【連載小説】僕のセイシュンの三、四日 #04
この物語はフィクションです。登場するあらゆる個人、団体、組織、事件、SNS等は全て架空のものであり、実在のものとは関係がありません。
また、この作品は2013年にKDP/Amazonにて発行された電子書籍版に加筆・修正をし、連載形式に分割して再発表するものです。
ここまでの話数は↓のマガジンに纏められています。
○
泉は先にシフトを終えて帰ってしまった。いつものように泉は何も言わなかった。
その後店長も僕に何を言うでもなかった。
僕はもしかしたらクビになるかもしれないと気が気でなかった。
だが、例の女が気分良さそうに店を出て行った後も、店長と二人になるタイミングが無かった。
僕の休憩の時は店長が代わりに店に出ていたし、僕が店に出れば店長は僕には良く分からない事務処理を事務室でしていたから、店長とそのあたりの話はまだ出来ていなかった。
そして、僕がシフトを終え、せまい事務室に戻ると、店長は事務机に肘を立ててセーラムライトをふかしているところだった。
お疲れさまです、と僕は言った。はい、ご苦労さま、と店長は返した。申し訳ありませんでした、と僕は言った。
クビにはなりたくなかったのだ。
店長はにやっと笑った。
「それよね、それ」指に挟んだセーラムライトで僕を指して店長は言った。
「は?」
「だからさ、謝るところから始めるのよ。ああいう客とのやりとりはさ」
ま、それも誰でもってわけじゃないけど、と一人納得する店長に怒っている様子は無かった。
この店長はその頃おそらく二十八、九歳だった筈だが、とても落ち着いた雰囲気の人だった。事務室に籠もる事が多く、その分存在感に欠ける所があって、年上のパートのおばさんには、あら、いたの、とからかわれる事もあった。
でも、その時の僕は、かつて僕を厳しく叱った父の前に立っているような威圧感を勝手に店長から感じていた。
「僕、クビですか?」思い切って僕は訊いた。
「クビにするなら、とっくに帰してるわよ……辞めたいの?」
「いえ、そんな……でも、あんな騒ぎ起こして、店長に迷惑かけて」
「それならいいの。ちょっと何かあるとすぐ辞めちゃう人もいるからね。そうなるとまた募集かけなきゃならないし」
店長は僕を見た。優しげな目つきだった。そして、タバコ吸う? とセーラムライトの箱を僕に差し出した。
メンソールは苦手です、と言おうとしたが、その時は厚意を受けるべきだと思い直し、一本抜き取った。
店長は百円ライターを擦り、僕の銜えた煙草に火をつけてくれた。
「あのね」店長は言った「アタシはさ、高橋君は真面目にやってくれてると思ってるよ。シフトはきちんとこなしてくれるし、普通のお客さん相手だったら、接客だってなんの問題も無いわよ、バイトやパートさんにも色々いるからね、良くやってくれてる方よ、君は」
そうですか、と僕は質問とも相槌とも言えない言葉を返した。
「ただ」店長は真剣な目つきで言った「今回は確かに失敗したわね」
「はい」
「どこが失敗だったかわかるかしら?」
僕は店長が火をつけた煙草を吸えずにいた。そして、その質問に対する正解も浮かんでこなかった。
全部と言えば、全部がそのように思えた。僕はそのままを言った。
「すべてです」
店長は鼻で深く息を吐いた。
「それじゃ、答えにならないわ」店長は言って、短くなった煙草を灰皿に擦りつけた。
「じゃあ、僕は何を間違えて、どうしたら正解だったんでしょうか?」と僕は訊いた。
うーんと店長は唸った。そして、新しい煙草に火をつけて僕を見た。
「アタシの考えを教えてあげるのは簡単なんだけど」店長は言った「自分で考えない正解には何の意味もないわよ」
店長はいたずらっぽく微笑った。
僕はと言えば、強張った顔を崩すことができずにいた。
頭の中は混乱していた。
ひととの会話はいつも僕を惑わせる。僕はただ平穏でいたいだけなのに、良かれ悪しかれ、多かれ少なかれ、心は乱れる。
店長が僕を辞めさせるつもりは無いのは分かった。叱り飛ばしたい訳でも無いらしい。だが、僕が何かを間違えたと謎をかけたのは店長だ。何が店長の気に食わないのかも、僕にははかりかねた。
僕の指の間で吸われもせず、煙を出している煙草を何気なく見て、店長は言った。
「ああ、イヤ。年取るとなんか若者をいじりたくなるものなのね。自分がそうされた時には、イヤだったのに、先輩方と同じような事してるわ、アタシ」
店長は苦々しげに笑って、団子にしていた長い髪を解いた。何かチョコレートのような甘い匂いが狭い事務室に広がった。
僕は改めてそのひとが女なのだと気が付いた。
アタシが男だったら、と店長は言った。
「アタシが男だったら、これから二人で居酒屋でも行って、説教してあげれば済むんだろうけど、そうはいかないわね」
「はあ」と僕は応えた。何がそうはいかないのかは何となく分かった。その頃はまだ男女が二人で食事をするということには特別な意味があったのだ。
そんな事だけには気が回る自分が不愉快だった。
店長は立ち上がって僕と向かい合った。
案外背が高いな、と僕は思った。
そして店長は真剣な顔つきをして言った。
「今日みたいな事は長く接客をしてれば必ずあります。アタシにもああいう事はあった。でもそれが、割と普通にあるって事を分かっただけで、次は君は失敗しない」
「そうでしょうか?」と僕は訊いた。
「そうよ、それがわかるから、アタシは君の失敗を歓迎すらしてる。君はきっともっとちゃんとした店員になる」
僕は何だかくすぐったいような、痛いような妙な感覚にとらわれた。
「一年近くたつけど」と店長は言った「こういうのも接客業なのよ」
灰皿が差し出された。灰が長くなった煙草を殆ど吸いもできずに僕は灰皿で消した。
店長は僕の目を真っ直ぐ見ていた。僕はそれに耐えられなくなって、申し訳ありませんでした、とまた言った。
「アタシは怒ってないわよ。だから、次、自分の手に負えないお客が来たら、迷わずアタシを呼んで。それだけ」
店長はまた椅子に着いて、僕に背を向けたまま、帰って良いと手でしぐさした。
僕はエプロンを外し、共用のロッカーに掛け、コートを羽織って、事務室を出ようとした。
そこで、僕はふと思い出し、立ち止まって店長に訊いた。
「結局、返品受けたんですか?」
店長は僕に振り返って、この本ね、と引き出しから例の本を取り出して事務机に投げ置いた。
「読んでも悪くないと思ってたの。買ったわ、アタシが」
理不尽だ、と僕は思った。
お客様がそれほど「カミサマ」ではなくなった今なら、その理不尽を呑み込む以外の方法がある。
でも、その時はどんなに苦々しくて不快でも喉の奥に落とし込まなければならなかった。
理不尽だ。
そのままの表情をした。それを見て、素直そうな笑顔で店長は言った。
「誰かさんがキレなきゃ、もうちょっとやり方もあったんだけど」
「すみませんでした」僕は慌ててまた謝った。
やめてよ、もう、苛めてるみたいじゃない、とそれを制して店長は楽しげに笑った。
「そのかわり、今後返品は二度と受けないって約束もさせたから、本当に大丈夫」
僕は驚いた。
「この本代は貸しだからね」と店長は冗談ぽく言い、おつかれさま、と軽く手を振った。
○
その日僕はどちらの部屋に帰って良いのか分からなかった。
泉の部屋にはおそらく鳴海さんと子供がいた。
狭い床に寝るのは、その日は勘弁して貰いたかった。僕は疲れていた。心地よいベッドが必要だった。
でも疲れているからこそ、泉に会いたかった。
クビになる心配は消えたが、あの女との出来事は、僕の心にずっと波を起こし続けていた。泉は来いとも来るなとも言わなかった。いつもの事だ。
僕は事務室を出た後、何を手に取るでも無く売り場を見て回った。どうしていいか分からなかった。
首と肩が異常に張っている事に気が付いた。僕はそれを解そうとぐるぐると首を回した。
そんな僕を八時までの僕のシフトを引き継いだアルバイトの男子学生が訝しげに見ているのに気が付いて、僕はようやく書店を出る決心をすることが出来た。
自動ドアが開いて一歩踏み出すと一瞬で冷気が僕を包んだ。
解放された、と僕は感じた。
だが首と肩の張りは消えなかった。
今度は肩を回し、大きく深呼吸した。春の匂いはまだしなかった。
僕は自分の部屋に戻ろうと決めた。
酒が飲みたいと珍しく思った。僕はアルコールをあまり恋しく感じることはない。嫌な記憶があるのだ。
大学に入学して最初の語学のクラスのコンパが有った時、僕はストレートのウイスキーをビアジョッキになみなみに注がれ、それを一気飲みする羽目に陥った。
僕の記憶はそこから飛んでしまって、朝気付いたら繁華街の路上で横たわっていた。胸焼けと頭痛で身動き出来なかった。自分から漂うアルコールと吐瀉物の臭いで更に吐きそうになった。
何より、他のクラスメートが僕を置き去りにした事に後から悲しくなった。
僕が大学にも、自分以外の大学生にも馴染めなくなったのはその事があったからだ。僕はあの日頬に感じたアスファルトの感触とカラスがゴミを漁る早朝の繁華街の景色を忘れる事ができずにいた。
しかしそれでもその日は酒が欲しかった。ビールでも買って帰ろうと思った。
そんな事を苦々しく思いながら歩き出すと、僕を呼ぶ声が聞こえた。
「祐介」
振り返るとそこには泉がいた。僕は少なからず驚いて、どうしたのと言いながら近づいた。
「帰りづらくて」と泉は言った。
「お姉さん?」と僕は訊いた。
「まあ、そんなところ」
泉は少し皮肉っぽく笑った。頬が赤く染まっていた。僕はその頬に手を伸ばした。冷たかった。
「ずっと待っててくれたの?」と僕は訊いた。
泉はその問いには答えずに、今日は祐介の部屋に泊めてね、と僕の部屋の方角に歩き出した。僕に異存は無かった。
僕たちは無言で歩いた。途中、コンビニに寄った。僕は焼き肉弁当を、泉は鮭と梅干しのおにぎりを買った。
泉がいるおかげで、僕は酒を買わずに済んだ。
泉が僕を待っていてくれた事が、自分で思ったより嬉しかったらしかった。首と肩の張りが何時の間にか消えていた。
コンビニを出た時、泉はぽつりと言った。
「コンビニの店員も大変よ」
「そう?」と僕は相槌を打った。
「客層がね、本屋と違って広いからね。色んな人が来るのよ」
「やったことあるの?」と僕は訊いて、しまった、と思った。詮索になりやしないかと思った。泉は気にする風でも無く、昔ね、と答えた。
「そこで、まだ新人だった時、レジが遅いって怒鳴られたことあったの。怖かったな、まだ高校生だったしね、しばらくの間レジに立つのイヤだったな」
「へえ」と僕は応えた。
「祐介は仕事イヤになった?」
「そんな事……」と言って僕は少し考えて「まだよくわからないけど、今まで僕がイヤだと思ったのは今日のあの客だけだよ」と答えた。
「そう、なら良かった」と泉は言った。
僕は泉の顔を見た。どちらかと言えば、表情に乏しいひとだった。その時も無表情だった。だが、泉の顔から少し緩んだものを見て取れた。
「もしかして」僕は言った「励まそうとしてくれてた?」
泉はまた答えなかった。レジ袋を揺らしながら、僕の先を歩いて行った。
僕はその背中にふと、ありがとう、と声をかけた。泉は振り返ることもなく、ちょっとだけ手を挙げた。
僕の部屋はもうそこだった。
<#04終 #05に続く>
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