【連載小説】僕のセイシュンの三、四日 #13
この物語はフィクションです。登場するあらゆる個人、団体、組織、事件、SNS等は全て架空のものであり、実在のものとは関係がありません。
また、この作品は2013年にKDP/Amazonにて発行された電子書籍版に加筆・修正をし、連載形式に分割して再発表するものです。
ここまでの話数は↓のマガジンに纏められています。
それは加藤から僕に伝えられた。
僕は加藤と付き合うようになっていた。
あの手に負えない女子高生をやる気にさせたと言う事が、いや、それが誤解なのはさっき話した通りなんだが、しかし、そのことが彼女の中の僕の評価を随分上げたんだ。
僕はその評価を敢えて否定しようとは思わなかった。狡猾だと言われても良い。あの理不尽な授業に対する追加分のボーナスだと思うことにした。
その報いは受ける事になるんだが。
でも、とにかく僕たちは付き合っていた。
彼女は結構なやり手でね。生徒募集のために郵便局やらスーパーやらに張り紙をしたり、近所にチラシを入れたりしていた。
それだけじゃない、近所の高校の前で、主に女の子を見つけてはナンパみたいに声を掛けていた。
そして、見つけてきた生徒が多くなると同じ大学の友達やら知り合いを世話して紹介料を取ったりもしていた。
加藤を好きだった事は確かだが、付き合うまでは見えなかった野心みたいなものには正直付いていけない気がしていたし、少々疲れてもいた。
でも、僕も仕事を回して貰っていたから何も言えなかった。
気のせいかも知れないが、僕の周りには強い女ばかり集まる。そして僕はいつも女達の顔色を窺って生きているような気がしていたよ。
まあ、それは良い。
その彼女に泉本人から連絡があった。僕を講師として雇いたいと言ったんだそうだ。
どうする? って加藤には訊かれた。生徒としての泉にはとても好感を持っていたから、すぐ受けても良いように思った。
しかし、よく考えてみると、あの鳴海のいる家庭に再び足を踏み入れるのはいかにも剣呑に思えた。
僕はそれなりに経験を積んだけれど、その時も心が齲蝕していたかのようにあのキスが唇に蘇ったんだ。
痛みとか苦しみとか不気味さとか、ほんの少しの恍惚とか、とにかく自分では説明出来ない何かが僕にはまだ残っているのに気付いた。
僕は加藤に「就職やら卒論やらもあるから、無理なんじゃないかな」と言った。
「どうしてもアナタじゃなきゃ駄目だっていうのよ」と加藤は言った。そして「就職活動なんてしなくていいじゃない、このままアタシたちで家庭教師の会社を作ればいいのよ」と笑った。
その時の僕には会社を作るなんておとぎ話か何かのようだったし、雲を掴むみたいに実感が無かった。
だから、彼女に合わせて空笑いして、とりあえず断ってくれないか、と言った。
彼女は取り立てて怪しむでもなく、そうね、アタシが行く事にするわ、と頷いた。
ところが、加藤が説得したにも関わらず、泉は希望を変えなかった。とりあえず一度お話がしたい、との事だった。
よっぽど好かれたのね、と加藤は苦笑いして、ある喫茶店で泉に会う様に僕に指示した。
沢崎の家じゃないならいいか、とその時の僕は思い、会うことに決めた。
僕は待ち合わせの喫茶店で泉を見つけられなかった。
僕の記憶にはまるで子供みたいな泉しかいなかった。
「先生」と声を掛けてきた女子高生を僕は最初怪訝そうな顔で見た。
彼女は少し戸惑ったように「沢崎です。泉です」と言った。
僕はぽかんと口を開けてしまったよ。
全く成長期の一年というのは馬鹿に出来ない。
泉は綺麗になっていた。
髪は背中まで伸びて、つややかな光を蓄えていた。
華奢な少年みたいだった身体は見るからに滑らかな曲線を帯びて制服に包まれていた。
目、鼻、口は一つ一つそれぞれにくっきりと印象深く鮮やかになっていたが、そのバランスが破綻することもなく、おだやかに調和していた。
あの姉妹はあまり派手に主張しないが、それぞれに美人の部類に入ると思わないか?
まあ、それも今はどうでも良い。
ただ僕が泉の美しさに気付いたのはその時が初めてだったという事を言いたいだけなんだ。
僕と泉は窓際の席に向かい合って座った。
妙な気分だった。
言葉が出てこないどころか、上手く視線さえ合わせられないんだ。
僕が泉を見ると、泉は頬を染めて俯いてしまうし、泉が僕を見詰めると僕の目は自然と窓の外に逃げてしまう。これじゃあ、まるでうぶなカップルのデートじゃないか、と思った。
僕はそれではいけないと、咳払いをして姿勢を正した。泉もそれに合わせるように背筋を伸ばした。
一旦、僕はグラスのアイスコーヒーをストローでかき混ぜて、何でも無い風を装い、久しぶりだね、と口を開いた。泉はこくんと頷いた。
そんな仕草が一々女っぽかった。
ご家族に変わりは無いかい? と訊いた。皆元気です、と泉は言った。
そして、お姉ちゃんも、と付け足し、僕を強く見詰めた。
僕の意識は自分の唇に集まった。
この娘は知っているのだろうかと思った。手に汗が滲み、無意識にズボンで拭っていた。
しかし、僕はそこで視線を逸らす訳にはいかなかった。うって変わって、僕と泉は視線をぶつけ合うことになった。
泉は僕の身体の中まで見通そうとしてるみたいだった。
でもしばらくして、泉はふっと表情を緩めた。
そして、先生はお姉ちゃんのこと好き? と訊いた。
僕は努めて冷静に見える様に一口アイスコーヒーを飲んだ。嫌いじゃないよ、元生徒だもの、と言った。
何を訊かれるのだろうとドキドキした。
泉は何故だか首を横に振った。そして絞り出すように小声で、お姉ちゃんは先生の事好きだったと思う、と言った。
僕は虚を突かれた。
ちょっと言葉を失い、すぐに笑みが浮かぶのを止められなかった。
僕が受けていた仕打ちをこの娘は知らない、と分かったから。
それは嬉しいね、嫌われるよりはずっと好いね、と僕は言った。泉はまた首を横に振って、先生はお姉ちゃんの事好き? と上目遣いに訊き、つまり恋愛として、と言い辛そうに視線を逸らした。
微笑ましかった。何だか自分も高校生に戻ったような気がした。僕の顔は優しく緩んだ。
きっとこの娘は僕の事が好きなんだ、と僕は確信した。
悪くない気分だった。
いや、正直に言おう、相当に良い気分だったよ。
しかしね、人間が泥沼に足を踏み入れる時というのは大抵良い気分の時だ。
僕は、泉の眩さに目を奪われて、自分の中の暗闇が沸々と広がり始めていたのに気付いていなかった。
自分がこの娘をどうにかできると、無意識のレベルで思っていたに違いない。
加藤と泉を瞬時に秤に掛けた。
激しく揺れていた。しかしどちらに傾くかは、それを眺め続けるまでもなかった。
「恋愛感情でお姉さんを好きになったことはないよ」と僕は言った。
「本当に?」と泉はほっとした顔で僕を見た。
「本当に」と僕は言った。
泉は満面に笑みを浮かべた。僕もそれに応えた。
僕たちのぎこちなさはどこかに消えてしまっていた。今度は逆にニコニコと笑い合うだけで、言葉が消えた。
加藤の事を告げるべきだと僕は思った。
誠実さ故じゃなかった。
今思えば、むしろそうする事でこの娘を操れると思ったからに違いなかった。
その直感に従って、「それに僕には今カノジョがいるんだ」と言った。
泉の笑顔は一瞬呆けたものに変わった。だが、すぐに失われた目の光は戻って、「そうですよね」と泉は何度か繰り返した。
僕にはその落胆がはっきり見えた。
そして、僕はわざと窓の外遠くに目を遣り、「でも、何だか最近考え方の違いが目立つようになってきて、上手く行ってないんだ」と言った。
泉が前のめりになって「どういう所がですか」と訊いてきた。僕はただ微笑みを返した。
泉ははっとして「ごめんなさい」と謝った。いやいや、いいんだいいんだ、と僕は優しく声を掛けた。
僕は全てが自分の思い通りに行く事に鳥肌が立ちそうになっていた。
本題に入ろう、と僕は言った。
その後、泉は僕に英語の講師をして欲しい、と強く要請した。
僕は断るつもりなんて無くなっていた。ただもったいぶって、就職が、とか、君の成績だと塾か予備校に通った方が良い、とか言った。
実際、泉は鳴海と違って、そこそこの進学校で一桁くらいの順位だと言うんだ。現役で旧帝大や一流私大だって狙えたかも知れなかった。
教えてやれる事がそれ程多くない事は僕にも分かったし、その旨は泉にも言った。
でも、先生が良いんですと泉は目を潤ませて言った。
「アタシ、先生と会わなかったら、こんなに頑張れなかった」と言われた時、僕は本当に墜ちた。
そして僕たちは毎週金曜日、その喫茶店で二時間ずつ授業をする事に決めた。
給料は日払い、勘定はそこから僕が払う事になった。
アタシが払うと先生気まずいでしょ、と泉は笑った。僕はもうこの娘が可愛くてしょうがなくなっていた。
結局引き受けた事を加藤には告げた。押し切られてさ、と頭を掻いて見せた。
加藤は皮肉っぽく笑って、紹介料は幾ら貰えるの? と冗談を言った。
でもすぐに真顔になって、商売モノには手を付けないでね、と念を押された。
僕はニッコリ笑って、まさか、と応えたが、本当は心の底を覗かれているような不安な気分だったのを憶えているよ。
そして、そんな気分にさせる加藤を本当に疎ましく思っている事にもその時気付いた。
僕は仕事も含めて大事な部分を加藤に握られていた。それが泉の再び現れた今となっては鬱陶しかった。
そのくせ握られてしまった部分を振り解こうとすると心が強張って何も出来なくなる。
加藤も泣き寝入りするタイプの女では決して無かった。恐ろしかった。
全てを秘密裡に。そう決めた。
それから数ヶ月、僕は金曜日だけを楽しみに生きた。
好きになってしまったからか、成長していったからかは分からないが、会う度に泉は綺麗になっていくような気がした。
特別な事は何も無かった。
案の定、僕の学力や知識を越える問題を泉が持ち込む事は多かった。
家庭教師のコツの一つは、答えられないことを隠さないことだそうだ。僕はそれを加藤との会話から習っていた。
ただ一緒に悩もう、と恬然と僕は言った。
泉はその揚げ足を取ろうとはしなかった。頷いたその笑顔は的皪としていた。痛いくらいだった。
僕たちは辞書を引き、英文法書をめくり、アルファベットの羅列の前で一緒に答えを探した。
共同作業というのはこういうものか、と僕は思った。
大抵僕たちは正答に辿り着いた。僕たちはその度に冗談ぽく握手を交わした。泉はそんなときすごく達成感に溢れた満足げな笑顔だった。きっと僕の顔もそんなだったに違いない。
そして、握手をするごとに僕らを繋ぐものが太く、強くなるのが分かった。
僕はそんなやりがいのある事をそれまでした事がなかったと思った。
今思うと、それは違っていた。
僕たちがしていたのは、授業なんかじゃない。たまたま僕に好意を寄せてくれている相手とその生徒に惚れてしまった僕のじゃれ合いみたいなモノだった。
現にその握手だって、泉も最初は軽く握るだけだったのが、強弱を付けたり、指を滑らせたり、見つめ合って握り続けることが多くなった。
僕は性的な興奮が喚起されるのを止められなかったし、止めようとも思えなくなっていた。
講師、という仕事の観点から言えば、喫茶店での授業は正解だった。
もし、部屋で二人きりになるような事があったら、今度は進んで、僕はそういう関係になろうとしたはずだった。
僕の頭はもう滅茶苦茶に沸いていた。
馬鹿な事しか考えられなかった。
しかし、その時の僕は自分がどれだけのぼせているかも分からず、やっぱりこういう仕事に向いているのかも知れない、とまで考えるようになっていた。
となると、加藤が会社を作ると言っていた事に知らず知らず期待するようになった。
現に加藤はその準備や下調べを始めていた。
就職活動も面倒くさかった。
それに乗っかるのが一番楽だと思ったよ。
そして、その為に加藤に見捨てられてはいけないというおそれだけが、皮肉にも僕が泉と一線を越えない唯一の理由になっていたんだ。
<#13終 #14に続く>
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