【連載小説】僕のセイシュンの三、四日 #06
この物語はフィクションです。登場するあらゆる個人、団体、組織、事件、SNS等は全て架空のものであり、実在のものとは関係がありません。
また、この作品は2013年にKDP/Amazonにて発行された電子書籍版に加筆・修正をし、連載形式に分割して再発表するものです。
ここまでの話数は↓のマガジンに纏められています。
○
僕たち三人を見て、あらまあ、と店長は言った。僕と泉はほぼ同時に、すみません、と頭を下げた。
「事情を説明してくれる?」と店長は訊いた
僕が口を開こうとすると、泉はそれを視線で制して答えた。
「姉の子なんです」
「姪御さんってことね」
「そうです」
「あなたたちの子かと一瞬思っちゃった」
店長は冗談めかして笑った後、二人はそんなに長く付き合ってないわよねぇ、と独り言の様に呟いた。
「お名前は?」
店長は腰を屈め、僕の後ろに隠れている砂羽に目線を合わせて訊いた。砂羽は僕のコートの袖をぎゅっと掴んだ。
泉が慌てて、砂羽と言います、五つです、と代わりに答えた。あまり喋らないそうです、と僕は付け加えた。ふぅんと店長は楽しげな笑顔を浮かべた。
「砂羽ちゃん、アタシはね、磯谷恵って言うの。よろしくね」
砂羽は僕のコートに顔を埋める様にして、店長の挨拶を拒否した。
そういう時、どうすれば良いのか僕は分からなかった。
引きつった笑みを浮かべようとしたその瞬間、泉の手が砂羽の頭に飛んだ。
乾いた音がした。
泉は砂羽を僕から引き離し、店長の前に立たせた。僕は驚いた。砂羽が泉を睨みつけた。
店長の口元はいつものように笑ってはいたが、視線が困惑で泉と僕と砂羽の三人を行ったり来たりしていた。
「ちゃんと挨拶をして」と泉は砂羽に言った。
「いいのよ、アタシ、子供に好かれるタイプじゃないし、気にしないわ」と店長は慌てて泉に言った。
そうじゃないんです、と泉は砂羽を睨んで答えた。
「こんな事教えとかなきゃならないんです。でも、誰もそんな簡単な事もさせてこなかった。置いて行った姉はともかく、アタシはそういうのイヤなんです」
店長は再度砂羽に微笑みかけた。砂羽はそれに応えることなく、自分を殴った泉を睨み続けていた。
僕が五歳の頃、大人に殴られたなら恐らく泣いていたかも知れない。
いや、もう遠くなり過ぎて、子供の頃の気持ちなんて本当は分からなかった。
でも、子供は泣いてくれた方が、きっと大人には楽なのだ。優しい言葉を掛けるとか、抱きしめるとか、対処のしようがあるからだ。
僕はこの時も緊張と困惑の表情を隠せなかった。
「何かとても込み入った事情があるみたいね」と店長は言って、砂羽の頭を優しく撫でた。砂羽はその手を払った。
そして、また泉の手が飛んだ。
砂羽は更に泉を睨んだ。
「すみません、かわいくない子で」と泉は言った。
店長は首を横に振って、パイプ椅子に座った。
「お姉さんはいつ戻ってくるの?」と店長は訊いた
「わかりません、どこに行ったのかすらわかりません」と泉は答えた。
○
僕たちが泉の部屋に着いた時、砂羽はテレビを見ていた。
僕は何の疑問も無く部屋に上がり込んで、砂羽におはようと言った。砂羽はこちらも見ずに少しだけ頷いた。
チェンジアップを空振りしたような気分になったが、鳴海さんが言った通り、僕もそんなものだと思うことにした。
一方、泉は敏感に異変に気付いていた。
「靴がない」と泉は言った。
「え?」
泉はユニットバスの扉を開けた。誰もいなかった。
ワンルームではそこ以外探すべき場所は無かった。
「あの人、いない」泉は頭をくしゃくしゃと掻いた。
「お姉さん? ちょっと買い物に出たんじゃない?」と僕は暢気に言った。
泉は更に頭をくしゃくしゃにして、ちょっとアンタ、と砂羽に向かって言った。砂羽は何も応えなかった。
泉はカチンとしたらしく、砂羽に踏み寄り、テレビのリモコンをもぎ取ってスイッチをオフにした。
「あの人……お母さん? ママ? どこいったの?」と泉は砂羽を見下ろして訊いた。
砂羽は何も言わずに泉の手に握られたリモコンを見つめていた。
「どこ行ったの? いつから独りなの?」
泉の声が震えていた。砂羽は少し首を振った。
「わかんないんだよ、きっと」と僕は泉の険しい表情を覗きながら言った。
「置いていったのよ」と泉は呟いた。
泉は左手で顔を覆って首を大きく横に振った。まさか、と僕は言った。
「まさか。こんな子供を置いてく? できないよ、そんなこと」
「あの人はするわよ。平気なのよ、そういうことが」と泉は応えた。
「そうかなあ」と僕が呟くと、アンタ、あの人の事何も知らないでしょ? と泉は切羽詰まったような声で僕を窘めた。
それはそうだ、何も知らない、と僕は思った。
そして砂羽の横に座った。
「お母さん、寝てる間に出て行ったの?」と僕は訊いた。
砂羽は僕の問いにも応えなかった。泉の手に握られたままのリモコンをずっと見つめていた。
どうなのよ? と泉はイライラした様子で畳みかけた。
僕と泉は砂羽が応えるのを待った。
しかし、砂羽にとってはそんな事はどうでも良かったらしい。自分を見つめる泉の手からリモコンをさっと奪い取り、素早くテレビを付けて、再びテレビの画面に見入った。
まいったな、と僕は言った。可愛くない子だわ、と泉が呟いた。
「それはともかく」と僕は言った「僕達はバイトに行かなくちゃならない。この子、どうする?」
泉がため息をついた。
○
僕達は砂羽を一人にしておく事はできないという結論を出した。
念のためバイトの時間に間に合うギリギリまで待ったが、鳴海さんは帰って来なかった。
そして、僕達はどうしていいものかわからないまま書店への道を歩いた。
泉は子供の歩調に合わすつもりは全く無かったらしい。どんどんと先に進んだ。
僕は最初砂羽の手を引いていたが、結局抱きかかえて歩かなければならなくなった。
ああ、そう言えば寝てなかったな、と僕は息を切らしながら思った。
○
「正直言うと、困るわね」と店長は言った「どんな事情だろうとね。だからこれ以上詳しくは聞かないことにするけど」
「すみません。でも今日一日だけ、この子、ここに置かせてもらえませんか?」と泉はまた頭を下げた。
「子供を預けて働きに来る人もいるのよ。そういう人に不公平になると思うの」と店長は左目を強く瞑って弱った顔をした「だけども、さすがに子供を部屋に放っておけとも言えないし……」
僕たちの視線は砂羽に集まった。
砂羽は自分の事で大人三人が困っていると知ってか知らずか、不機嫌そうな顔をしていた。
事務所が、しん、とした。
「それじゃあ、今日休みを下さい」泉がその沈黙を破った。
「ま、それも困るけど」店長が言った「この際仕方無いわね」
言うなり、店長は壁に貼られた名簿に目を走らせ、山名さんか小谷さんか伊藤君に代わってもらえるかどうか電話するわ、と受話器を取った。
「本当にすみません」そう言って泉は唇を噛んだ。ボタンを押そうとした店長の指がふととまった。
「今日だけじゃないかも知れないのね?」と店長は訊いた。
「わかりません。でも、その可能性も高いと思います」と泉は答えた。
店長はにっこり笑って、うん、分かった、と言った。
こういう予想外の事が起きて仕事が増えた時にっこり笑える人は、実はそれほど多くないと僕はまだ知らなかった。
「まかせて。安心して。いざとなれば、アタシと高橋君だけでも回せるわよ」そう泉に声を掛けて、ね? と店長は僕の目を覗いた。
「なんとか……します」と僕は答えた。
じゃあ、砂羽ちゃんと一緒に帰って面倒見て上げて、と店長は泉に言った。
素早くボタンを押し始めた店長に、泉はまた頭を下げ、砂羽の腕を取って、事務所を出て行った。
その泉の手が砂羽の腕を握り潰してしまいそうな程、力が込められていたのを僕は見た。
何故だか心のどこかが不穏に騒ぐのを止められなかった。
○
結局泉の代わりは見つからなかった。
次の日なら、と言ってくれた人もいたらしいが、とにかくその日は僕と店長だけで夕方まで切り盛りしなければならなくなった。
ところがその日、絶不調というのを僕は初めて体感した。
何をするのも身体が重く、レジを打つのも面倒くさかった。客からカバーを付けるよう言われただけでイライラした。
勿論繕っていたつもりではあったが、釣り銭を二度間違えた時点で、店長から売り場整理を命じられた。
僕の寝不足の顔を見て店長は気を遣ってくれたのかもしれないが、気を遣わせたという事が更に心を重くした。
昨日の件といい、本当は僕は役立たずなんじゃないだろうかと疑心暗鬼になりそうだった。
夕方、次のシフトの女子学生二人が来た時、店長は僕に言った。
「もう、帰った方が良いと思うわ」
「でも、これから混みますよ」と僕は答えた。
「知ってるけど、普段事務所にいるアタシが出れば、売り場の人数的には問題ないじゃない?」
「でも……」
僕には僕なりの責任感があった。
帰れと言われると自尊心が損なわれた様な気もして、抗いたくなった。
僕が言葉を言い淀んでいると、店長ははっとしたように言った。
「帰れ、って言ってもクビにするっていう意味じゃないわよ」
そういえばそういう話を前日したな、と思った。
「ええ」と僕は頷いた。
「すごく調子悪そうだから、今日はもう休ませてあげたいって思ったの。カノジョの事も気になるだろうし。今一番困るのは、沢崎さん(泉のことだ)とアナタに二人同時に抜けられる事よ。沢崎さんが休み続ける事になったら、アナタに出続けてもらう事になると思うのよ。だから、帰ってちゃんと寝て、明日からまたがんばってくれない?」
店長は微笑った。
僕は何だか救われたような気分になった。不思議なひとだな、と僕は思った。
わかりました、帰ります、僕はそう答えて、売り場を離れた。
しかし、泉の部屋への帰り道を歩いている内に、何も解決していないという事に気付いて、足が一歩ごとに重くなっていった。
<#06終 #07に続く>
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