が分からなかった。
 何かにつけ、アレは僕の脳裏を過ぎった。
 何? あたしたちに祝って貰って嬉しくないのかよ、とゆうきは言った。
 そんなことないよ、と応えながら、僕はゆうきの顔をまともに見ることが出来なかった。
 ほら、男の子だもの、若い女の子に祝ってもらいたかったのよ、と琴子はいつもの「笑顔」で言った。
 いないのか? そういう子、とゆうきは訊いた。
 君の顔が思い浮かばないでも無かった。でも、アレをそういった種類のものだとも思えなかった。僕は、いないよ、と応えた。

 君がまた僕の人生に現れるくだりに戻る前に、僕は、この二人――相馬ゆうきと軽部琴子かるべことこについて、ちゃんと説明しておくべきなんだと思う。かけがえのない人達だ。
 
 僕は高校卒業まで父方の叔母であるゆうきと暮らしていた。君も知っての通り、というか、君の方が良く知っているだろうけれど、僕は五歳で両親を亡くした。以来、ゆうきに育てて貰った。
 実質殆ど両親の記憶の無い僕にとっては、その時も、今も、一番大事な人だ。
 厳しくて、優しくて、颯爽としていて、背が高くて、君も容姿に関してはかなり整っている方だと思うけれど、ゆうきは本当の本当に美人だった。
 君は、同じ人間じゃないわね、といつか言ったっけ。
 化粧をすると目立ち過ぎると言って、眉毛の手入れ以外は、殆どすっぴんで通した人だった。
 胸だって大きかった。小学校に上がる前、僕が寝付かない時には、よく添い寝して抱き締めてもらった。あの柔らかくて暖かい息苦しさが今になると懐かしい。
 付け加えて告白すれば、恥ずかしいけれど、僕は「乳離れ」が遅かった。小学校三年になるまで、何かにつけゆうきに抱きついては、その胸を触っていたような気がする。ゆうきが嫌がる素振りを見せたことも無かった。
 でも、三年の始業式の日、いつものように抱きつこうとすると、ゆうきはきっぱりと、「もうお兄ちゃんになったんだから、そういうことはできないのよ」と言った。
 それが本気だとわからなかった少年の僕は、また無邪気に飛びついた。でもゆうきはがっちりと身体を固め、僕の肩を掴んで、自分から引きはがした。僕があきらめ悪く何度飛びつこうとしても、ゆうきは僕の肩を押さえたまま、もう絶対に胸を触らせようとはしなかった。
 泣いたよ。泣き叫んだ。
 さびしさというか、喪失感というか、悔しさというか、上手く言えないが、そういうごっちゃになった悲しさで「僕はお兄ちゃんにならない」とわめいた。ゆうきは、言葉を返すことは無かったけれど、その大きな目を僕から逸らさなかった。
 美人の真剣な顔っていうのが、冷たくて、怖いものだと僕はその時知ったのかも知れない。
 恐らく、僕の自立を促すためだったんだろうと今は思う。確かに男の子がいつまでも保護者の胸を触って甘えているのは格好つかない。ゆうきだってその程度の思いだったんだろう。
 でも僕はその時、何か胸の中にくぼみが出来たような気がした。それはとても悲しいくぼみだった。
 だけど、それが何か決定的な空洞にはならなかったのは、ゆうきが「あたしは親じゃないから」とは言わなかったからだ。
 僕は今になってそのことに感謝している。
 そしてゆうきもそれ以外は変わらなかった。休日には、色んなところへ連れて行ってくれたし、プラモデルも一緒に作った。キャッチボールやサッカーだって相手をしてくれた。対戦ゲームの最大のライバルもゆうきだった。何でも出来る人だった。
 家事以外は。
 そんなゆうきを見て、まるで男親だったねえ、と言ったのは琴子だ。
 琴子はゆうきの高校時代の後輩だ。
 どんな表情をしても笑っているように見えるという特技(?)を持っている。
 親戚が死んでも、「アレは笑い顔しかせんから、葬式には呼ぶな」と言われるくらいだそうだ。
 その特技のせいで、いじめにもあったらしい。ある同学年のバレー部の女生徒が好きな男子にふられた。バレー部のグループで慰めていたが、琴子だけが笑顔だった。
「勿論同情はしてたのよ」と琴子は言う。
 でも周りにはそうは見えなかった。むしろふられたことを喜んでいるように見えた。そのデリカシーの無さに批判が起こり、遂には実はそのふった男子を琴子が狙っていたというデマとなって、一斉に部員から攻撃を受けるようになった。
「いや、あたしはそんなこと気づきもしなかったのよ。なんだかものがなくなるなあ、とか、お話相手が最近いないわ、とかそんな程度にしか思ってなかったの。あたし、ほら、どんくさいでしょう?」と琴子は“笑って”言う。
 それを救ったのが、部長のゆうきだった。
「ある日の部室でね、皆の前で、『お前、ヤマザキ――振った男の子のことだけど――のことが好きなのか?』って。
 あたし、びっくりして『違いますけど』って応えたの。
 そしたら、部員の一人が『嘘ばっかり』とか言ってね。それで皆色々あたしを罵るようなこと呟くように言って。
 それを黙って聞いていたゆうきがね、『あたしもヤマザキが好きだ』と言ったの。
 皆、一瞬しんとしたんだけど、誰かが『冗談ですよね』って訊いて、『いや、本当だけど』って何食わぬ顔でゆうきは応えたの。また、皆黙ったわ。
 そしたらね、ゆうき、『今まで軽部にしてきたことを、あたしにもできる奴だけ、これからも同じ事をしろ』って。
 うん、あたし、その時その意味がわからなかったんだけど、その後、ゆうきが何かと声掛けてくれるようになって、そしたら、お話相手がまた増えてきて……ゆうきが卒業の時、『またいじめられたら頼ってこい』って言ってくれて、ああ、ってその時ようやっとたすけてもらったのに気付いたのよ。 
 あら、見栄張っちゃったわ、本当はおうちに帰ってから、気が付いたの。 
 でも可哀相だったのは、ヤマザキ君で、伝え聞いて本気になったらしくて、告白したら、ゆうきってば、『ああ、好きだったけど、もう気が変わった』って――」
 少し脱線したかも知れない。でも、琴子はこんな風に話す。
 どんな思いがあるかわからないけれど、いつも「笑顔」だ。
 そして、救って貰った恩を琴子は忘れなかった。まるで父子家庭のようだった僕たちの「母親」になった。
 ゆうきと僕の住んでいるアパートに自分も部屋を借りて住み込んで、料理やら、洗濯やら、家事一切を引き受けた。
 琴子は料理が、特に、上手い。
 僕は遠足なんかの行事の時の弁当が本当に嬉しかった。毎日の食事がとても楽しかった。
 僕は寂しくなんかなかった。そこが、恵まれていた点で、君とは決定的に違うところだ。
 僕は君のように過去の出来事にとらわれる必要なんかなかった。
 あほみたいに単純だった。
 君はきっとそんな僕に随分といらついただろう。今なら、少しはわかるような気がする。
 でも、僕は君にはなれなかった●●●●●●

「あるんだろ?」とゆうきは訊いた。
「何も無い」と僕は応えた。
「怪しいな」
「何も無いってば」
 ゆうきは何かを疑うような目つきで僕を見ていた。僕は頬が熱くなるのを感じた。ま、とゆうきは床に手を付いて天井を仰いだ。
「ま、お前ももうハタチなんだし、何をしようがとやかく言うつもりもないよ」
「何もしてないよ」
 されただけだ、と僕は思った。
「あたしはさ、聡太、お前には自由に生きて欲しい。だから、高校を出る時、あたしの部屋を追い出した」
 僕はあの「家」を出るつもりなんてなかった。進路だって部屋から通える市内のスクールに決めた。ずっと、ゆうきや琴子と暮らすもんだと思っていた。
 だから、ゆうきが「お前、ここから出て行きなさい。もう大人になるんだから」と言った時、あの「乳離れ」を思い出さずにはいられなかった。
 でも、きっとゆうきは知っているんだ、とその時の僕は思った。
 僕はもう駄々なんてこねることができなかった。
「本当にいい子いないのかい? 好きな子も?」
「……いないよ」
「せっかく自由にしてやったのになあ……」
 ふざけたような憐れみの顔でゆうきは僕の顔を見た。すみませんね、もてなくて、と僕は視線を逸らした。ゆうきは僕にビールを差し出しながら言った。
「相馬の男が短命なのは知ってるよな」
「ああ、何遍も聞いた」
「ま、お前もそうだとは限らないけど、何でも――」
「『やれるときはやっておけ』だろ? それも何遍も聞いたよ。おかげで酷いことに……」
 僕は言いかけて、言葉を止めた。そして上目遣いにゆうきの、その三十の半ばを越えても美しい顔をのぞき見た。いたずらっぽい笑顔で僕を量るようにゆうきは僕を見詰めていた。いつも思った。「きっとこの人は自分が美しいということを知らないんだ、だから、こんなに表情が豊かなんだ」と。
「酷いこと?」とゆうきは訊いた。
「別に」と僕はごまかした。
 やっぱり怪しいな、と呟いて、すぐ、ま、いいけどな、とゆうきはビールのグラスに口を付けた。琴子がかいがいしく鍋から特製の海老団子やら白菜やらを僕たちの椀に取り分けていた。
「お前は自由だ」ゆうきは言った「大学だって行きたければ、今からでもいいんだよ。遠慮してるなら――」
「してないよ、遠慮なんか。ただ、難しい勉強はもうしたくないだけだよ」
 遠慮なんかしてないんだ、と僕はもう一度繰り返した。ゆうきは身を乗り出して、鍋越しに僕の頭に手を置くと、優しげな声で言った。
「そうだな。お前は遠慮なんかしなかった。だから、あたしはお前を育てることができた」
 助かったぞ、とゆうきは僕の髪をぐしゃぐしゃに掻き撫でた。
 僕は、その手をうっとうしそうに振り払ったけれど、本当はいつまでだってそうしてもらいたかった。
「自由に生きろ」再びそう言うと、ゆうきはビールを呷った。

 速いピッチで飲んで酔ってしまったゆうきを琴子が支えるようにして、二人は帰って行った。玄関で、聡ちゃんのハタチ、よっぽどうれしいのね、と琴子は言った。
 そんなもんかな、と僕は訊いた。
 そうよ、あたしにもわかる、だって、あたしもうれしいもの、といつもより目尻を下げてみせた。
 一人になって、僕はゆうきがしたように自分の頭を撫でてみた。
 何も感じなかった。
 あの手の感触が蒸発していってしまったのを悲しく思った。
 そして、自分の手では、何の代わりにもならないことが苦しかった。
 ゆうきが僕に触れた、ただそれだけのことがあんなに特別だった理由を、僕の秘密を、今なら言える。
 僕の初恋は、間違い無く、ゆうきだったんだ。
 君はもう知っているのかもしれないけれど。



 スクールは、春休みの内に何人か辞めていった学生がいたほかは、取り立てて変わりも無く新学期を迎えた。
 いや、多少のもめごとはあった。
 スクールでは、卒業式兼終業式で、各学年の年度代表を発表する。
 僕は一年生のそれに選ばれた。
 選考基準は入学当初から言われていた様に、定期テストの得点や資格取得状況、課題の提出の有無などだが、まず大前提にあったのは無遅刻・無欠席であることだった。
 多くの学生がそれを守れなかった。
 僕は特に真面目だったとは思わない。が、ただ健康だったからという理由で、一度も休まなかった。他にすることがないから、勉強もした。
 それが若さを享受するあり方としてどうか、という問題はともかく、テストの結果はなかなか良かったと思うし、資格もそこそこ取った。そのおかげで、夜のコースのアシスタントにも選ばれたわけだ。
 そしてそれは、結果的にスクールに貢献したことになった。
 榛名先生に言わせれば、全会一致の、文句なしだったよ、という事だった。
 しかし、快く思わない人間がいた。
 桂木浩介かつらぎこうすけだ。
 二年生初日の授業前に、講師陣や職員に食ってかかった。怒声は教室にまで聞こえた。色々と言葉は飛んだけれど、要は「自分こそ相応しい」というのが、彼の言いたいことだったらしい。
 山田貴句やまだきくは、「何あれ?」と呆れていたけれど、彼が必死になる理由もわからないではなかった。
 年度代表に選ばれると、奉明計算機情報スクールの出資元の一つであるコンピューター関連の某社への就職がほぼ確約されるという暗黙の了解があった。
 もし、そこを蹴ったとしても、スクールで最も優秀であったということは、面接などではウリの一つになる。
 そして、就職で有利であろうとするなら、就職活動が始まる前の、一年生での年度代表選出が絶対に必要だった。
 桂木は、どうしても、それが、欲しかった。
 彼は僕たちより四つ年上だった。大学を中退したとか言う話だったが、その時はあまり詳しいことを知らなかった。
 僕に言わせれば、彼の方がよっぽど真面目だったし、才能もあった。彼が画像処理ソフトで描いた絵は、あるコンテストで一次審査をパスした。それはスクールの学生としては初となる快挙でもあった。
 二次審査こそ通らなかったが、彼の作った画像には僕は素直に感心した。
 だから、もし、年度代表が僕でなく、彼であっても、僕は文句を言わなかっただろう。
 でも、彼がついていなかったのは、定期テストの時、インフルエンザにかかってしまったことだった。彼は(はた迷惑ではあったけれど)病をおして、テストを受けに来た。しかし、その結果はさんざんなものだったらしい。
 だからお前のせいじゃない、気に病むな、と榛名先生は後で僕に気を遣ってくれた。
 でも、彼が大騒ぎした後、ふてくされたように自分の席で殺気のようなオーラを放っていたせいで、教室の雰囲気は、どこか重いものになった。
 クラスメートの多くは彼を精神的に遠巻きにし、ついでに原因のひとつである僕までをそうした。
 居づらいことこの上無かった。
 でも、時間が経てば元に戻る、と僕は思って授業に集中することにした。

 変わりが無かったのは授業の方だ。ただ習うソフトが変わっただけの話だった。
 何で、あのスクールは「計算機画像デザイン学」だの、「高度計算機造形工学」だの、「応用映像作成学」だの、持って回った言い回しを授業に冠したんだろうと今でも思う。
 要はフォトレタッチソフトやら、3Dソフトやら、動画編集ソフトの操作方法を教えるだけだったのに。
 そう言った名前のせいで、変に尻込みしたり、逆に肩すかしを食ったりする学生が殆どだった。山田貴句にしても、その一人だった。その日の放課後、隣の席で彼女は言った。
「あたしさあ、ここに入ったら、何かこう、スゴイことができると思ってたのよ」
 慣れた手つきでマウスを動かしながら、貴句の目線はモニタから動かない。彼女は何かを描いていた。
 僕はその絵を見たことが無かった。何故なら、貴句は作成中の画像を見られるのを極端に嫌ったし、その絵は完成したことが無かったからだ。
「スゴイことって?」と僕は訊いた。
「そりゃあ……何か、こう……スゴイことよ」と貴句は応えた。
 もう、いい加減、ペンタブくらい買ってよ、と貴句は小声で設備投資を渋る最近経営が厳しいらしい場末のスクールへの文句を言った。
 僕は僕で、その日習ったことのおさらいをしていた。
 僕の部屋にはまだコンピューターが無かった。勉強しようとすれば、居残るしかなかった。
 他の学生もコンピューター所持率は高くなかったはずだが、居残ってまで復習する人間などそう多くはなかった。その日は貴句と僕と水谷基みずたにはじめが残っているだけだった。
 水谷は前の席で僕たちに振り向いた。
「わかる、何か、こう、スゴイことな」と水谷は言った。
「そうそう、スゴイこと」と貴句は応えた「でも、実際はちまちまソフトの操作方法を習うだけだし、作例なんか子供のお遊びみたいなもんだし、それにしたって、見本みたいには作れないし……なんていうかなぁ……」
 貴句は、ばん、とマウスを持った手を机に叩きつけて、僕を見た。
「騙された?」
 僕は、学校説明会にいたんだろ? と貴句を見もせずに言った。
「だから、それに騙されたのよ」と貴句は言った。
「あの校長、うまいんだよ、話が」と水谷は応じた。
 貴句は立ち上がり、オレたちの青春の光と影を弄びやがって、あのくそ校長、呪ってやるぅ、と叫んだ。水谷は、劇場版だな、それは、と人差し指を立てた。わかる? と貴句は嬉しくも無さそうに微笑して、すとんと腰を落とした。
 そしてキーボードに突っ伏すと力無く呟いた。
「あたしのジューク、ハタチを返して欲しい……」
「キクちゃん」と僕はわざとちゃん付けで呼んだ。
「ちゃん付けやめて、落語家じゃないんだから」
「じゃあ、山田くん」
「ちょっとぉ、座布団運ばないよ、あたし」
「貴句」
「何よ」
「まだ、二十歳じゃないだろ? お前」
「でも、確定してるようなもんじゃん」
「それに、お前、僕と違って、絵、描けるんだしさ、漫画家にでもなれば?」
 きっ、と貴句は僕の方に顔を向けた。
「『漫画家にでも』? 『にでも』、と仰った?」
「ダメなのかよ?」
「世の中にはね、あたしより絵が上手い人がごまんといるの。そしてね、ごまんといる絵が上手い人の中のほんの一握りしか漫画家にはなれないの」
「でも、雑誌にだって、そんなに絵が上手くない漫画家はいるじゃないか」
「そういう人はね、切れたギャグとか、特異な観点とか、練り上げられた物語とか、そういうのが突き抜けてるの。それにね、下手そうに見えるってだけで、本当はものすごく上手かったりするのよ」
「そうなればいいじゃん」
「簡単に言わないでよ……」
 貴句はキーボードに額を乗せて、がちゃがちゃと首を振った。
 それから、むくりと身体を起こして、またモニタを見詰めた。マウスを動かすと、あれ? と画面に顔を寄せた。
「あれ? あれ?」
「どうした?」
「フリーズした」
「なんで?」
「知らないよ、三五〇dpiで作ってたから?」
 僕たちの使っていたマシンは当時でも、少し非力なものだった。ウェブ用の画像を作る分には不足は無かったが、印刷用のデータとなると少々荷が重かった。
「なんでだよ」
「ほら、漫画をね、これで作ったらどうかなって思ったのよ」
「ああ……再起動しろよ」
「だって、バックアップ取ってない」
「バックアップは頻繁にするのを癖にしなきゃだめだ」
「だって、集中してたら、つい忘れるでしょ?」
「忘れてても、しろよ。……仕方無い、祈りながら待て」
「祈れ、って……いつまで?」
「知らないよ」
 貴句はキーボードを叩き、マウスを虚しく動かしたが、諦めたように、またつっぷした。
「いいのよ、どうせ、描き上げたところで、たいしたものじゃないんだから。ストーリーも何も無い、ただのカラーイラストだったんだから」
「そうなのか?」
「そうなのよ」
 フリーズした時のあれこれを試した後、結局、電源ボタンを長押ししながら、ううう、と貴句は何かうめいて、がくんと肩の力を落とした。
「ああ、恋がしたい」と貴句は呟いた。
「なんでそうなる?」と僕は言った。
「そうしたら、それを描く」
「不純だな」
「そうよ、恋をしよう」
「すれば」
「相馬、あたしと恋をしよう」
「いいよ」
「え?」
「え?」
「恋だよ?」
「恋だろ?」
「……付き合う?」
「いいけど?」
 貴句は僕の顔を半ば呆気に取られたように見ていた。僕も貴句の顔を見た。
 どちらかと言えば、幼い、良い方にも悪い方にも特徴の無い顔だった。
 僕は貴句と付き合おうとも、付き合いたいとも、その瞬間まで考えていなかった。
 でも、冗談みたいな遣り取りの中で、僕は君との、もしかしたら、タカハルとの、アレを思い出していた。
 男にイカされたとしたなら、男があんな快感を与えるとしたなら……僕はそのことの意味をあの後ずっと考えていた。いまほどそういうことに理解も寛容さもない頃のことだ。自分がそうであるかもしれないことが、怖れに近いものを呼び起こしていた。
 そしてその考えから逃れるために、自分がヘテロな男であると証明する必要があった。僕はちゃんと女を選べる、と安心したかった。
 遣り取りを聞いていた水谷が、いやいやあとはお若いひと同士で、と見合いの席の定型句を使いながら、気まずそうに教室を出て行った。
 貴句は何かを思いついたように姿勢を正し、そして殊更笑顔を作った。
「冗談、だよね?」
「どうだろう?」
「冗談ってことにしよう?」
「それでいいなら」
 よく見ると、貴句は泣きそうな目をしていた。そして、ちょっとやだあ、と頭を抱えた。
「こんなの、漫画の取材にならないよ」
「取材ってなんだよ」
「もっとこう、さ、ドラマチックっていうかさ……とにかく何て言うかさ……」
 貴句は大げさに何度も頭を振って、最後に僕をじっと見詰めた。
「あたしを口説いて」貴句は言った。
「ええ?」
「そしたら、あたし、うん、って言うよ」
「うん、って言うなら、口説かなくていいだろ?」
「じゃあ、言わないから、口説いて」
「断られるのに、口説かないよ」
「じゃあ、断らないわよ」
「なら、口説かない」
「やっぱり、からかってる?」
「からかってないよ」
「とにかく、何か、言って」
「……『付き合おう』とか?」
「言い切りなさいよ、もうっ」
 貴句が僕の頭を叩こうとして、僕はそれをよけた。
 何なのよ、これ、と貴句は目線を床に落とした。
 僕は貴句に向き直り、真剣な顔を作った。
「あのさ、僕は女の子を口説いたことがない」と僕は言った。
「うん」と貴句は応えた。
「どうしたら口説けるかなんてことも考えたことが無い」
「うん」
「でも、今、貴句を口説けたらいいな、って思ってるよ」
「うん」
「これ、口説き言葉にならないか?」
 貴句は不満そうにしばらく僕の顔を見ていたが、何かを諦めたかのように、はっ、と息を吐いた。
「どっかで聞いたことあるような気がするけど……仕方無い、それでいいよ、もう」
 貴句は僕の手を取った。僕はそれを握り返した。
「よろしく」貴句は言った。
「よろしくお願いします」僕は応えた。
 僕たちはその後、何も無かったかのようにマシンに向かった。
 女の子と付き合う、そのことの高揚が無いわけじゃ無かった。
 でも、それ以上に、海を覆う流出した重油のようなうしろめたさが繰り返し打ち寄せてきた。
 貴句はどうだったか知らないが、僕は貴句じゃなくても、誰でも良かったんだ。不潔な気がした。
 そして、いつしかゆうきのことが脳裏に去来していた。僕は自分が一番欲しいものを選ぶことができない、という事実が、いやになるくらい鮮やかに輪郭を露わにした。
 貴句は時折僕を見て、照れくさそうに笑った。僕もそうした。
 でも、自分が下手な役者にでもなったような気がして、いつまでもその自分の笑顔に馴染めなかった。

 スクールはビルのワンフロアを借りているだけだったから、僕たちが出入りする時は、必ず受付の前を通った。その受付を気にするようにして、水谷は教室に帰って来た。
「どうした?」と僕は訊いた。
「一年かな、いや、夜間コースかな、なんか、知らないカワイイ女の子がいた」と水谷は応えた。
 水谷は自分の席に着き、何やらテキストを打ち始めた。
 水谷は画像などは課題でしか作らない。彼は文章を生業とすることを望んでいた。
 なら、何故このスクールに来たのか、というのは良く分からないが、僕にだってちゃんとした理由があったわけでも無い。
 僕たちは昔話をしない。大学にも、もっとちゃんとした専門学校にも行かなかった学生たちには、それぞれ触れられたくない事情があることも多い。水谷も自分のことを話さない。自分から話さない以上、そこに立ち入らないのが僕たちのマナーだった。
 何だかわからない理由で水谷はここにいて、そして彼は彼の言うところの「小説」を書いていた。
 僕はそれを読ませてもらったことがあった。彼の「小説」には情景も心理も、描写というものが殆ど無かった。主に会話だけが書かれていた。
 ウィットに富んだ遣り取りもあったけれど、全体として小説とは言いがたいような気がした。
 感想を求められた時、僕はそのままを彼に言った。すると水谷は、未来の小説なんだ、と言った。あの太宰だって、エッセイで自分は描写が苦手だって言ってるんだぜ? と付け加えた。だからって描写をしなかった訳じゃないだろ? と問うと、欠点を修正するより、長所を伸ばすんだ、と悪びれずに水谷は言った。そういうことなら、僕に言えることは何も無かった。
 そして、彼はその日も「小説」を書き続けていた。 
 そういえば、君ら、結局付き合うの? と振り向きもせず、水谷は訊いた。僕と貴句は顔を合わせ、顎でお互いに指図し合った。
「どうなの?」と水谷は再び訊いた。
「付き合うよ」と僕が応えた。
 そうかぁ、と水谷は頭の後ろで手を組んだ。そして、何度か、そうかぁと繰り返すと、ま、おめでとう、とあまり抑揚の無い声で言った。
 ありがとう、と貴句が言いかけた時、榛名先生の声が「相馬はいるか?」と教室の外から聞こえてきた。入り口に立った榛名先生に「いますよ」と僕は応えた。
「おお、相馬、頼みがある、山田にも」と榛名先生は言った。
「はい?」と貴句は応えた。
「何でしょう?」と僕は訊いた。
「実は、転校生……いや、この場合何て言っていいのか……」と榛名先生は少し言葉に迷った。
「転校生って、小学校や中学校じゃあるまいし、こういうスクールでそんなもんあるわけ無いじゃないですか」と水谷は言った。
「そうなんだよ……強いて言えば、編入生、そう、編入生が来ることになった」
「なんですか、それ」
「極めて異例なんだけど、明日から、このクラスに二人、編入することに決まったんだ。それで、その面倒というか、世話というか、そういうのを相馬にやってもらおうかと思って」
「いや、いいですけど、給料出ます?」
「うん、ごめん」
「ええ?」
「その代わり、二年の年度代表もあたしは全力で相馬を推薦する」
「割に合わない」
「頼むよ」
 榛名先生は胸の前で、手を合わせた。僕は一つ溜息をつき、いいですよ、と応えた。榛名先生はぱっと明るい笑顔を浮かべて、うん、やっぱり頼りがいがあるな、と僕に言い、それから、貴句の肩に手を置いた。
「それで、山田、その席譲ってくれないか?」
「ええ? 何で?」と貴句は不満そうに榛名先生を睨んだ。
「相馬の両隣に編入生を座らせる。そうすれば、色々都合が良い。そっちの隣は空いてるから、山田は他の辞めてったやつの席に移ってくれ、データは一旦MOかなんかに……」
「ちょっと待って、あたしたちの都合は?」貴句は苛立たしげに訊いた。
「“あたしたち”って?」
「あたしと相馬、です」
「相馬は良いんだろ?」
「僕は構いませんけど」と僕は応えた。
「何でよ?」と貴句は僕の肩を叩いた。
 僕たちふたりを少し不思議そうに見比べていた榛名先生は、何か思いついたように、ああ、と言った。
「あんたたち、付き合ってるの?」
「まさしく、ホヤホヤですよ」と水谷が応えた。
「そういうのは、実にどうでもいい」と榛名先生は本当にどうでもよさそうに言った
「どうでもいいってどういうことですか?」と貴句は食ってかかった。
「お前、アレか、好きな人の隣じゃないと仕事が出来ないとでも、社会に出て言うつもりか?」
「そんなことは……ありませんけど……ここは社会じゃないじゃないですか」
「ここだって、社会の一部だよ。自覚を持て。何でもいいから、そこを明日の朝までにあけろ。相馬の両隣以外の空いてる席なら、どこに移っても良い権利をやる。それから引越用のMOもくれてやる」
 うえー、と貴句はまたキーボードに顔を突っ伏した。ご愁傷様、と水谷が苦笑しながら言った。僕は少し不思議に思って榛名先生を見た。
「でも、一年でやることすっ飛ばして、二年の授業についていけますか? いくら何でも全部僕が教えながらと言うのは……」
「いや、まるっきり素人って訳でもないんだ」
「はあ」
「知ってるだろ? 夜間コースにいた、早田さんと近藤さん」
 授業料は二年分払う、卒業資格も何も要らない、聴講生として捉えてくれれば良い、と君が押し切ったと榛名先生は言った。まあ、うちも経営良くないらしいし、欠員もあったからな、とも。
 僕は、冷や汗というのが本当に流れるものだということを、初めて背中で感じていた。
 自分がそれほど執着されると思うほど自意識が大きかったわけではないけれど、考えれば考えるほど、僕にも何か関係があるとしか思えなかった。
 だとしても、一体、僕はどうすればいいのかさっぱりわからなかった。
 わからないことは考えない、そんな風に割り切れるほどの経験は僕にはまだ無かった。
 僕は既に君に振り回されていた。

 僕たち三人は一緒にスクールを出た。
 帰り道、僕は心の中にやすりでも突っ込まれているかのようなざわめきに支配されていた。恋人になりたての貴句に気を遣うことすらできなかった。
 だからどういう流れで水谷がそんなことを言い出したか憶えていない。
 あのさ、と水谷は言った。
「俺さ、山田のこと、少し、いいな、と思ってたんだよ」
 え? と僕と貴句は同時に声を挙げた。
「“かなしきもあわれも類多かるを”ってヤツでさ、良い言葉探してる間に言いそびれちまった」
 そう言うと、水谷は手を上げて、地下鉄の改札に消えていった。僕と貴句は呆然とその場に立ち尽くした。
「これって、つまり、三角関係ってこと?」と貴句は訊いた。
「どうする?」と僕は訊き返した。
「どうもこうも……もう付き合ってるじゃん」
「そうなのかな?」
「そうだよ、付き合ってるんだよ」
 いつしか貴句の手が僕の手を強く握っていた。
 僕は貴句の顔を見た。
 真剣な、少し苦痛で歪んだような、でもどこか陶酔した表情をしていた。
 僕はそんな顔をした女の子をどうしていいものかわからなかった。
 わからなかったから、手をそっと解いて、また明日、と言った。
 しばらく貴句は僕の目を見詰めていた。でも僕が何も言わないのを知ると、貴句は、うん、また明日、と言って、自分が乗る路線の改札へと歩き出した。
 僕は何故か荷物が減ったみたいに感じて、自分の手を何となく握りしめた。



 次の日、授業前に榛名先生から皆に、君たちが紹介された。
 教壇に立った君の挨拶は素っ気なかった。ただ「早田鈴です」と名前を言って、頭を軽く下げただけだった。「よろしくお願いします」すらなかった。
 その点、タカハルは君よりもずっとましだった。
「近藤隆治です。もう、このおっさん臭さに気付いている人もいるかも知れませんが、二十七歳です。色々人生の波に揉まれている間に、こんなトシになってしまいました。でも、また再スタートを切る想いでここにいます。皆さんには教わることも、特に学校や授業のことなんかは、多いと思います。面倒かも知れませんが、できるだけ優しく教えて下さい」
 よろしくお願いします、とタカハルは頭を下げた。そして僕に視線をよこすと、にっこりと笑った。僕は反射的に目を逸らした。
 前の晩、例えば君たちに対してどう振る舞うべきかというような事をどうしても考えてしまって、僕は殆ど眠れなかった。
 水谷の言葉や恋人になったばかりの貴句の事などどうでもよくしてしまうくらい、既に君たちは僕を不安にしていた。
 あんなことをしておいて、更に僕のクラスまで乗り込んでくる君たちの頭の中が僕にはさっぱりわからなかったし、強いて言えば、悪意、企み、罠、そんなものの存在があるような気がするだけだった。
 榛名先生に促されて、予定通り、君たちは最後列の僕の両隣に座った。よろしく、とタカハルは言った。僕は応えるどころか、どちらにも顔を向けられなくて、身体を硬直させていた
 。やっぱり今からでも「世話役」を降りると先生に申し出ようか、と考え始めた時、君はコツコツと自分の前のモニタを人差し指で叩いた。
 僕は思わず目をやった。
『チャットとかできる?』
 テキストエディタにそう書かれていた。僕は君を見、そして首を振った。
 君は横目でそれを見ると、『どうして』とキーボードを叩いた。
 僕は、口を開きかけたが、授業中でもあり、君と同様、テキストエディタを立ち上げた。
『この学校では、チャットとか、娯楽目的のネット利用は禁止されてる』僕はそう書いた。
 僕がモニタを少し君の方に向けてやると、ふん、と君は鼻で息をついた。つまらない決まりだと言わんばかりだった。
 僕は前を向いた。何にも焦点が合わない感じがした。
 すると、また君はコツコツとモニタを叩いた。僕は、見るものか、と思った。でもいつまでも君はそうした。見るまで続けるという強い決意が鳴っているような気すらした。
 僕は、根負けして、また君のモニタを見た。
『携帯おしえて』とあった。
 僕は首を振った。君は横目でそれを見ると、また指を動かした。
『気持ち良かったでしょ?』とあった。
 僕は心臓が波打つのを感じた。君の横顔に目をやっても、何も読み取ることが出来なかった。
 でも、君たちがこのクラスにやって来た理由が自分にもあるということだけは、間違いなさそうだった。僕は混乱し、キーボードを叩いた。
『何が目的? 君は何?』
 君は無表情だった。でも、僕には君が笑っているようにしか思えなかった。キーボードの上で君の指が動いた。
『とにかく、携帯番号。でなきゃ、つい口が軽くなってしまう』
 脅されているのだ、とわかった。僕は、少し躊躇い、でも、逆らえずに携帯の番号を打った。君は、教壇から見えないように、モニタの陰に携帯を出して、番号を登録した。
 そして、君は自分の番号を示し、僕にも登録を促した。
 僕は従った。
 絶対使うものか、と思った。
 それから、僕は、もう一度、何が目的かを、画面上で尋ねた。君は、顎に指を当てると、こう打ち込んだ。
『想像して。当てたら教えてあげる』
 さんざん考えて、わからないから訊いていた。
『想像なんてできない』と僕は打った。
 君は首を傾げた。そして、もう一度、『気持ち良かったでしょ?』と書かれた行を指さし、そして、新たな一行を付け足した。
『本当は、忘れられなくなったんでしょ?』
 僕は、言葉に詰まった。キーボードに乗せた指も止まった。その時、僕は正直になんてなれなかった。君は続けた。
『あなたはまたして欲しいのよ、本当は。それがたかはるでも』
 そんなことない、と打とうとして、僕のモニタには『どっまことない』と表示されていた。
『でも、ひとりでする時、思い出してたのよね』
 かあっと顔に血が回った。
 違う、と声が出た。
 本当は誰かが気付いてくれれば良かったのかも知れない。でも、掠れた、小さな、咳みたいな声だった。授業は粛々と進んでいった。勿論、何をやっていたか、憶えていない。
 僕は、君のモニタから、目を動かせなくなっていた。白状すれば、ひとりでしようとした時、あのことは、確かに心に過ぎった。
 でも、それは罪悪感のような、悔恨のような、不思議な感情のフラッシュバックだった。直接的にあの記憶から刺激を受けていたわけじゃない。
 寧ろ僕はアレのせいで上手くすることができなくなっていた。
 だけど、君の指摘は、広い意味では、確かにその通りだった。僕は頭の中を読まれたような、プライバシーを覗かれたような、おそれと恥を強烈に感じた。
 君は何食わぬ顔で僕を見ていた。睨んでいるでも笑っているでもない目が、ただ深かった。
 しばらくして、君は例のケースから、一粒手の平に取り出して、そのまま口に放り込んだ。そしてごくりと喉を動かすと、人差し指だけで、ゆっくり、キーを六つ押した。
 え? と僕がその言葉を確認しようとした時には、君はもうデリートキーを連打していた。
 僕は瞼に残ったその言葉を信じたくなかった。
 もし、僕が自意識過剰で、そのせいで、幻を見たというなら、それでも良かった。
 呪ってやる、と言われた方がまだマシだったかも知れない。
 どんなに思い返しても、残像はこうとしか結ばれなかった。
『すきよ』
 それっきり君は、もうモニタでは僕に何も伝えようとはしなかった。



 絶対ダメだ、僕はそう思った。
 危険だ、と全身がそう言っていた。
 昼休み、トイレで手を洗いながら、絶対に役目を降りようと決意した時、タカハルが入って来た。
 鏡越しに目が合うと、タカハルはにこりと笑ってから、小便器の前に立った。怒りと怯えの感情に突き動かされる様に僕はその背中に向かって言った。
「近藤さん」
「タカハル、でいいよ。近藤さん、だなんて。君と僕の間柄で」
 僕は背筋に寒いものを感じた。
「間柄って……やっぱり、アレはあんたが……」
「おっと、言っちゃいけなかったんだ」
「どっちだよ?」
「言わないよ。リンに口止めされてるんでね」
「あんたなんだな?」
「そうあって欲しいなら、そう思えば良いよ。おおよそ人は望んだように解釈するし、その解釈によってしか世界を生きられない、と言ったのは誰だったかな……」
 何を言っているかはともかく、タカハルがとぼけているのだけは僕にもわかった。
「あんた、あんなことして……そういう……なんていうか、その、ホモ、なのかよ?」
 タカハルは用を終えて、ジッパーを上げながら、僕に振り向いた。
「僕が同性愛者だとして、それが君の知りたいあの日起こったことの答にはならないよ」
 それはその通りだった。どちらにされたのか、という疑問は些末であるとは絶対に言えなかったけれど、僕はそんな目にあった理由をこそ知らなければならなかった。
 しかし、口を開きかけた時、他の学生たちがトイレに入って来て、僕は言葉を飲み込まざるを得なくなった。
 その学生たちが出て行っても、タカハルは手を洗っていた。僕は飲み込んだ言葉が何だったかわからなくなって、それを見ていた。
 鏡に向かってちょっと前髪をいじり、友達になろうよ、とタカハルは言った。
「友達?」
「どっちにしろ、僕は君の恥ずかしいところを知っているしね。恥の共有は友情の一要素だろ? 僕は今友達と呼べる人がいなくて、是非とも一人は欲しかったところなんだ。寂しいからね」
「いるだろ? あの女が」
「リンは友達じゃないよ」
「やっぱり、カノジョかよ」
「恋人じゃないね。友達でもない。契約……約束、みたいなものだよ」
「は?」
「わかりやすく言うと、単なる同居人。僕はあの部屋の居候だよ。まあいい。僕は縛られているわけじゃないし、リンに協力はするけど、全く同じ考えってわけでもない。とにかく君と僕は友達になろうよ」
「なれるかよ。罠にはめた相手と。それとも脅迫かなんかか?」
「罠、ね。脅迫、ね」
 ふっとタカハルは笑い、そういうつもりでもなかったんだけど、と濡れた手でこめかみを掻いた。なら、とタカハルは言った。
「なら、僕の弱みを知っておいてくれ。僕が君の恥を公言しないように」
「なんだよ?」
 タカハルは水を止め、ハンカチで手を拭い、身体を伸ばすと僕に振り返った。
「僕は数年前まで、神と悪魔の声を聞いて生きて来た。何度か入院して、今の薬に出会うまで、ね」
 僕はすぐにはそのことの意味も重さも良くわからなかった。真意を測るようにタカハルの目を見ていると、タカハルはにっこり笑って一歩踏み出し、僕の胸に拳を当てた。
「僕を言い表すのにとてもわかりやすい言葉があるんだけど、自分ではいいたくないな。でも、もし僕があの日の事を誰かに話したなら、君は僕をそう呼べばいい。誰も僕の言ったことを信じようとしなくなるからね」
 タカハルは僕の肩にぽんと手を置いてから、トイレを出て行こうとした。僕は慌ててその背中に問うた。
「あの女は、一体なんなんだ?」
 立ち止まって、首だけを動かし、タカハルは言った。
「僕にとっては、神様の代わり。でも、君にとって、というなら、それは自分で考えるんだね。きっとリンはそれを望んでるし、もしかしてもう伝わってるんじゃないの?」
 そう何気なく言い残して、タカハルはトイレを出て行った。結局僕は何も理解することができなくて、しばらく洗面台の鏡の前に立ちすくみ、顔色の情けない男の姿を見詰めることになった。



 教室に帰ると貴句や花巻や神田といった女の子たちが君を囲んで何かを話していた。
 夜間コースにいたの、だから相馬君のことは知っていたの、君はそう言っていた。えー相馬どうだった? と花巻が訊いたりしていた。
 出来れば仲良くしてほしくなかったが、そんなことを言えるわけもなかった。
 彼女たちは僕が席に着くと、恐らく夜の内に僕たちの交際を知らせる電話を掛け合っていたんだろう、よお、カレシぃ、と僕を冷やかした。
 カレシ? と君は首を傾げた。
 神田が、そう、こっちの山田貴句と相馬、昨日からつきあい始めたんだって、と君に教えた。
 君は僕の顔を見詰め、それはおめでとう、と右の口角を上げたが、僕は何も言わずに目を逸らした。君の目を見たら、どうせまた混乱してしまうからだ。
 夜間コースでも聡太はモテてたわ、特にマダムに、と君は女の子達に言った。神田と花巻は、うわあ、と少し冗談ぽく引いて見せたけれど、貴句だけはそれとは違う複雑な顔で君を見ていた。
 それを知ってか知らずか、聡太、浮気しちゃダメよ、と君は言った。女の子たちは、そうだよ、貴句は良い子なんだからね、と声高に騒いだ。
 すると、大きな舌打ちが聞こえた。
 桂木だった。彼は振り向きもせず、「うるせえな」と声をあげた。女の子たちは、彼の方を見てから、視線を遣り取りすると、眉をしかめて、鼻の前に指を立てた。
 花巻が、やつあたりってやだよね、と桂木に聞こえるか聞こえないかくらいの声で言い、がたっと桂木が立ち上がった所で、次の授業の矢次先生が教室に入ってきた。

 授業中、キーボードに何気なく置いていた左手が、机の下に引き下ろされた。
 君が僕の手を取っていた。
 そしてその冷たい感触が僕の指に絡まった。
 僕は思わず君を見た。
 君はこちらを見もしようとしなかった。
 振り払おうとした。しかし、君は強情にその手を離そうとしなかった。
 振り向き、タカハルを見た。脚をそわそわと動かしながら、意味ありげに笑いかけてきた。
 僕はまた君を見た。「何か?」と君は言った。返す言葉が見つからなかった。
 授業は進んでいた。
 何気なく見ると、移った先の二列斜め前の貴句が振り向いて僕を見て、ちょっとだけ手を挙げた。僕は不自由な左手のせいで鼓動が早くなるのを感じながら、右手で応えてみせた。
 貴句がほんの少し眉をひそめたせいで、僕は自分の表情がコントロールできてないことに気付いた。
 笑顔を作った。
 自分でもわかるくらい引きつっていた。貴句は前を向いて、少し首を捻った。
 僕は何度も手を振り払おうとしたけれど、授業が終わるまで、結局君はそれを許してはくれなかった。
 タカハルは自分で考えろと言った。でも、その時の僕にとって、君は悪魔以外の何物でもなかった。




 その日の晩、貴句から電話があった。色々話した。他愛も無いことだ。
 僕はできるだけ避けたかったけれど、君のことも話題になった。貴句はこう言った。
「あたし、うまくいえないんだけど、あの人、苦手かもしれない」
 僕は、そう? 嫌いなの? と訊いた。貴句は、少し間を置いて、こう応えた。
「ううん、嫌いとか、そういうのじゃなくて……なんか、変なのよ」
「どこが?」
「だから、わかんないんだけど、なんていうか、こう……」
 何かを考えている沈黙があって、そして、貴句は、やっぱりわかんないよ、そう囁くのよ、あたしのゴーストが、とちょっと癇癪を起こしたみたいに叫んだ。
 それきり、違う話題になった。最後に貴句は“取材のために”愛の言葉を求めた。
 「好きだよ」と僕は言ってみたけれど、想像していた通り後ろめたかった。それが君の手のせいなのか、ゆうきを思い出してしまうからなのか、僕にはわからなかった。


 四月、僕たちの街はまだ寒くて、でも、胸の中は騒々しく熱を持っていた。


<#2終わり、#3へ続く>



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