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【連載小説】僕のセイシュンの三、四日 #07

この物語はフィクションです。登場するあらゆる個人、団体、組織、事件、SNS等は全て架空のものであり、実在のものとは関係がありません。
また、この作品は2013年にKDP/Amazonにて発行された電子書籍版に加筆・修正をし、連載形式に分割して再発表するものです。
ここまでの話数は↓のマガジンに纏められています。



         ○

 僕の足の重さが降り積もったかのような険悪さが、泉の部屋には満ちていた。鳴海さんがいないのは靴を見るまでもなく分かった。
 泉はキッチンで煙草を吸っていた。砂羽の見ているテレビアニメの音が部屋に響いていた。
 それだけで、二人が決して仲良く過ごしていた訳ではないことが分かった。
 本当に休もうと思うのなら、僕は自分の部屋に帰るべきだったという事にその時気付いた。
 部屋はあまりにも「静か」だった。
 泉と砂羽の間に親密さや和やかさが全く感じられなかった。
「何かあった?」と僕は訊いた。
「別に、何も」と泉は答えて、そっちこそこんな時間に、と訊いた。
「調子悪そうだから、帰って休めってさ」
 店長のように微笑もうとしたが、どうも僕には真似できていなさそうだった。泉が少し眉をひそめた。
「やっぱり帰って来ない」
「うん、そうみたいだね」
「無責任なのよ。昔からそうなの」
「きょうだいいないから良く分からないけど」
「そうじゃないの、きょうだいとかそういう問題じゃないの。嫌がらせが好きなのよ。人間として……」
 泉はそこまで言うと、ま、いいわ、と急に言葉を濁した。少なくとも楽しそうには見えない表情だった。
 この子はこの子でかわいくないし、と泉は砂羽を横目で見て呟いた。
 泉が砂羽を快く思ってはいないのは、事務所で頭を二度も叩いた事からも良く分かった。
 僕はコートを脱ぎ、砂羽の横に座った。「ただいま」と言ったが、何の返答も無かった。
 すると泉が寄ってきて、砂羽の頭をまた叩いた。
「何するの?」と僕は思わず叫んだ。泉はそれを意に介さず、砂羽に言った。
「ただいま、って言われたら、おかえりでしょ」
 だが砂羽の方は開くものかと言わんばかりに口を真一文字に結んでいた。
 泉はもう一度砂羽を叩こうとした。僕はその手を掴んで止めた。
 ただいま、おかえりなんて僕たちも普段は言わないじゃないか、と僕は言った。
「君がこの子をどう思ってるかは知らないけど、叩くのはどうかと思う」
 泉は眉をぴくりと上げ、僕の手を振り払った。
「他人には口出しして欲しくない」と泉は言った。
 親族か他人かと言えば、確かに僕は他人だった。だが、僕たちは付き合っていたのだ。僕は大事な部分を否定されたような気がして、寂しくなった。
 まして、トラブルが続いて不安定な精神状態だった。僕は反射的に口を返してしまった。
「他人とかそういうことじゃなくて、子供を無闇に叩くのはどうかって言ってるんだよ」
 泉は目玉だけ動かして僕を見、「アタシが悪いっていうの?」といつもより低い声で言った。
「だから、単純に良い悪いってそういうことじゃなくて……」
「叩くのはどうか、って言うって事は良くないって思ってるって事でしょ?」
「そうだよ」
「なら、どうすればいいわけ?」
「優しく教えてあげることもできると思う」
「普通の子ならそうするわ」
「普通の子だろ?」
 僕は脱ぎ捨ててあったコートのポケットをまさぐった。煙草は無かった。
 立ち上がって、キッチンに立つと、泉が自分の煙草を僕に差し出した。
 僕は黙って一本取り、銜えて吸おうとしたが、何度擦ってもライターに火が灯らなかった。
 泉がだるそうに手を伸ばし火をつけてくれた。僕はそれで少し冷静になった。僕はどうやったら、叩くのをやめるよう説得できるか考え始めた。
 泉を説得できると思ったのが間違いだったと今なら分かる。説得できなかったから、セックスも無かったのだ。そんな自明な事に僕は気付いていなかった。
「知り合いの話だけどね」僕は言った「小学校から野球をやってて高校でも野球部に入ったんだ。明るい良い奴だった」
 泉も煙草に火をつけ、腕を組んで僕に向いた。僕は泉が聞く体勢に入った事を確認して続けた。
「まあ、いつも地区予選の一回戦で負けちゃう様な弱いチームなんだけど、一年生でレギュラー取るくらいの奴だったんだ。それなりに上手かったし、負け試合の中でも結構活躍した。だから、それなりの自信もプライドもあった。
 ところが、ある日急病で監督が替わったわけ。それまではみんな楽しんでやればいいかって人だったのが、俺がお前らを勝たせてやる、みたいな感じの人に替わったんだ」
 僕は煙草の煙が邪魔になってシンクで消した。
「その話、長い?」と泉は訊いた。
「早送りで話すよ」と僕は応じた「ある日、監督が集合の合図を掛けた時に、そいつはたまたま同じ一年生とおしゃべりしてて、少し行動が遅れた。
 そしたら、ボールが顔めがけて飛んできた。
 そいつは反射的に受けたよ。
 で、飛んできた方向を見たら、監督が真っ赤になってそいつを睨んでるわけ。
 で、『来い。そのボール持って来い』って言うんだ。そいつはそのボールを監督の所へ持って行った。
 そしたらいきなり殴られた。
 最初の一発は訳が分からなかった。ただ驚いた。二発目もそうだった。
 喧嘩慣れしてなかったんだね。ぽかんとしてたんだ。
 そしたら、その監督はそれが気に食わなかったらしい。『てめえ、ふざけんじゃねえ』って言いながら、そいつが地面に倒れるまで殴ったよ。
 不思議なことに、そいつもそこまでされたら、何か自分に悪いことがあったのかも知れないって思い始めたんだ。で、土下座して『すいませんでした』って謝った。
 そしたら、『何が“すいませんでした”だ?』って下げた頭を蹴り上げられた」
 泉は指に挟んでいた煙草の灰をシンクに落としてから、深く煙を吸い、吐いた。
「で?」泉は言った「それが何の関係があるの? アタシたちに」
「そいつは最後まで殴られた訳が分からなかったんだ。ただ自分に落ち度があったとばかり考えた。
 でも、せいぜい自分が生意気だったからくらいの理由しか思いつかなかった。
 そいつはもうグラウンドに立ってもその事しか考えられなくなった。
 野球なんかしてられなくなったんだ。
 結局そいつは野球部をやめた。
 監督が自分に権威を付けて部を引き締めようとしたって仮説を思いついたのだって随分後だ。でもそうして納得した所で駄目なんだ。
 考えてる内に、恐怖の対象が広がっていって人間関係全般の苦手な奴になってったよ」
「だから?」泉は言った。
「暴力が人生を変える事があるって僕は言いたいんだ。特に受けた方はね。そいつはね、今でも野球に関連したものを見ると胸が苦しくなるってさ」
 泉は横目でテレビに釘付けの砂羽を見た。
「それは確かに不条理で辛い話だけど、アタシはこの子を地面に倒れるまで殴ったりしない。ちゃんと手加減もした。理由もはっきりしてる。もしこの子が謝ったり挨拶の一つもする様だったら、逆に褒めるわよ。大体殴られてアタシを睨み返す子よ。その野球部員とは違う」
 僕はまた簡単に論破されてしまった。
 それでも、子供を叩く事を容認した訳ではなかった。
 僕は小声で、だけど叩くのは良くないと思う、と再度言った。
 泉はそれを聞くと、キッと僕を強く睨んだ。
「じゃあ、アンタが躾けなさいよ」と泉は言った。
「出来るわけないだろ」と僕は応えた。
「なら、口出ししないで」
「でも、子供が叩かれてるのを見るのはイヤなんだ」
「だから、アンタが面倒見なさいよ」
 僕は何かを言いたかった。でも、僕は泉に勝てる自信が無かった。
 黙っていると泉は何かを思いついたような顔をした。
「そうよ、アンタがバイトを休んで、アタシが出る事にしたらいいじゃない?」
「何言ってるの。無理だよ、そんなこと」
「良い考えだと思うけど」
「僕だって生活と学費が掛かってる。それに、女の子だよ? 何か分からないことが起きたら困る」
「アタシが困る分にはいいわけ?」
「それは君は女だし、仮にも血が繋がってるから……」
「ほら、さっきは不満げだったけど、結局そういう話になるのよ。口で言うだけなら楽だけど」
 わかった? と泉は言った。
 僕は悔しかった。
 腹の底から頭の天辺に血が上るのが分かった。
「わかったよ」僕は言った「僕も面倒見るよ」
「え?」
「やるって言ってるんだよ」
 泉は皮肉っぽく唇の端を上げて笑った。
「ちょっと、怒ったの?」
「怒ってないよ。これは『僕たち』の問題なんだ。君にだけ任せられない」
「アタシの『家族』の問題よ、これは。やっぱり怒ってるのよ、アンタ」
「怒ってないよ」
「怒ってる」
「怒ってないってば」
 最後は自分で思ったより大きく声が出た。
 泉は黙り込んだ。
 僕は深呼吸した。
「店長は、僕ら二人に同時に休まれるのは困るって言ってた。だから、二人が交互に休んで、この子の面倒を見よう。今日は君の番、明日は僕」
 泉は俯いて、何かを考えていた。そして「じゃ、好きにして」と言った。
「そうするよ」と僕は応えた。
 泉は何か含みのある顔をしながらも、晩ごはんどうする? と僕に訊いた。
 僕は食欲が無かった。無かったが何か食べるべきだと思った。前日からまともに食事をとっていなかった。
 砂羽にも何か食べさせなきゃならなかった。僕は砂羽に訊いた。
「ごはん何が良い?」
 返答は無かった。その子に訊いても無駄よ、一日中そんな感じなんだから、と泉が言った。
 僕も諦めて、何でも良いよ、任す、と泉に言った。
 泉は料理を始めた。
 僕は砂羽の頭を撫でて、ごめんな、と呟いた。だが、砂羽はその手をいかにも鬱陶しそうに払っただけだった。

<#07終 #08に続く>

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