【連載小説】僕のセイシュンの三、四日 #02
この物語はフィクションです。登場するあらゆる個人、団体、組織、事件、SNS等は全て架空のものであり、実在のものとは関係がありません。
また、この作品は2013年にKDP/Amazonにて発行された電子書籍版の加筆・修正版を連載形式に分割して再発表するものです。
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冬も半ばを過ぎて、僕が二年目の休学をしようか迷っていたその日、泉はバイトの間じゅう不機嫌そうだった。
客をぞんざいに扱ったわけでも、レジ打ちをミスしたわけでもなかったが、僕には何となく泉が上の空なのが分かった。
時々、泉はそうなるのだ。
例えばそんな時一緒に食事をすると、泉は僕の焼いた鯖の塩焼きやら、冷や奴やらをただ箸の先で崩し続けて、一口も食べずに終わる事があった。テレビを見ていても、視線が画面を貫いて、どこか遠くに投げ出されているような感じがした。
そういう時と同じ雰囲気がしたのだ。
僕はいつもの様にそれが過ぎ去るのをただ待つことにした。一応泉がミスしないよう、書棚の整理をしているように促した。泉は何も言わずそれに従った。
大抵、二、三時間か、長くて半日もすれば、泉はちゃんと戻ってくる。僕は泉を気にせず、自分の仕事に集中した。
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シフトを終えて、二人で事務所を出る時まで、僕は泉の部屋に行こうと思っていた。
その前の晩、留守番電話のチェックの為に僕は久しぶりに自分の部屋に帰って一人過ごしていた。
傍に泉がいないというのが、こんなにも不自然なことか、と思った。僕は肌慣れした泉の部屋がもう恋しかった。
しかし、泉はこう言った。
「今日も自分の部屋に帰ってくれる?」
かまわないけど、と僕は応えた。そういう日だってある、素直にそう思えた。
寧ろ僕たちはいつも一緒に居すぎるくらいだった。
僕にも、泉にも、お互い以外に親しい人物が知っている限りいなかった。僕たちは同僚で、恋人で、友達だった。
泉がそう言うからには何か事情があると察してあげられる自分に僕は軽い満足を感じた。
にっこり微笑んで、じゃあ、と言い、自分の部屋へと帰ろうとした。
と、泉は僕のコートの袖を掴んだ。振り向くと、不思議そうな顔をして、泉は僕を見ていた。
「理由、聞かないの?」泉は言った。
「そういう日もあるだろ」僕は答えた。
「今日、アノ日だよ」泉は小声で言った。
アノ日とは三日に一度の射精の日の事だった。いつからか僕たちの間では、アノ日と言えば、その事を指すようになっていたのだ。
「構わないよ、明日でも、明後日でも」と僕は言った。
「明日も、明後日もできないかも知れないよ」
泉は少し困ったような表情をしていた。僕は泉が責任感からそんな顔をしているのだと思った。だから極めて気にしてない風を装って言った。
「世界が破滅するとでも言うの?」
「まさか」
「それとも、君がいなくなるとか?」
「違うわ」
「なら、いいじゃないか。何日後かわからないけど、また、してくれるんでしょ?」
「そうだけど」
何か歯切れが悪く泉は僕から視線をそらし、コートの袖を手放した。
僕は再び、じゃあ、と言い、帰路に着いた。
思えば、その時そんなもの分かり良く振る舞うべきでは無かった。
僕は泉が一人になることを望んでいると誤解したのだ。
もし、僕がもっと真剣に泉の表情や身振りや言葉や雰囲気を観察していたなら、もっと、何かしてあげられたのかもしれない。
そうしたら、泉の(そして、僕の)問題に、別の結末を用意できたのかもしれないのに。
○
携帯電話も普及してなかった時代の事だ。夜中誰かに電話するという事はマナーにそぐわないこととされていたし、とても勇気のいることだった。
だから、固定電話のベルが深夜に鳴るのは、多かれ少なかれ、どこか不吉な感じがしたものだった。
そして、その晩午前二時くらいだったか、うつらうつらしていた僕は電話のベルに叩き起こされた。
恐らく泉からだと思った。
そうじゃなければ、きっと誰かが倒れたか死んだかしたのだ。
僕は出来れば前者である事を願いつつ受話器を取った。高橋です、と名乗り切る前に、アタシ、と泉は言った。公衆電話かららしかった。
「泉?」僕は訊いた。
「来て」泉は言った。
「は?」
「今すぐ、来て」
泉は明らかに普段と違っていた。
「お願い、とにかく来て」
「いいけど、そっちの部屋に?」
「お願い」
その一言を最後に電話は切られた。
どうもおかしかった。
やっぱり寂しいから来て、というのとは違うような気がした。
僕は緊張した。何かが、それも悪い事が起きたのだと僕は感じた。
幸い、僕たちの部屋は歩いて二十五分くらいしか離れてなかった。僕は急いで服を着て、部屋を飛び出した。十分で着こう、と僕は思った。
○
そこにいたのは見知らぬ女だった。
僕の息は上がったままで、冷静な判断がつかなかった。
僕はその女を呆然と見、次にベッドに小さな子供が眠っているのに気付いた。部屋を間違えたかと一瞬思ったが、その二人以外はいつもの泉の部屋だった。
「誰?」と女は僕に訊いた。
「その、あの」僕は言葉をうまく出せなかった。
女は胡散臭げに僕を見ていた。
派手な茶髪の女だった。
それが、泉のパジャマ代わりのあちこちが延びたスウェットを着て、だらしなく座っていた。
女は座卓に置いてあったマルボロを手に取り、少しにやっと笑った。
「これのカレ?」と女は訊いた。
それは確かに僕のマルボロだったが、うまく答えることができなかった。
「マルボロ、貰っていい?」
「あ、はい、その、どうぞ」僕はそう答えるのがやっとだった。
女は慣れた手つきで蓋をあけ、唇の端にタバコを銜えるとライターを探した。
「何? びっくりしてんの? あがんなさいよ、ってか、火貸して」と女は楽しそうに僕に言った。
僕は促されるままに部屋に上がり、ジッポのライターを女に渡した。
女はわざと左手で不器用そうに火をつけて、顔をしかめながら煙を吐き出した。
「よく、こんなの吸えるね」と女は言った。
「マルボロ、嫌いですか?」と僕は訊いた。
「禁煙してる」
「はあ」
「してた、か。もう吸っちゃったもんね」
特に後悔する風でもなく、女は辺りをキョロキョロと見回して、灰皿はどこなの? と僕に訊いた。
「あの、無いんです」
「え?」
「キッチンで吸うんです」
「は?」
「タバコはキッチンで吸うのが、この部屋の決まりで。灰はシンクに落として、最後は水で灰を流しながら火を消すんです」
なにそれ、めんどくさい、と女は言った。
「決まりなんです」と僕は再び言った。
女はフンと鼻で笑い、本当に面倒くさそうに立ち上がった。そしてキッチンに立ち、シンクの縁でトントンと灰を落とした。
「ま、アンタの方がこの部屋の事は知ってるわよねえ」と女は意味ありげに笑った。
僕はその顔を見て、不思議と心が落ち着いていくのを感じた。感情が表情や言葉にストレートに出るタイプだと根拠もなく思ったからだ。
今でもそうだが、感じの好い人が僕は苦手だった。腹の底にあるものをつい想像してしまうのだ。それなら、嫌な奴であることを隠そうともしない素直さの方がよっぽど安心できた。
そういえば、と僕は思った。
泉はどっちなんだろう。
「何か考え事?」と女はタバコの煙を吐きながら、僕を覗き込んだ。
煙が顔にかかり、目に染みて、瞼が勝手にシパシパした。
「いえ。そうじゃなくて」
僕はようやく女に訊くべき事を訊いた。
「あの、失礼ですが、泉とはどういう……。いや、その、泉はどこに……」
訊きたい事と言葉が、まだ噛み合わない気がしたが、女はそんな事は構わないようだった。
「何も聞いてない?」
「ええ」
「姉よ、一応」
「はあ……」
僕はきっと間抜けな顔をしていたに違いない。泉の姉と名乗ったその女は僕を見て右眉をピクリと上げた。
「知らなかった?」と女は訊いた。
「はい、お姉さんがいることも、今日いらっしゃることも」
「カレシなんでしょ? アンタ。あの子の」
「はあ」
「どっちなのよ」
「恋人です。一応」
「名前」
「高橋です」
「高橋、何?」
「高橋祐介、です」
「祐介くんかぁ。アタシ、鳴海」
泉の姉は何か嬉しそうににやけて、煙草の煙を唇の先を窄めて吹き出した。僕は再度訊いた。
「泉はどこに?」
「さあ、三十分くらい前に出て行ったけど? コンビニにでも行ったんじゃない?」
「何かあったんですか?」
「どうして?」
「電話で呼ばれたからです」
ふうん、と煙草を銜え直した泉の姉は、一瞬だけ遠い目をした。
「何か」はきっとあったのだと僕は思った。
でも、それに自分が踏み込んでもいいものか、僕には判断しかねた。
ふと、ベッドに寝ていた子供が、うーんと唸りながら、寝返りを打った。僕たちの視線はそれに向けられた。
「あの子は?」と僕は訊いた。
「コドモ、アタシの」と泉の姉は答えた「砂羽っていうの、五つ、カワイイでしょ?」
そうですね、と相槌を打ったが、正直子供の可愛さというものを僕はまだ理解できていなかった。身近に幼児などと接する必要もない都市部の核家族における一人っ子としてその年齢まで生きていたから。
不自由な愛想笑いを浮かべて、それ以上の事を何も言えずにいると、泉の姉が呟く様に言った。
「泉の事、探して来なよ」
「……そうですね」
僕が泉のワンルームの小さな玄関で靴を履きかけた時、後ろから「アタシ、寝てるから」と泉の姉の声がした。
容姿に関しては二人にそれ程似ているところを見つけられなかったが、声は似てるな、とその時初めて僕は感じた。
そして、少し振り向いて「いってきます」と言った。娘の寝ているベッドに入りながら、「いってらっしゃい」と泉の姉は応えた。
僕は特に違和感も無く部屋を出た。
○
泉は部屋から一番近くのコンビニの前にいた。
バイト上がりの時の服装のままだった。夜はまだ寒いのに、いつものコートは着ていなかった。
きっと「何か」があって、部屋を飛び出したのだ。
煙草の灰が今にも落ちそうなほどその指の間で長くなっていた。何かを思い詰めたように、地面の一点を見つめていた。
それまで見た事の無いような雰囲気だった。
僕が近づいて行っても、こちらに気付く様子は無かった。
泉、と僕が声をかけて初めてゆっくり僕の方を見た。さして嬉しそうでも無かった。煙草の灰が地面に音も立てず落ちた。
「部屋に行ったよ」と僕は言った。
「うん」と泉は頷いた。
「お姉さんがいた」
「うん」
「知らなかった」
「うん」
「聞かなかったけどさ」
「うん」
「僕は一人っ子だよ」
「うん」
「だから泉が僕の部屋に来ても知らない人がいるって事は無いと思う」
「うん」
「あ、両親が来るってことはあるな」
「うん」
「でも、そういう時は前もって言うよ」
「ごめん」
「謝ることなんてないんだ。気をつけなきゃな、って思っただけだから」
泉はため息を一つついた。自分でもそれに驚いたかの様に目を丸くして、打ち消す様に深呼吸をしてみせた。そしてぎこちなく僕に笑いかけた。
それまで僕たちはお互いをあまり詮索しなかった。必要が無かったし、それが普通の事だと思っていた。
それに「アノ日」が二人の決まりになった時、「詮索しない」のを僕の美点だと泉が言ってからは、僕はなおさら質問を控えた。
興味が無かったわけじゃない。でも、その時も僕は泉に何も訊かなかった。
「部屋に帰ろう」とだけ僕は言った。
「アタシね」泉は呟く様に言った「あの女といると殺したくなるか、死にたくなるかするの。めんどくさいの」
僕はどんな風に応えていいか分からなかった。ただ、うん、とだけ頷いた。
「だって……」泉の声が大きく響いた「だって」
泉が喉に詰まらせた言葉を僕は待った。でも、それ以上何も出て来はしなかった。
少しの沈黙に冷たい風が過った。
ごめん、泉は前髪を少し払って、もう一度そう言うと、初めて寒さに気付いたかの様に少し身震いした。僕は自分のコートを脱いで、泉の肩に掛けようとした。泉はそれを大丈夫と言って軽く払って歩き出した。
やり場を失ったコートが少し寂しかった。
部屋への道、僕はそれを再び着ようとは思わなかった。
<#02終 #03に続く>
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