【連載小説】Words #21
この物語はフィクションです。
作中の人物・団体・学校・事件、及び各種名称、方言などあらゆるものは、創作であり、実在のものとは一切関係がありません。
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公立高受験は終わった。試験は、手応えがなかった。ひたすら倫生対策に打ち込んだせいであまりにも問題が素直すぎるように思えた。
もうひとつなにか意地悪がしかけてあるのではないか、と疑心暗鬼になって、何度も解答を書き直したくらいだった。
でも、それが良かったのか悪かったのかは全然わからなかった。いずれにせよ、落ちてもかまわない試験だった。僕はふわふわとしていた。
そして、僕たち三年生には、もう合格発表の前に行われる卒業式くらいしかイベントごとは無かった――はずだった。遠藤が、こんな宣言などしなければ。
「わたしたち付き合ってるんだ!」
あのキスの後、遠藤は、何も躊躇しなかった。休み時間や放課後ずっと僕につきまとい(ごめん、本当にそんな風に感じた)、そして、僕が、自分の飼いイヌであることを、主張し続けた。
いつもふたりでいるようになった僕たちを、めざとく見つけた男子数名が、冷やかしまぎれに「おまえら、つきあってんのー?」と訊いたとき、遠藤は、ちゃんと教室中に響く声で、そう言った。おおおお、と男子が叫び、女子達が、皮肉っぽく鼻で笑ったり、驚いたりしていた。
真沢は、無表情に、福笑いの口をつけたみたいに笑顔だった。
どこか心が痛む。でも、僕が本当に気になるかほ里のリアクションは、知ることができなかった。
彼女はやはり学校を休み続けていた。高校の試験、受けたんだろうか、そんなことを思っても、確かめる術すらなかった。
それにしても、遠藤は甘くなかった。
僕が後戻りなどできないように、どんどんと既成事実を積み重ねていく。それはいつまでたっても、関係を隠し続けようとして失敗した真沢を間近で見ていたからかもしれない。
休み時間中、彼女は僕の席の前に立ち、下校も一緒。そして、公園があれば、そのベンチにすわらきゃならないし、手を繋ぐのはほぼ義務で、別れ際には、必ずキスを求められる。人目があることを理由に断ろうにも、彼女が不愉快そうに俯くだけで、僕の背筋に怯えが走る。
金を返せと言われること。それが到底むりなこと。
即ち、母にこのことが知れてしまうこと。
それだけで僕は遠藤にさからえなくなる。
――仮にも女の子とそんな風にできるのに、底なしの泥沼に沈んでいくように思ってしまうのは贅沢だったろうか?
でも、例えば――たとえばなしだ――人間の言葉を話す蛇からずっと求愛され続けて、その気になる人間がいるだろうか?
いるかもしれない。SFやファンタジーや昔話なら。むしろ美しい物語になるかもしれない。
でも、僕はキスするたびにその大蛇に一呑みにされているような恐怖と怯えを感じた。これなら、真沢の方が百倍ましだった。
そう思ってしまう自分を、僕は、だけど、本当に許せなかった。
そして、デートだった。真沢に対して使えた「金がないから」という言い訳は通じなかった。
「大丈夫、わたしが出す!」
遠藤は鼻の穴を広げて、そう言い放った。僕は、精一杯の悪知恵を総動員した。
「うん、それに、いま、忙しいし、僕、倫生行くから引越の用意とか」
「そ?」
なんというおそろしい「そ?」!
僕は怯えながら、更に言い訳を重ねる。
「うちは、ほら、すごく厳しくてさ、外出許可出なかったんだよ。真沢のときは、ほら、図書館で勉強するってなんとか誤魔化したけど、受験が終わったら、それも使えないじゃん?」
「そ?」
「それに、ほら、あまりお金は使わない方が――」
「そ? それで、どこに行く? わたし、カラオケ行きたいなあ」
取り敢えず僕の言い訳など遠藤は聞いちゃいなかったことだけがわかり、僕は「そうですね」とだけ応えた。
ここにも、僕の気持ちなんて、存在しないみたいだった。
苛立つ。
だけど、それを安易に表現してはならない関係性が、そこにはある。
僕は、遠藤と話す度、重い石を呑み込んでいるような気分になった。
デートの前夜、品川から電話があった。
品川から電話があって、そう言えば、経堂はどうだったんだろう、と思いだした。
いや、万が一上手く行っていなかった場合のことを考えて、こちらからはコンタクトしないようにしていたのだけれど、それすら忘れてしまう状況下に僕はいた。
女子からの電話に、不愉快そうにしながら様子を窺っている母に背を向けて、もうこれ以上、僕の人生を複雑にしないでくれ、と叫びたい気持ちで、僕は品川の声を聴いた。
「受かったんだろ?」
「まだ発表じゃねーよ」
「でも、倫生受かって東落ちるわけないよね」
「だといいけど――あ、あのさ、いま――」
「ああ、母親、聴いてる?」
「うん」
「そっか。じゃあ、今から行く」
「は? 何言ってんの?」
「じゃね」
電話を置く。母が、早速、訊く。
「誰?」
「塾の友達」
「つきあってるの?」
「なわけがない」
「許しません」
「だから、そんなわけない」
「あんた、倫生受かったくらいで調子乗ってるんじゃないの?」
「のってないし、つきあってない」
「勝負はここから。まだあんたなんてスタートラインにも立ってないのよ? マイナスよ? マイナス」
「ははは」
「で、誰? 言いなさい」
「だから、塾の友達」
「何の用だったの?」
「だから、高校のこと」
「なんでそんなこと相手が知りたがるの?」
「トモダチだからでしょ」
「おかしい」
「は?」
「ただのトモダチのことをそんなに知りたがるわけない」
「いや、それは――トモダチだから知りたがるんじゃないの?」
「倫生に受かったから、コナでもかけるつもりなんだわ!」
「いや、それないから」
「女なんてね、そういう計算するのよ。まったくこざかしいったら!」
あなたも女ですしね。
「いやだから――」
「で、本当は何の用なの? 嘘つくんじゃありません」
「……それが……今から来るって」
「はあ? 女の子なんて、家に入れませんよ! 汚らわしい」
まあ、あなたは女の子じゃありませんからね。
「うん。まあ、たぶん運転手つきの車で来る」
「は?」
「いや、医者の――しながわ産婦人科のムスメだから、金持ち」
「は?」
そして、チャイムが鳴った。
母は僕を押しのけるようにして、玄関へと飛び出して行った。
品川が、彼女のワードローブにある中でおよそ考え得る限り最も裕福なご令嬢風に見えるであろう衣装を何のてらいもなく纏って、そこに立っていた。母は、絶句した。
「こんばんは。はじめまして、お母様。品川理瀬と申します。ご子息には塾のクラスでいつもお世話になっております」
「……はい」
「それで、少し、ご子息をお借りしてもよろしいでしょうか? 今後の進路について、少し相談に乗っていただきたいことがあるんです」
「……はあ」
「少し、わたしの車でその辺りを一周して参りますので」
「……はあ」
後ろから見ただけで呆然としているのがわかる母に、僕は訊いた。
「いい? 出ても」
「……はい、いえ、いい……ですよ?」
僕は、品川に見呆けたままの母を押しのけて、玄関を出た。
僕たちは、例の高級車の後部座席に並んで座った。品川が、シンドウこの辺り、ゆっくりまわってもらえる? 三十分くらい、と運転手に命じると、車は夜の住宅街を、指示通りゆっくりと進んだ。
「で、何、その格好。舞踏会?」
「ま、ちょっとかしこまったパーティがあって、付き合わされてた」
「うわ、ほんとにあるのか、世の中に、そんなパーティ」
品川は皮肉っぽく笑って、それに、と続けた。
「それに、経堂から聞いてたから、あんたの母親のこと」
「……ああ」
「折角着飾ったから、ついでに、と思ってさ」
「なるほど。ほんとにお前らすることにそつがないな」
「あんたががさつ……ガキ過ぎるだけ」
「ああ、はいはい、そうですよ、ガキですよ」
フフ、と品川は笑った。そして、低い車の天井を見上げて、大きく、ひとつ、息を吸い込むと、言った。
「じゃあ、わたしたち、オトナになろうか?」
「え?――」
品川の、顔。化粧。
その肌の不自然さと、匂い。
塞がれた粘膜。こじ開ける舌。
液体。甘い。
アルコールがどこか感覚の果てで、香っている。味覚の器官をそんな風に使うなんて、僕は知らなかった。ひと言で言えば、舌のキス。
それを、恐らく三十秒。
何も言い訳できない快楽が、僕の思考を奪って、そして離れて行った。
その余韻が、神経全てにめぐり、ここがハーレムアニメの世界じゃないことに自信がなくなりかけた僕は、それでも、ただ、紅潮していた。
でも、品川の方は平然と座り直し、そして窓の外に目をやった。
手は、僕の手を掴んでいたけれど。
品川は、ぽつり、と言った。
「ごめん」
「……いや、突然で」
「そうじゃない。それじゃない」
「……は?」
「経堂の代わりに、ごめん」
「は?」
「あのさ、知ってる?」
「……何を?」
「経堂が、嘘つきだってこと」
「は?」
「あいつは、嘘つきなんだ」
「……」
「平気で平然と嘘をつく」
「……」
「気付かなかった?」
「……」
「そして、あいつには何の罪の意識もない」
「……」
「あいつは、自分の目的のためなら、なんでも言う」
「……」
「知ってる?」
「……」
「あいつ、最初から倫生なんて行くつもりこれっぽっちも無かったのよ」
「……え?」
僕は驚き、品川を思わず見詰めた。品川は哀しげに微笑むと、少し首を振って、続けた。
「あいつんち、そんなに裕福じゃない」
「……」
「だから、将来、入試で医学部に受かったとしても、そこにも本当に入学できるかどうかはわからない」
「……」
「入ってからだって、相当しんどいはずで」
「……」
「まあ奨学金とかもあるけどさ。でも、開業とか考えるなら、やっぱ、親の病院継ぐのが一番良くて……だから、わたしも一応はそれ狙いだけどさ」
「……」
「それで……だから、アイツ、わたしのことが好きなんだよ」
「……」
「失うわけにはいかなかったんだ。少なくとも今現在は。もっと良いモノがみつかるまでは」
「……」
「だからさ、アンタを構って遊んでるわたしを許せなかった」
「……」
「取られてしまうんじゃないかって思ったんだ」
「……」
「だから、アンタを倫生へ、離れたところにやっちまおうとした」
「……」
「……うん」
「……どうしてわかるわけ? そんなこと。経堂が言ったの?」
「言わねーよ。でも、わかるでしょ? どうしてわからないの? そのくらいのこと」
「……はは」
「ハハ」
掠れた笑いが、沈黙を呼び込む。沈黙の中で、彼女の手に、チカラが籠もる。
「経堂には、わたしが必要」
「……」
「でも、わたしそのもの、じゃなく」
「……」
「わたしの持ってるものの方が」
「……」
「わたし、という素の人間じゃなく、ね」
いつしか僕を見詰めていた品川の瞳に涙が溢れてるなんてことは無かったけれど、もし、その化粧を取ったら、どんなに哀しげに崩れてしまうんだろうと想像させる陰が、そこにあった。
でも、それは勘違いだ。経堂はそんなやつじゃない! 僕は反射的にそう思った。どうしても経堂をただの嘘つきだなんて思えなかった。その時は。
「考えすぎじゃないの?」
「……どうだろね」
「考えすぎだ」
「だといいね」
「そうさ。ならなんでそんな嘘つきと付き合ってんのさ」
「バカじゃないの?」
「……」
「好きだからに決まってんでしょう?」
本当にバカにしたみたいに、品川は僕を睨めつけた。なら? 何故?
「……なら、どうして……さっきの、アレ……」
「……バカじゃないの?」
「……」
「……」
「……」
「……腹が立つからに決まってんでしょ」
「……」
「……」
「僕に?」
「……アイツに」
「……よくわかんないよ」
「……」
「……」
「わたしの初めてのキスはアンタ」
「……」
「この後のアイツがどんなにわたしとキスをしても」
「……」
「アイツは、この『はじまり』を、まっさらなわたしを、手に入れられないんだ」
「……」
「それが、わたしのオモチャを取り上げたことへの復讐」
「……」
「アイツに、わたしのすべてなんか渡さない」
「……」
「永遠に」
「……」
「そして、アイツはそれに気づけない」
「……」
「……ざまあみろ、だ」
そのまま品川は黙りこんだ。僕も言うべき言葉など思いつかなかった。
確かに、彼女の言うように、僕は騙されていたのかもしれない。そう思えないこともない。
でも、それと同時に、自分が高望み気味の目標に到達できた過程に、経堂がいなかったなどと言うことは、決してできなかったのだ。
僕は複雑だった。複雑なまま、車は僕の家の前についた。初老の運転手が、ドアを開けようと降りる素振りをした。僕はそれを制して、自分でドアを開けて、家の前に立った。品川は僕を見ない。僕も、顔を逸らす。
「僕は、倫生に行く」
「……そ?」
「今日のことは、忘れる」
「……」
僕は、静かにドアを閉めた。高級車は、ゆっくりと、動き出す。でも、僕が背中を向けて家に入ろうとしたとき、声がした。
「わたしは、忘れない」
振り向くと、品川が、車から降りて、そこに立ち尽くしていた。
「忘れないから!」
僕は何も言えなかった。ただ、初めて、僕は品川を、キレイだな、と思った。
自分でドアを開けて、品川は車に乗り込んだ。そして、ドアを閉める直前に彼女は、おどけた調子でこんなことを言い残した。
「CD、いつか、返せ! 絶対!」
そして今度こそ、車は夜の街並に消えて行った。
僕に微苦笑する以外の何ができたというのか。
まったく、ドラマごっこだな、おい。
家に入り、こっそり部屋に戻ろうとした僕を、母が声を裏返しながら、呼び止めた。
「何?」
「本当に、トモダチなの?」
「は?」
「付き合っちゃえばいいのに!」
「はあ?」
「どうなの?」
「トモダチだよ、あいつカレシいるし」
「ああ……そう……」
「うん」
「あ!」
「何?」
「そ、そう! いつかのCDって、あの子からもらったのね?」
「あ……いや……」
「そうなのね?」
「あ……うん」
「なら、早くにそう言いなさいよ!」
「……うん」
「まったくもう……」
母はにこやかに立ち上がると、リビングの隣の部屋のタンスを開け、そこからCDを取り出し、僕に押しつけた。
「え?」
「トモダチは、大事になさいね?」
「……はい」
「いつ役に立ってくれるかわからないんだから!」
「……」
相変わらず、だ。このひとにとってトモダチというのは、都合の良い道具にしか過ぎない。
トモダチは、そんなんじゃないはずなのに。
でも、僕はこのひととトモダチの定義について議論しようと思わなかった。このひとに僕のコトバなど無意味だった。うるさい近所のイヌが吠えてるくらいにしか響かない。
そして、もはやなんの「役に立たない」CDを抱えさせられて、僕は自室へと戻った。
しかし、こうなってみると、買い直したことがあまりにも無駄だったような気がした。二枚ずつあるCDを眺めて、自分が全く無意味に金を使い、そのせいで好きでもない女の子から鎖をかけられていることに、苛立ちを抑えることができなかった。
そして、経堂のこと。
もし、品川の言葉が本当なら、僕は、都合良く踊らされていることになる。
でも、僕は経堂の全てを、どうしても嘘だと思えなかった。腹が立つような気がするけれど、どこかに確かに、怒りに身を任せたくない自分がいる。
自分があれほど信じ、嬉しかったものが、ただの企みで嘘だったと認めることはとてもむずかしい。
だけど。
だけど、それじゃあ、品川は何故あんなことを?
胸が騒ぐ。
胸が騒いでどうしようもないから、さっきのキスを思い出しながら、僕は、その夜、何度か、自分を擦っては虚しい快感をしぼりだした。
でも、その「トモダチ」と「飼い主」への「裏切り」も、痛快でもなんでもなかった。
ただひたすら、後味が悪かった。
<#21終わり、#22に続く>
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