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僕はハタチだったことがある #08【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2014年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)から最新話までをまとめたマガジンはこちら↓です。


 


 そんなにセックスしたいと思ったのは、あの夜が初めてだった。
 もちろん、というか、当然男だから、性欲に苛まれてひとりですることは多かったし、大抵はそれで済むことだった。
 でも、その日はそれとは違っていた。三浦恵と合わさった肌の感触が、いつまでも僕をくすぐり続けた。着ている服が擦れるのさえ辛くて、僕はまともに立っていられなかった。
 僕は、あんなことは初めてだったけれど、地下鉄の駅のトイレの個室で射精した。
 あっという間だった。その上、一度では足りなかった。快感が激しいほど、僕は欲しいモノの欠如に気付く事になった。
 どうしても誰かに触れて貰わなければならないと思った。もっと深く何かに埋まってしまいたかった。
 部屋に戻れないということが、僕の言い訳になった。僕はふらふらと、本当にふらふらとして、いつのまにか貴句の部屋の前に立っていた。
 チャイムを鳴らすと、中から、どちらさま? と声がした。僕は沸き立つ気持ちを抑えて、相馬だよ、と言った。
 少し間があって、ゆっくりとドアが開いた。靴を脱ぐのももどかしく、僕は貴句に指を伸ばそうとした。
 相馬、と貴句が言った。その声の温度が、僕のどうかしてしまった気分とあまりに違っていて、僕は伸ばしかけた腕を反射的に引いた。
 貴句は僕をまっすぐと見た。
「あのね」と貴句は言った。
「うん?」と僕は応えた。
「あたしね、相馬と付き合うまで、誰とも付き合ったこと無かった」
「うん」
「でね、友達とかが色々話すのを聞くわけ。あいつが他の女を見てた、とか、自分以外には優しくしないで欲しい、とかね」
「うん」
「あたしね、そういうのばかばかしいと思ってたのよ。男は浮気ぐらいするし、あたしは、そんなことくらいで、怒ったりしないわ、って。皆、子供っぽいな、って」
「うん」
「日曜、部屋に電話した」
「うん」
「女の子が出た」
「それは……」
「オニイチャンは、コンドーム買いに行ったんだって」
 貴句が僕を真剣な目で見ていた。いや、違う、それは嘘だ、と僕は言った。
 だからと言って、僕が君と一緒にいたことも言うことはできなかった。
 僕は黙り込んだ。貴句は首を振った。
「いいの、それが嘘でも本当でも」
「嘘なんだよ、ちょっと事情がある子で、僕は迷惑してるんだ、今日だって……」
「今日も会ってたのね?」
「いや、だから、それは――」
「わかってる? あたし、相馬の部屋に呼ばれたことないんだよ? ただの一度もよ?」
「来ればいいよ、いつだって……」
 言いかけた言葉が止まった。少なくとも、今はだめだった。貴句は背中を向けた。
「ずっとなんか距離を感じてた。
 あの時、うまくいかなかったから、それで気まずいんだろうな、って思ったりもした。
 それはそれで良かったのよ。身体だけが目当てじゃないって証拠のような気がしたし。
 でも、同時に不安だった。もしかしたら、本当は相馬は身体だけすら、あたしのことを求めてないんじゃないかって。
 はじまりがはじまりだもの。いつ冗談だったって言われるか、いつも怖かった。嫌な事ばかり考えるようになった。
 なのに、どんどん相馬のこと好きになるのよ。そして、好きになればなるほど、気持ちが醜くなっていくの。
 きっと、もっと確かなものが欲しかった。あたし、行っていいかって、あの時の続きをしようって、そういうつもりで、日曜に電話したのよ。
 知ってた? 誕生日だったの。ハタチになるその日を本当に特別な日にしたかったのよ。
 そしたら、部屋に女の子がいるんだもの。あたしの上がったことの無い部屋に」
 あーあ、なんであたし、携帯の方にかけなかったんだろう、そしたら気付かなかったのに、と貴句は上を向いた。
 事情を説明させてくれないか、と僕は言った。もう、そんなの意味がないの、と貴句は応えた。
 僕は、そんな時でも、欲情を消せずにいた。それが、これだけおざなりにしてきた貴句を、その時一番愛しいものだと、僕に思わせようとしていた。
 腕が勝手に伸びて、貴句の肩を掴んだ。貴句はそれを身を捩って払った。
「あたしに手を触れるなっ」
 その強い口調に、びくっと僕は竦んだ。
 貴句は振り返り、悲しそうな笑顔を僕に向けると、これ、いつか言ってみたかったのよ、と呟いた。



 あたし、思った以上に普通の女の子だった、と言った貴句の平坦な声を思い出しながら、僕は地下鉄に揺られていた。
 ひどい男だと我ながら思うけれど、ふられた悲しみなんかより、当てが外れてセックスできなかったいらだちの方が大きかった。
 そんな時は、女の気持ちなんて、それがどんなに切実で筋が通っていたとしても、不条理にしか感じない。
 本当に、僕はどうかしてしまっていたのだ。
 僕は、三浦恵のいるあの部屋に戻ろうかとすら考えた。理性がそれをダメだという声がした。
 有り得ない選択肢だった。でも、裸で跨がってくる彼女が、僕をオニイチャンと呼んだら、どんな気分になるんだろうと思った。
 きっと、望めば、簡単だった。
 妄想が制御を外れていた。僕の息は荒くなった。
 ふと街の中心地のスクールの最寄り駅で、習慣的に僕は降りた。
 風俗街も近い。僕は財布を見た。相場すら知らなかったが、どうにも足りないような気がした。
 そのことが焦燥感となり、ずっと僕を支配している欲情に加わって、僕を歩かせた。
 今夜の宿をどうすればいいか、ぼんやり思った。ゆうきのいるあの部屋に帰ろうか、おそらく泊めてはくれる。でも、脚の付け根がずっとじんじんと存在を主張し続けていた。ゆうきの傍で眠ることは、きっとどんな拷問より辛いものになるのは間違い無かった。
 君のことを考えなかったか。当然考えた。けれど、どんなに正気じゃなかったとしても、いつかの酷い仕打ちと、それに、桂木のあのくしゃくしゃの顔を忘れるわけにいかなかった。
 僕はさんざん歩いて、仕方無くて、水谷に電話した。泊めてくれないか、そう言うと、水谷は、構わないよ、と言った。

 水谷の部屋には思ったより本があった。もの書きを志望しているのだから、当然と言えば当然だったけれど、僕は友達の部屋にそんなに本があるのを見た事が無かった。
 すごい本だね、と言うと、水谷は、積んであるだけさ、読んでないんだ、と言った。本を積み直して、床をあけると、ここに寝ろよ、と水谷は言った。
「貴句にふられた」と僕は言った。
「ああ、さっき電話で聞いた。他にオンナがいるんだって?」と水谷は応えた。
「僕のオンナじゃない。事情があるんだ。部屋を乗っ取られたんだ」
「乗っ取られたって……。ちゃんと山田に説明したか?」
「説明なんて、意味無いってさ」
「意味なんて無くても、言葉にせずにはいられないってのが、普通だろ?」
「そうなのかな」
「焦って必死で弁解する姿も、必要なんじゃないのか? 女ってのには」
「そういう時もあるかもしれない」
「でも、しなかった」
「ああ」
 ふむ、と少し考えてから、水谷は僕の目を真っ直ぐ見た。
「お前、山田のこと、本当には好きじゃなかったんだよな? 少なくとも一番じゃなかった」
 その通りだった。でも、僕はすぐには応えられなかった。
 あのつきあい始めの日、山田を好きだったと言った水谷に、申し訳なさすぎる気がした。
 隠すなよ、俺は何度も見てしまってるからな、と水谷は言った。僕は俯いた。
「早田鈴か」と水谷は言った。
「いや、違うんだ」と僕は応えた。
「だって、キスしてたろう?」
「そうだけど、でも、あの女とは、そういうんじゃないんだ」
「じゃあ、どうなんだよ? もしかして部屋にいる女ってのは……」
「いや、それは違う」
 慌てて否定した僕を見て、そうならそうでまた問題あるけどな、と水谷は呟き、そして天井を見上げて、宿泊代がわりに事情を聞かせてもらおうか、と言った。
 僕は少し胸が詰まり、迷ったけれど、ひとつ溜息をつくと、君と、タカハルとの、あの夜の事を話す覚悟が定まった。



 それからしばらく僕は水谷の部屋からスクールに通った。好きなだけいるといいよ、と水谷は言ってくれた。僕は、いる間、夕食代は自分が出すと約束した。
 君とのあの夜について、水谷は、山田と別れたんだからそのことは弱みとしては効力が薄まったよな、と言った。僕は何となくタカハルの名前は出さない方が良いような気がして、その名前は出さず、知らない男がいたことにして話していた。
 水谷は、狙いがさっぱりわからないな、と頭を掻いた。で、と水谷は言った。
「お前をイカせたのが男だったとして、それでも、気持ち良かったんだろう?」
 僕は応えなかった。考えないようにしてきたことにスポットライトが当たった。
 その時の僕は三浦恵のせいで性欲の塊みたいになったままだった。
 人生で唯一他者にされたあの感覚が蘇った。頬が勝手に上気した。それを知ってか知らずか、それが苦しかったんだよな、と水谷は言った。

 バイト先には、もう三浦恵はいなかった。オーナーが代わりに夕方のシフトに出ていた。
 参ったよなぁ、とオーナーは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「家に電話しても誰も出ないしさあ、他の人もすぐには都合つかないし、まったく最近の若い子はなあ……」
 僕の部屋にいますよ、とは言えなかった。猪口さんは、こんな事になるような気はしてましたけどね、と呆れた顔をしていた。
 素知らぬふりで働いていたが、夜二時を越えて客がいなくなった時、関さんが僕に訊いた。
「三浦さんが来ないの、相馬君のせいじゃないのか?」
「え?」
「こないだ泣いて帰った後から来ないんだから、相馬君のせいだろ?」
「僕はあの時何もしてませんよ」
 疑わしげに僕を睨んだ関さんから視線を逸らして、確かに「あの時」は何もしていない、と僕は思った。
 そうだ、僕は何もしていない。なのに三浦恵は僕を獲物にした。
 不気味だった。僕は自分のことなのに、自分ではどうにもできない理屈で世界が動いていることに、恐怖を感じた。
 でも、その時の僕がまったくどうかしていたと思うのは、その恐怖の底に、恍惚が潜んでいるような気がして、飛び込んでしまいたい欲求をどうしても消せなかったからだ。
 隠さずに言おう。僕は、三浦恵を、滅茶苦茶に、犯したかった。
 きっとそれは君たちとのあの夜なんかよりもっと激しい快感を僕に与えてくれるように感じた。

 悶々と、ただ悶々としていた。街や教室で見る女の姿にいちいち刺激された。
 貴句を手放したことが悔しかった。
 実習している皆を見て回る榛名先生の気配が近づいて来るだけで、白衣の下の女の曲線がどうしても想像されて、身体が反応した。僕は知らずに先生を目で追っていた。先生は、どうした? わからないことでもあるのか? と訊いた。僕は、トイレに行っていいですか、と言った。小学生じゃないんだから、休み時間に行っておけ、と先生は応えた。許可の言葉も待ちきれず、僕は立ち上がった。
 駆け込んだトイレの個室で、僕はまた射精した。情けなかった。手洗いの鏡にそういう顔が映っていた。
 僕がしょっぱい気持ちを噛みしめながらトイレから出ると、壁に寄りかかった君がいた。
「苦しそうね」と君は言った。
「おかげさまでね」と僕は応えた。
 僕はその時の自分を君のあの瞳で見ては欲しくなかった。だから、目を合わせなかった。君は手を伸ばし、僕の手の甲を掻いた。ぞくぞくとした。もっとそうして欲しかった。でも、君はすぐ手を引いた。
「今、どこで寝てるの?」君は訊いた。
「水谷のところ」と僕は応えた。
「アレ、我が物顔ね。オニイチャン」
「また部屋に行ったのか?」
「アレはオニイチャンが帰って来るのを待ってるんですってよ。オニイチャン」
 やめてくれよ、と僕は首を振った。ロリコンだったとは知らなかったわ、オニイチャン、と君はそらとぼけた声で言った。だから、やめてくれ、と僕は頭をぐしゃぐしゃ掻いた。
「そういうことをしないために、部屋を出たんだ」
 僕は視線を上げられなかった。君が、ふん、と鼻を鳴らしたのが聞こえた。
「一緒にいたら、しそうになっちゃうってことよね。それとももうしたの?」
「してねえよ」
「何もないのに、逃げることないじゃない?」
「……それは、だから……」
「罠にかかっちゃったのよね。情けない」
「君がそれを言うか? あの子は可哀想な子なんだ」
 君は背を向け、トイレの入り口に立った。ま、どこにいるかわかれば、それでいいわ、と言い、そして、僕に首だけで振り向いた。
「だから、あなたは幸せすぎるって言うのよ。それがどういうことか思い知ればいい」
 君はそう言い残すとトイレへと消えた。僕は君が出てくるのを待って何か言い返そうかと思ったが、結局何を言って良いものかわからず、すごすごと教室に戻った。



 何度も繰り返すけれど、僕の性欲は氾濫した川の様に身体の中を暴れ続けていた。水谷がいる手前、おとなしく寝ているふりをしていた。でも、本当は快感への欲求に身悶え続けていた。
 誰かに一番触れて欲しい部分に、うっかり手を伸ばさないように、僕は別の神経をいつも働かせておかなければならなかった。
 疲れていた。でもその疲れは、逆にまた僕の官能を鋭くさせた。
 地獄だ、と思った。そんな時に触れられる相手が誰もいないということが悲しかった。
 だから、その時も、僕はそんな思いを閉じた目の裏で味わいながら、起きていた。
 水谷がトイレに行ったようだった。僕は息を潜めた。水を流す音がして、戻って来たのがわかった。気配がした。僕の感覚は鋭くなっていたから、それが僕を見詰めていることがわかった。
 それは近くなった。どんどんそうなった。え? と思った時、僕の唇に、おそらく、唇が乗った。
 僕は動けなかった。それは離れていった。
 布団をかぶる音がした。僕は目を見開き、顔をその方に向けた。水谷は背を向けていた。何も無かったかのようだった。まさか、と驚き、いやいや、と否定し、でもやっぱり、と思った。皮肉なことに、そんな思考の堂々巡りのせいで、僕はいっとき、自分の性欲から自由になった。
 眠れずに迎えた朝、水谷はいつもと変わらない調子で、朝飯、どうする? と訊いた。僕は、何でもいい、と応えながら、この部屋にはもういられない、と考えていた。



 放課後、居候を辞退した僕に、いつまでだっていいのに、と水谷は言った。何だかうまくない言い訳をしたような気がするけれど、もう憶えていない。貴句やタカハルと卒業制作のためのディスカッションをしている水谷を残して、僕はスクールを出た。
 やっと秘密を打ち明けることができ、部屋においてくれた友人が、自分をただの友人だと思ってなかったかもしれないことは、少なからずショックだった。
 なら、いつか貴句を好きだ、と言ったあれは、言葉にしない気持ちなんて意味がない、と言ったあれは、なんだったんだろう、という問いが頭を巡っていた。
 そっちが本当で、昨日のあれが、たまたま間違いとか気の迷いとか僕の性欲が見せた幻覚なのではないか、と考えたりもした。
 いや、どう考えても、あれはリアルな、本当の、唇だった。とんでもない嘘つきだ、と僕は思った。
 でも、それをあげつらおうとか、非難しようとか、そういう風には何故か思わなかった。
 あのキスのおかげでわかったことがある。僕は、きっと、男には欲情しない。そのことは僕をほっとさせた。
 そして、そのことについては水谷が言い出すまで自分からは口にするまい、と僕は決めた。
 とは言え、性欲が消え失せたわけでもなく、行く場所が無くなったのも事実で、僕は公園のベンチで、地面ばかりを見ていた。そして、何気なく伸ばした手の先に、自分が持ち出してきたスケッチブックが触れて、僕は、そのひとを、思い出した。



 いらっしゃい、と師匠は言った。僕はカウンターの席に座った。珍しく、二人連れの客が、この前レッスンを受けたテーブルにいて、何だか真剣な話をしていた。
 師匠は注文も聞かない内に、アイスコーヒーを差し出すと、じっと僕を見詰めて、どこで火を点けられてきたのかしら、と微笑った。
 声が僕の敏感な部分をねぶり上げていった。
 師匠はカウンターから出ると、テーブルの客に、ラストオーダーになります、と告げた。まだ、七時を過ぎたばかりだった。

 光と陰を見るのよ、と師匠は言った。
 全ては見ることから始まるの、とも言った。
 師匠は僕の後ろに立って、腰を屈め、僕の顔のすぐ横から、同じ視点でトルソーを見ていた。その形をおおまかに取った紙を前に、どこが一番暗い? それと同じだけ、紙を暗く塗って、と師匠は僕を促した。僕は寝かせた鉛筆で、右の腰の付け根から乳房の下あたりまでを強く塗りつけた。
 そう、そう見えるのね、じゃあ、それを基準に他の部分を比べてご覧なさい、そこがそのくらいなら、ここはどうかしら? と師匠は右肩の横のあたりを指さした。そこも僕は強く、しかし、さっきより心持ち力を抜いて、鉛筆を擦りつけた。うん、まずはそれでいいわ、色んなところとそうやって比べながら、見たとおりの暗さを表現していくようなつもりで続けて、と師匠は僕の肩を軽く叩いた。
 これはね、目と手を繋げる儀式なのよ、そう背中で声がした。欲情は収まっていなかった。本当は、こんなことをしたかったわけじゃなかった。
 でも、師匠の言う通り、陰の暗さを比較して、鉛筆を動かしていくうちに、どんどんそれは「らしく」なっていった。僕はそれをもっと「らしく」したくなった。
 欲情のせいか、絵を描くことの高揚なのか、頬が熱くなった。指が鉛筆に、鉛筆が紙に繋がって、僕の身体は少し広がったような気がした。そして、融け交わったものの流れがどくんどくんとどこかで鳴っていた。
 どのくらい経ったのか、それ以上なにも描きようが無くなって、僕がだらんと脱力すると、師匠は僕のスケッチブックを眺めて、いいわね、と言った。描けなかったところから確かに成長したわ、と僕の肩に手を置いた。
 よく見て、と師匠は言った。僕は自分が描いたものを見た。
 全体的にピントのあってない写真みたいだった。薄く描こうとした部分はミミズがのたうちまわっているような印象すらあった。
 でも、絵だった。それは、間違いが無かった。
 師匠はスケッチブックを持って、席に座ると、消しゴムと鉛筆を使った。そして、こうするともっと良くなる、と再びその絵を僕に見せた。本当にちょっとした修正だったけれど、全体が鮮やかになった。
 僕は、それに、見とれた。
 先生にはきっと細かい技術を教えるより、この方がわかってもらえたでしょ? と師匠は言った。僕は頷いた。
 師匠は、さあもう一枚描いてみましょうか、と言った。今度は、もっと良くなるわ、という予言は、確かにその通りになった。

 何回か同じトルソーを角度を変えて描き終えた時、師匠はスケッチブックをテーブルに立て、カウンターから、酒のボトルと二つのグラスを持ってきた。僕の隣に椅子を並べ、グラスに酒を注ぐと、僕に勧めた。
 そして、グラスを軽く掲げると、男の子の成長に、と笑いかけた。僕も、偉大なる師匠に、と返した。
 僕と師匠は、それからしばらく、僕のその絵を見ながら、酒を飲んだ。
 質感を出すには鉛筆を変えて――、とか、ここは回り込みがあるから――、とか、師匠が教えてくれるのを聞きながら、僕はその絵を不思議な気分で眺めていた。
 その決して上手いとは言えない絵が、愛おしかった。自分でやったように思えなかった。
 でも、確かに僕が形にした。ひとに見せる程ではないけれど、その事実が誇らしかった。
 師匠は、ね? 言った通り美味しいお酒になるでしょう? と言った。何でしょうね、この照れくさいような感じ、と僕は言った。うふふ、と師匠は笑った。
 僕は大事な事に気付いて、師匠に言った。
「忘れてたんですけど、お礼しなきゃいけませんね」
「いらないわ」
「でも、ただってわけにはいきません」
「こうやって、美味しいお酒が飲める、それだけで充分」
「僕の下手な絵を見ながら?」
「絵も素敵だけれど……でも、何より、成長していく若い男が見られる。それはとても美しいものよ。あたしにとっての良いお酒のサカナはそれなの」
 それにね、人は自分の限界が見えると、今度は誰かを育てたくなるものなのよ、と師匠は遠い目をした。僕は返しように困って、また自分の絵に目をやった。
 そして、夏休み、暗がりで僕を眺めながらビールを飲んでいたゆうきをふと思い出した。僕は、良いサカナになっていたんだろうか? と思った。
 ゆうきは僕をこんな気持ちで見ていたんだろうか、と。
 師匠はちょっと俯いて、そういえば、と言った。
「一体何があったの?」
「ええ?」
「まるで、劣情が服着て歩いてます、みたいな感じだったわ。おかげでエンジンはすぐかかったけど」
 僕は自分の欲情を思い出した。思い出すと、それがまだ身体のどこかでたなびいているのが感じられた。落ち着かない気分になった。
 でも、話したら少しは楽になるかと思った。僕は三浦恵のことを話した。部屋を出て、ここに来るまでのことも。全てをせきららに。
 興味深げな微笑みを浮かべて、師匠は聞いていた。そして、言った。
「良かったわね」
「何がですか」
「関係を持たなくて」
「そうですね」
「きっと、関係を持ったら、そのことをネタにいつまでもいいようにされていたわ」
「そうですか?」
「高校生なら、色んな法律があるでしょう?」
「ああ……そうでしたね」
「でも、擦られちゃってるのよね。もう、弱みだわ」
「まあ……そうなんですけど」
「それで火がついちゃったかしら?」
「わかりません」
「男は馬鹿ね」
「かもしれません。少なくとも僕はよくマヌケって言われます」
 その三浦って子とあの怖い子、それにふられたけど、元彼女、なんだかんだで、モテてるのよね、先生、それに男の子に唇まで奪われて、と師匠は僕を冷やかした。モテてるってのとは違うような気がします、と僕は応えた。隙がある、ってことなのかしら、と師匠は僕をじっと見詰めて、そして視線を床に落とした。
「訊いても良い?」
「何ですか」
「どうして簡単にその女の子を信じられたのかしら?」
「は?」
 師匠はとんとんと指でテーブルを叩いていた。僕はどうしてかわからなかった。うん、それはいいわ、と師匠は言った。
「普通、父親に関係を強要されてる女の子って可哀想に思うじゃない?」
「ええ」
「悲劇よね」
「そうですね」
「そうね、だから、先生も彼女に強く出られなくなった。それもいいの」
「はい」
「でも、先生にとっては、それだけじゃなかった」
「ええ?」
「先生、あなた、それにこそ欲情したんじゃないの? その禁じられた関係に。そういう物語に。そういうことがリアルに感じられる素養も欲望もあった。つまり……」
 師匠はそこで言葉を切り、僕の目を覗いた。
 僕は何か言おうと口を開いた。でも言葉は出てこなかった。
 ゆうきのことを妄想して、してきたことの回数が僕に重くのしかかってきた。
 三浦恵のしていることが、僕は羨ましかったのか、という問いは、すぐさま理性が否定したけれど、その本当の答は心の中で暗い陰になって息を潜めたままになっていた。
 僕はその時そんなことを他人には明かせなかった。
 でもそれを見透かしているかのようなひとが目の前にいた。
 全部見られていると僕は思った。
 怖くて、でも、同時に楽になった。
 そのひとは、答えなくてもいいわ、と言った。
 茜ちゃんよりあたしが好みだって言ったわね、と訊いた。
 あたしも茜ちゃんより先生が好みよ、そう囁いた。
 僕が動けなかったのは、その声のせいだ。絶対に三浦恵やゆうきを思い出したからじゃない。
 先生、先生、とそのひとが何度も僕を呼んだ。その度に服がはがれていった。
 裸になっても、声は僕を捲り続けた。
 僕を形作っていた言葉が融け崩れていった。
 そして、息をかけ、液体をすすり、熱を加えて、そのひとは僕をただの肉にした。
 声が聞こえていた。声だけが聞こえていた。
 もうどの器官で聞いてるのかわからなかった。
 今までのどんな時よりもっと激しく、光の無いぬめりの中に、自分の哀しい陰を僕はぶちまけた。

 それをひとつの区切りとして、大人になった、とか、オトコになった、とか言うけれど、まるでその実感が無かった。
 僕はただぼんやりとしていた。
 わけもわからなくなるくらいの滾りは消えた。
 でも、問題は変わらないまま、それをどうしていいかわからない自分が変わらずそこにいるだけだった。
 曖昧だった。
 宿は貸さないわ、と師匠は言った。
「もし、あたしを必要とするなら、どこかから通ってちょうだい。古式ゆかしく」
 あてにしていなくもなかった僕は少し失望した。僕は訊いた。
「僕は、恋人ですか?」
 師匠は、口元に柔らかな微笑みをたたえて、先生は先生よ、と応えた。欲しい答ではなかった。
 でも、欲しい言葉をねだらせてくれる気配は、その目には無かった。



 まだ暗い内、師匠の店の階段を上りきった時、君がそこにいたことに、僕はもう驚かなかった。
 君の腕が、堪えきれないといった風に僕の身体に巻き付き、爪が縦横に肌を引き掻いた。
「水谷君の部屋にいなかった」と君は僕の胸で言った。
「まあ、いつまでもいられないよな」と僕は応えた。
「ここで何をしてたの?」
「絵を習ってたんだよ」
 僕は、君を押し離して、スケッチブックを開き、差し出した。君はそれを受け取ると、少し眺めて、そして、それをいきなり破った。
「何すんだよ?」
 僕は、続けて破ろうとする君の手を抑え、スケッチブックを奪い取ろうとした。
 でも、君は僕の成果を全て二つに破るまで、力を抜かなかった。ああ、ああ、と僕が地面に落ちた紙を拾い上げるのを君は見下ろしていた。
「したのね?」
「何をだよ」
「セックス」
「君だってしてることだろ?」
「何を、どんな風にされたか、言ってご覧なさいよ」
「あほか」
「さあ、あの年増はどんな手管であなたを気持ち良くしたのかしら」
「あのなあ……じゃあ、君は桂木とどんなことしてるんだよ」
「いやらしい」
「なんだそれ? 大体、君の場合、一人じゃないだろう? 桂木以外にもしてきただろう?」
「だったら何?」
 君が開き直ったせいで、言葉が続かなかった。
 君は再びしがみつくように僕に爪を立てて掻きむしった。痛いくらいだったけれど、それより、僕は、折角の作品が台無しになってしまったことに、落胆していた。
 大事な記念品が破られて、怒りを感じなかったのは、もしかしたらうしろめたかったからかもしれない。君は、恋人でも、何でもなかったというのに。
 君は、一息吐くと身体を離して、良いことを教えてあげる、と言った。
「あのオバサン、オトコがいるわよ」
「それで?」
「恐い、恐い人よ」
「だから?」
「これ以上ここに来ないで。そうよ、あたしの部屋にくればいい」
「お断りだ。絵だって、面白くなって来たんだ」
「そんなに熟れた身体が良かった?」
「そういうことは言ってない」
「あたしが握ってる秘密を忘れたわけじゃないわよね?」
「もう、怖くないね」
「それでも、あなたを自由になんかしないんだから」
 君は、そう言うと僕を睨んだ。僕は見詰め返した。
 君の瞳が、何故か、平気だった。
 君が先に目を逸らした。
 お願い、と君は言った。僕は眉をひそめた。君は言いづらそうに、何度も唇を結び直していた。
 僕は、当てなんかなかったけれど、君に背を向け歩き出した。背中で、お願いだから、と聞こえた。
「これ以上、先に行かないで」
 今まで聞いたことのない悲痛な声だった。僕は振り向きもしなかった。
 もう一つ、呟き声がした。あたしと戻ってよ、多分君はそう言った。
 僕は、そのことの意味を考えなかった。公園ででも寝てみるか、と僕は考えていた。



 僕は、何かを見ることが苦手なんだと思う。師匠に見ることを教わっても、得意になったわけじゃない。苦手だとはっきり自覚しただけのことだ。
 その時もそうだった。次の日のアルバイトの時間はいつもと同じように過ぎていると思っていた。とりあえずその日の宿を心配しなくてもいいことにほっとした後は、明日からはどうしようという不安でいっぱいになった。
 何も見ていなかった。関さんが素っ気なかったとその事の後になってようやく気付いたくらいだった。
 時間が来て、僕と関さんは早朝シフトの人達と交代した。僕はいつものようにバックルームで休もうと思っていた。
 相馬、と関さんは僕を呼んだ。
 振り返ったんだろうか? 僕は次の瞬間床に倒れていた。
 痛い、と思うより先に、次の衝撃が顔を襲った。
 それが、五、六回、いやもっと続いた。
 馬乗りになった関さんの無表情な顔が、その合間に見えた。
 鉄の味がした。
 指先が痺れていた。
 視界が濃緑に霞んだ。
 何もできなかった。
 くそ野郎、関さんはそう言った。
「お前、恵ちゃんの秘密を握って、いいようにしてるんだってな」
 応えようとする間も無く、関さんは拳を振り下ろした。最低野郎、ゲス野郎、と聞こえた。言葉にできそうなことを、僕は何も考えられなかった。
 関さんは立ち上がり、僕を見下ろした。
「いいか、これ以上、あの子に関わるな」
 関さんは一瞬背を向けたけれど、振り向きざまに仰向けになった僕の横腹を蹴り上げた。そして、わかったな、と言い残し、がたんばたんとロッカーを鳴らして、帰って行った。
 僕は身体を起こせなかった。顔が倍に膨張しているかのように感じて、それが心臓そのものみたいに脈打っていた。涙が滲んで皮膚に染みた。自分が何故そうなっているかを、まだ理解できなかった。
 しばらくして、バックルームに入ってきた早朝シフトの人が、どうしたの? と軽く悲鳴を上げた。何でもありません、と言おうとして、口がうまく開かないのに気付いた。本当に大丈夫? 喧嘩? と彼女は訊いた。それでも、僕は首を振ってみせ、仕事を続けてと伝えるために手で合図した。笑おうとした。上手く顔が動かなかった。とまどった表情で、彼女はバックルームを出て行った。
 僕はパイプ椅子に座り、ただ呆けた。
 みうらめぐみ、僕はその音だけを何度も脳裏に走らせた。



 酷い痛みを持てあましながら、授業中、何故三浦恵はそんなことをするのか、僕は考えていた。
 不幸な環境? たすけて欲しいから? もしかして、楽しいとでもいうのか? 
 だったら何故だ?
 その時の僕は自分がそんな目に遭っている理由が欲しかった。自分が何を間違えているのかを知りたかった。納得して、安心したかった。でも、わからなかった。
 君といい、三浦恵といい、僕はまるで子供の玩具になったみたいに感じた。
 ただ、不思議と僕は君と三浦恵を、そうとは自覚せずに、区別していた。君には人間のニオイがあった。三浦恵からは感じないものだった。
 その君は、僕の酷い顔を見るなり、先生に何も言わずに来たばかりの教室から早退した。すれ違ったトイレの入り口で、理由をタカハルに訊いても、さあ、としか返ってこなかった。
 タカハルは、僕は同居人だけど、いつも一緒にいるわけでも、何でも話し合う仲でもないんだよ、そんなことしてたら疲れちゃうでしょう? と言った。そうですか、と僕は応えた。
 タカハルは僕の顔をまじまじと見詰めて、それにしてもひどい顔だね、と言った。おかげさまでね、と僕は応えた。
 タカハルは、ところで、と言った。
「リンを選ぶ準備はできたかい?」
「なんでそうなる?」
「山田さんと別れたから」
「だからって……」
「他にもオンナがいる?」
 師匠の顔が浮かんだ。オンナと言っていいのか、わからなかった。
「いや、まあ……」
「その顔って、そういう修羅場のせい?」
「いや、これは別で……なんていうか、難しいんだ」
「いっぱい女がいるんだね、羨ましい」
「そういう意味じゃなくて」
 タカハルを呼ぶ声がした。貴句だった。
 貴句は隣にいた僕の顔を見て、少し驚いたようだったけれど、すぐに顔を逸らした。今行くよ、とタカハルは言った。貴句は頷くと教室の方へ戻っていった。
 それを見ながら、タカハルはもう一度言った。
「リンを選びなよ」
 僕は溜息をついた。そして、タカハルの目を見た。
「なら、あの時のことを明かせよ」
「そんなの、もう何の意味もないだろう? それにわかってるんだろう?」
 タカハルは、僕の肩を人差し指でついた。そして、にこりと笑うと、その場を去った。
 確かに君の僕に対する言葉から、それは、推測可能であったかもしれないい。でも、君だって、僕を操ろうとした。何かに気付くことを強要していた。
 僕は声にはしなかったけれど、その気持ちを初めて言葉にできた。
 悔しさだった。
 そして、僕は、自分の中の君に対する片意地みたいなものも、ようやく意識した。
 その片意地がほどけたら? 僕はその問いを頭から追い出すために、誰もいないそこで、首を振った。



 その日、僕は明るい内に、公園のベンチで寝ておくことにした。肌寒くなってきたから、持ち出して来た服を重ね着した。このまま、もっと寒くなったら、とか、雨が降ったら、とか、そういうことは考えないことにした。とりあえず、その時眠ることだけに努めた。
 目が覚めた後、僕にとっては少々高かったが、中心地にあるホテルに併設された温泉施設で湯に浸かった。それまで風呂と言えば、烏の行水程度だったけれど、この身体には誰かが触れるかも知れないということを自覚したせいで、肌を擦る手に力が入った。殴られた部分に染みた。
 休憩ゾーンの椅子で休みながら、僕は師匠が今夜も僕を受け入れてくれるだろうか、と考えていた。恋ではないとわかっていた。それなら何なのかはわからないまま僕はそこを出た。
 携帯が鳴った。自宅からの着信は、それまでも何度もあった。三浦恵がかけているとしか考えられなかった。留守電サービスには、寂しいよお、とか、帰ってきて、とか、そういう声が残っていた。僕は聞き流した。
 でも、そうしていても何も解決しないことくらい、僕にだってわかっていた。
 僕はやたらと胸が苦しかった。さんざん迷って、師匠のところに行こうと僕は決めた。こんな自分を性欲も含めてまるごと収めてくれそうな人は、何度考えても、他にいなかった。
 同時に何故か身体だけを求めに行くような気まずさを感じた。師匠の店へと歩きながら、自分に対する良い言い訳を探した。思いつかなかったし、杞憂だった。師匠は言葉なんか使わずに、僕を思うままにした。
 一通り、激しいものが過ぎ去った後に、僕は何となく、師匠が何故あの講座に通っていたのかを訊いた。カワイイ先生がいたからよ、と師匠は応えた。そうじゃなくて、そもそも講座を受けようと思った理由です、と僕は言った。
 師匠にはコンピューターなんか必要なさそうに思えた。現に店はそういうものとは無縁だった。
 昔ね、と師匠は言った。
「昔、すべてについて何かを、何かについてすべてを知りなさい、と言った人がいたの」
 師匠は僕の腫れた顔に指をなぞらせた。痛いです、と僕は言った。うふふ、と師匠は笑った。
「若い頃はそのことの意味がわからなかった。
 ううん、あまりに途方も無くて、そんなこと必要ないって馬鹿にしてたの。
 でも歳を取って、色々経験もして、遠くに押し出されてしまってから初めて、そのことの重要さが理解できるようになった。それができなかったから、こうなんだってことに。
 皮肉ね。すべては遅すぎたけれど、でも、できないことの数を数えているより、ひとつでも何かを知ろうと決めたの。
 コンピューターで絵を描くなんて、あたしにとっては、すべてについての何かのひとつだし、同時に、何かについてのすべてのうちのひとつでもあるわ」
 まあ、そんなところよ、と師匠は立ち上がった。僕は訊いた。
「その言葉のひとは、恋人だったんですか?」
 師匠は首を振って、先生よ、昔のね、好きだったかもしれないけれど、それに気付いたのはずっと後の話、と応えた。僕は、ほんの少し心がちりちりと焼けて、俯いた。
「先生は、今、何を知りたい?」と師匠は訊いた。
 僕は少し考えて、わかりません、と応えた。あら、まあ、と楽しそうに師匠は笑った。
 僕も合わせて笑いながら、自分が大方満たされていて、積極的に知りたいことやこうして性欲以外の何かに突き動かされることがないことが、もしかしたらずっと後になって後悔するような重大な過ちなのかも知れないと思った。
 幸せすぎる、と君は言った。その言葉を噛みしめると、酸っぱいような、苦いような感じがした。
 僕は乱れた服を直し、最後に深いキスをして、重たい足を地上に伸びる階段に乗せた。



 次の日、僕は職員よりも早くスクールの前にいた。出勤してきた職員が、鍵を開けながら、随分早いね、と言った。僕は痛い顔を無理矢理笑わせて、やりたいことがあるので、と応えた。
 授業前、もうすぐスクールの出資元の会社の一次筆記試験がスクール内で行われることを、榛名先生が告げた。就職する気のあるものは履歴書を出せ、そう言った。
 一限が終わった時、榛名先生は僕に近づいて来て、その顔、早く治せ、と耳元で囁いた。囁きですら、耳がキンとなりそうだった。そうしたいですね、と僕は応えた。
「年度代表は受かる。知ってる限りでは」
「はあ」
「行くんだろ?」
「はあ、まあ」
「何だ? 他にどこか志望するところでもあるのか?」
「そういうわけでは……」
「なら履歴書出しとけ。どこに決めるにしろ、内定はいくつあっても困らない」
「……はい」
 思えばスクールの掲示板の就職案内を見詰めるクラスメートが多くなっていた。
 世界は、いつも僕より先に動く。僕という人間が、凡庸である証拠のように思えた。
 それ自体は構わない。大抵の人が凡庸だ。
 でも、それを素直に受け入れてしまえることが僕の問題であるような気がした。
 若さとは、自分が特別であることを証明しようとあがくどうしようもない激情ではないのか、そうだとしたら、僕はそうとは気付かず欠陥を抱えているのではないか、そんなことを再び思った。

 昼休み、公園のベンチにいた僕を君が引っ掻きに来た。僕は何も言わずに、腕を差し出した。君は少し戸惑ってから、僕の腕に爪を立てた。その爪の間に、黒い汚れがあるのに、僕は気付いた。
 気付いたからといって、それがどういう意味を持つのかは、相も変わらず、その事が起こるまでわからなかった。
 携帯が、また、鳴った。君が、出れば? と言った。三浦恵だとわかっていた。無視したかったが、僕を見詰める君の瞳のせいで、僕は出なければいけないような気になった。
 電話の声は、オニイチャン、と言った。
「何?」と僕は応えた。
「どうして帰ってこないの?」声は言った。
「君がいるからだ」
「寂しい」
「家に帰れよ」
「あたし、死んじゃうかもしれない」
「え?」
「死のうと思う」
「ちょ、待……」
「さよなら、オニイチャン」
「おいっ」
 電話は切れた。僕は慌てて立ち上がった。部屋に戻らなければ、と思った。
 でも、君がしっかりと手首を掴んだ。僕が振り払おうとしても、それはほどけなかった。
「急ぐんだ」と僕は言った。
「嘘よ、どうせ」と君は応えた。
「聞こえてたのか?」
「聞こえないけど、あなたの慌てぶりから大体わかる」
「なら――」
「落ち着きなさい」
 君は一喝した。僕は少し怯んだ。落ち着くのよ、と君は穏やかに言い直した。
「でも……」
「死ぬなら、死なせればいい。そうしたら手間がはぶける」
「え?」
「でも、死なない。アレは、絶対に。あたしにはわかる。賭けてもいい。死んでたら、あなたの欲しいものを全部あげる。モノでも、お金でも、身体でも、あの日の秘密でも」
「そんなのは……」
「部屋にいきましょう」
「あ?」
「でも、放課後でいいわ。生きてたら、アレの言葉が嘘だったって証明にもなる。あたしが付き添う。それでいい?」
 欲情は落ち着いたとは言え、やはり、三浦恵と二人きりになるのは危ないような気がした。
 あの時簡単にスイッチを入れられた自分に信頼が置けなかった。僕は君の提案をのむことにした。
 君は僕の顔にそっと手の平を当てると、可哀想に、と呟いた。自分が可哀想だと言われる状況にいたことに、僕は改めて気付いた。君は言った。
「アレには自分のしたことを、思い知ってもらう」
 携帯は切っておきなさい、そう言い残すと君はスクールの方向へと去って行った。
 放課後、君は僕の腕を取って、教室を出た。桂木の目が気になった僕は、それを見ないように、ずっと視線を下げたまま歩いた。
 僕たちはいったん君のマンションへと向かい、部屋から酒のボトルを二本取ってきて、そこから車で僕の部屋に向かった。
 途中、会話は無かった。でも、僕は何度もハンドルを握る君の横顔を見た。いつもと変わらなかった。
 不思議だった。何故か、自分の心が穏やかになっているのを感じ取れたからだった。

 君の言った通り、三浦恵は、生きていた。ただ、テーブルの上には部屋にあった三本の包丁が並べてあった。
 彼女は、僕たちを見ると、眉をほんの少しひそめた。君は、あら、包丁なんて危ないわ、と言った。笑っていた。さっきまでの穏やかさが嘘みたいに僕は不安になった。元母親と会った時の、あの笑顔だったからだ。
 恵ちゃん、あたしがオニイチャンを連れてきてあげたわ、と君は言った。彼女は僕と君の顔を何度か交互に見、君に視線を落ち着かせると、うすら笑いを浮かべた。君は、ねえ、嬉しいでしょう? と彼女に言った。彼女は少し顎を引いた。
「ねえ、折角だから、今日は三人でお酒でも飲まない?」と君は訊いた。
 何が折角なのか、僕にはわからなかった。きっと三浦恵もそうだった。彼女は、僕を見た。
「訊いてるのはあたしよ、恵ちゃん」
 君は彼女の頬から顎にかけて指を滑らせた。彼女は目玉を小刻みに震わせていた。あら、怖いの? 子供ね、と君はいっそうの笑顔で言った。
 きっと彼女も君の瞳の不思議にとらわれたんだと思う。彼女は、ベッドへと腰掛けた君を目で追った。
 ここ、いらっしゃい、と君は言った。彼女は引き寄せられるように君の横に座った。すると君は、その腰に腕をまわし、僕にグラスを用意するように命じた。
 僕は言われるままに、グラスを君たちの前に置き、そのひとつに透明な酒を注いだ。
 あたしはウィスキーがいいの、と君はもう一本のボトルから琥珀色の液体を注ぎ、それを飲み干した。それがただのお茶だったなんて、僕は知らなかった。
 あなたも飲みなさい、と君は彼女と同じ酒を僕に勧めた。僕は口を付けただけで、火が出るかと思った。後で残されたボトルのラベルを見た時、それが相当高いアルコール度数であったことを知った。
 三浦恵は注がれた液体と僕たちを交互に見ていた。うすら笑いが少し歪んだ。
 君は、すごく、とても、非常に、笑顔だった。
 笑顔で、飲めないの? と彼女の耳元で言った。やっぱり、子供には無理かしら、と彼女の持ったグラスの縁に指を這わせ、そして、その指を液面に浸してから、三浦恵の口内に、まるで女性器を割るかのような動きで、差し入れた。
 ほら、何ともないでしょう? と君は彼女を見詰めた。三浦恵が見詰め返した。
 きっと三浦恵はその視線の戦いに降伏せざるを得なかったんだと思う。さあ、と君に促されて、彼女は震えそうな手で一気飲みして、むせた。
 君は、すごいわ、いけるクチね、と彼女を褒めた。
 君は彼女の空いたグラスをそのままにはしなかった。酒を注ぎ、表情を曇らせた彼女の耳元に口を寄せると、あたし、あなたみたいな可愛い子好きよ、ね、オネエサンって呼んでくれない? と君は囁いた。彼女は君の瞳を見ると、オネエサン、と何かに操られたかのように言った。まあ、可愛い、と君は彼女に頬をすりつけた。
 僕は、なんだこの芝居がかったやりとりは、と思っていたけれど、何も言わなかった。口を挟むな、という雰囲気が君から感じられた。
 君はそうやって、三浦恵を褒めそやしながら、彼女の目が濡れて、身体から力が抜けてしまうまで、どんどん飲ませていった。やがて彼女は完全に君に寄りかかったままになった。そして、ねえ、恵ちゃん、と君が言った。
「三人でシたことある?」
 三浦恵はとろんとした目で君を見た。声を出す事すらできない様子だった。
「しようか? 何するかわかるわよね?」
 君は彼女に小声で何事か耳打ちした。へらり、と三浦恵はにやけた。それを満足げに確認した君は、バッグから、例のケースを取り出し、一錠指の先に乗せて、彼女の鼻の先に突き出した。
「その前に、これ。気持ちよくなるのよ、とてもよ」
 三浦恵は、寄り目になりながら、その白い錠剤を見詰めていた。おい、それ、と僕は慌てて立ち上がろうとしたが、君はこちらを見もせずに、あなたは黙って、と鋭く言い放った。
「あなたみたいな子はきっとこういうの好きよね?」
 ゆらゆらと揺れている彼女に笑いかけると君はそれを自分の舌に乗せた。特別にわけてあげる、君はそう言うと、三浦恵の半分開いた口に舌を滑り込ませた。
 三浦恵の、ん、ん、という声がした。僕は思わず顔を逸らした。
 もう一錠、ううん、二錠くらいあれば、ちゃんと効くから、と君は言った。ケースを振る音が聞こえた。
 僕はなんとなく取り返しがつかないことに荷担しているような気がして、頭を抱えた。

 三浦恵は、これ以上無く、完全に、眠っていた。気持ち良く眠れたでしょうよ、と君は言った。
「起きないから、ヤって良いわよ」
「何を?」
「あなたがヤりたくてヤりたくて仕方無かったことを」
「馬鹿じゃねえの?」
「あらそう? 良かった。冗談だったから。でも、どうしてもっていうなら、待っててあげるけど?」
「しない。それより、どういうつもりだ、これ?」
「とりあえず、車に運ぶの手伝ってくれる?」
 僕は渋ってみせたが、君の早くしてという言葉に逆らえなかった。君は三浦恵のバッグを漁っていた。どこか投げやりな気分だった。酔っていたのかも知れない。僕は君がまさかあんなことを考えていたとも知らなかった。
 僕は力の抜けた重たい身体を何とか抱え、君の車の後部座席にそれを押し込んだ。

 そこは随分と市街地から離れたところにあった。うちの別荘みたいなものよ、と君は言った。
 また三浦恵を運ぶよう君は僕に命じた。君に導かれるまま、僕はその建物の裏へと三浦恵の身体を運んだ。
 そこに、大きくて、深い穴があった。脇には掘り返したと思われる土の山もあった。
 僕は、そこに至ってようやく、君が何をしようとしているのか、理解した。
 寒気がした。だめだ、と僕が言った声は悲鳴に近かった。
「どうして?」
「死んでしまう」
「いいじゃない、死にたいんだもの」
「それは、僕を呼び寄せるための嘘だったろう?」
「そういうことを言うとどうなるか、教えてあげるだけだわ」
「死んだら、学べないだろう?」
「いいから、ここに落としなさいよ」
「できない。僕は殺人犯になんかなりたくない」
 僕は三浦恵の身体を抱えたまま踵を返した。君は小走りで僕の前に立つと、三浦恵を無理矢理奪おうとした。僕は不自由ながらもそれを振り払おうとしたけれど、君が余りに強引だったから、抱えて居られなくなって、三浦恵を地面へと落としてしまった。可哀想だったかも知れない。でも、その時はそれどころじゃなかった。
 君はその上に馬乗りになった。そして、おもむろに首を両手で締め上げた。僕は何故か胸の奥に黒いざわめきが沸き上がって来て、少し吐きそうになりながら、固まってしまった。
 何かとても嫌なモノが頭の中に思い浮かびそうだった。
 君の手に更に力が入るのを見て、僕はやっとはっと我に返った。慌てて、それを止めようと君に覆い被さった。
 手を引きはがすのは容易ではなかった。一本一本をはがすように、指を引っ張った。そんなに腕に力を込めたのは久しぶりだった。
 やめるんだ、と耳元で大きく叫ぶと、君は少し怯んで、手を緩めた。込められていた力の証拠でもあるかのように、勢い余って、僕と君は後ろの地面に転がった。すかさず君は立ち上がり、三浦恵を穴へと引きずろうとした。僕はそれを後ろから抱き止めた。
 君のやろうとしていることは人殺しだぞ、どうなるかわかってるのかよ、と僕は叫んだ。
 君は腕の中で暴れた。暴れながら、君は言った。
「わかってるわ、犯罪よ、でも、もし、ばれたって、あたしはあなたの名前なんか出さない。あたしが一人でやったことにする。だけど、それでようやく、あなたと同じ……あたしたちだけの秘密を抱えて生きられる、それだけで、あたしはきっと……」
 きっと……きっと……と君は繰り返した。
 僕は怖かった。君といういびつな激しさの本当の形をようやく捉えたと思った。
 僕にはどうにもできそうもないものが、腕の中で熱を放っていた。
 必死だったから、深く考えたわけではないけれど、僕は言った。
「君が、言わなくたって、僕は黙っていられない、君が一人で罪を被るなんて、だから、有り得ない。そうじゃない、そうじゃなくて、タカハルに死を選ばせないんだろう? タカハルの命が重いなら、この子の命だって同じように重くて、奪っちゃいけないものなんだ。そういう、単純なことじゃないのか? まして僕のせいでなんて、そんなの御免だ」
 君の力が抜けていったのがわかった。
 わかったわ、と君は小声で言った。
 君の手が僕の手を取った。僕は反射的にそれを握り返した。ねえ、と君は言った。
「コレを殺すのはやめる」
「うん、それがいい」
「だから、あなたはずっとあたしの傍にいて」
 僕は空を見上げ、溜息をついた。
 うん、と応えなければならないような気がした。
 気が進まなかった。
 僕はこんな君の傍にいて無傷でいられるとは思えなかった。どうなの、と君は問うた。
 もう少し、時間をくれ、と僕は応えた。
 君は、やっぱり、待つくらいしかできることはないのね、と力無く言った。

 帰り道、君は、殺人事件は何故起きるか知ってる? と訊いた。僕は、怨恨とか、金とか、と応えた。違うわ、死体が見つかるからよ、だから、事件になるんですって、本に書いてあったわ、あそこなら、絶対に見つからなかったのに、と君は言った。笑えないよ、と僕は返した。
 三浦恵については、さんざん考えて、君が自分のマンションに連れて行くことにした。後は任せて、と君は僕を見た。頼むぜ、と僕は応えたが、それには、酷いことするなよ、というニュアンスを込めたつもりだった。
 伝わったかどうかは、後になってわかった。
 君の家の近所に住む独身男の部屋の前に置いてくるなんて思ってもみなかった。
 ちゃんとチャイムを鳴らして、部屋に上げるとこまで確認したわ、と悪気も無さそうな君から聞いた。
 でも、その時の僕は早く部屋で緊張を解きたかった。だから、念も押さなかった。
 そして、君は三浦恵から取り返した僕の部屋の合い鍵を揺らしてみせた。
「これ、あたしが貰っても?」君は訊いた。
「いいよ」
 僕は何故かそう応えた。理由なんて今になってもわからない。でも、君が勝手に僕の中に踏み込んでくるなら、もうそれでもいいと思ったんだ。
 君は、はあ、と息をつきながら、首を振った。
「だめよ、また、同じ失敗をする気?」
 本当にマヌケね、と鍵を僕に放り投げて、君は車を出した。
 僕はその鍵で、部屋に入った。僕はその夜、ただ自分の部屋に寝るということの幸せを感じながら、ベッドに入った。三浦恵の香りがした。
 自分でも呆れたけれど、それでも、どこかむずむずとして、僕はアダルトビデオを見ずにはいられなかった。そこで繰り広げられていることを眺めながら、ああ、こういうことをしたのか、と何だか感慨を深くした。
 僕は、今度そうなるとき、あの人を下の名前で呼んだらどんな顔をするだろう、と思いながら果てて、眠りに就いた。



 企画書は提出した。コンピューターで画像を作ります、というただそれだけのことを、無意味な言葉で用紙一杯に膨らませて書いた。そしてそれは榛名先生に大きな溜息をつかせた。お前は案外役所とかに向いてるのかも知れないな、と先生はぼやいた。
 そして、その榛名先生が言った通り、就職の一次筆記試験はパスした。桂木はトップの成績だったそうだ。凄いな、と職員に言われた桂木の顔は嬉しそうだった。
 僕がわけもなく桂木を応援したくなっていたのは、あの件で近づいてしまった君との距離がうしろめたかったからかも知れない。
 皆が幸せになればいいのに、と思った。
 でも、そのためにできることがわからなかった。

 九月、十月、ささやかな流浪を経て、僕は否応なく次に進む時を迎えていた。


<#8終わり、#9へ続く>



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