僕はハタチだったことがある #10【連載小説】
この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
また、この作品は2014年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
途中からお読みの方、#1(第一話)から最新話までをまとめたマガジンはこちら↓です。
僕はあまり情報に聡くないから、それを僕が知ったのはスクール中でも最後の方だったと思う。スクールは、来年度の学生を募集せずに、その時の一年生が卒業したら、閉校を予定しているのだという噂だった。
僕は榛名先生に訊いた。先生は取り立てて隠す様子も無く、そうだよ、と応えた。
「君らのコースで言えば、もっと本格的で最先端を売りにする専門学校も去年できたしな。ごっそり生徒がそっちに流れて、今の一年は欠員が多く出た。ビジネスコースだって、もっと有名な所がある。
相馬だから言えることだけど、こういうコンピューターの使い方を教えますってだけの中途半端な学校は、コンピューターが浸透していく過渡期にしか役割を果たせない。なら傷口が深くないうちに畳んでしまおうってことだよ。
使命を終えたんだ、ここは」
僕は、なんかやってきたことが時代遅れで無駄だったって言われてるみたいな感じがします、と言った。
榛名先生は、それは違う、と目を見開いた。
「というか、学校ってのは、常に時代遅れで子供の遊びみたいなことしか教えられない。どんなに最先端を謳っていてもね。
でも、それは無駄じゃない。そこを踏まえないと先に進めない。
お前たちは学校を卒業すればそれで勉強をしなくて済むと思ってるかも知れないが、違う。
学校は学生を人間として完成させたりはしないし、できない。人間は一生何かを学んで生きなければならない。
学校ってのは、ひとりでも一生勉強し続けられるようにするための準備をするところなんだ。
少なくとも、相馬、お前にはちゃんと準備させたつもりでいるよ。
本格的になるのも、最先端になるのも、いや、そこまでいかなくても最低限習ってきたことを無駄にしないのだって、後はお前が続けるかどうかだけによるんだ」
相変わらず、真面目な話には合わない声だった。でも、やはり、僕はちゃかすつもりも無かった。
僕は俯いて、だけど、さびしいです、と言った。榛名先生は、わかるよ、と僕の肩に手を置いた。そして、でもなあ、と言った。
「あたしら職員は、さびしいじゃすまない。次の職場を探さなきゃならない。正直、お前達の就職どころじゃない。まだちょっと先のこととは言え、頭痛いよ」
これ、内緒の話、と榛名先生は言い残して、離れて行った。
僕はその白衣の後ろ姿を見ながら、空洞としか言えない何かが、行き場も無いのに、僕を急かし始めているのを感じていた。
その感覚が僕を改めて卒業制作に向かわせた。
もしかしたら、刑事たちが僕を逮捕しに来るかも知れないという不安を紛らわせたかったのもあるかも知れない。
わからないけれど、内定のある僕は、就職活動に忙しいクラスメートをよそに、以前のように放課後残ってまでコンピューターに向かった。
僕は何を作って良いものかまだ迷っていた。
何となく絵らしきものをブラシツールで描いたり、ネットで拾った画像に無意味にフィルタをかけてみたりした。
でも、完成像が頭の中に無かった。
美しいと思うものを描けと師匠は言った。今更言わなくても、僕がそう思うものなんて、そう多くなかった。
でも、何かわだかまりがあった。僕が、もしそれを選んだら、多くのものを裏切ってしまうような気がした。
その中に君もいた。
同時にそれを認めて形にしてしまったとき、僕は自分がどうなってしまうか怖かった。きっとそれに向かう気持ちを止められなくなるという確信があった。
そんなことを思いながらした作業は、ほぼ徒労になった。
教室を見渡すと、やはり家にコンピューターの無い学生たちが卒業制作を進めていた。僕は彼らの作業を見て回った。
ウェブ用のスロットゲームを作ったり、SF的なカラーイラストを描いたり、モーションタイポグラフィに取り組んだり、どれにも僕は感心させられた。
授業や出席に無頓着な学生ほど、良い作品を作っているように僕には思えた。
その恩恵を人一倍受けておいて不遜かもしれないけれど、やはり年度代表の選考基準は間違っているのではないか、とまで考えたりもした。
貴句と水谷とタカハルのグループもいた。スクールのコンピューターの性能の限界を踏まえて、ウェブ用にカラーで仕上げることにしたらしい。貴句は結局マウスでは満足な作業ができずに、自腹でペンタブを買って持ち込んでいた。
スキャンした下描きに貴句がペン入れをし、男二人がアシスタントとして指示された作業をしていた。
僕はいわくのある三人に近寄り難くて、遠目でそれを見た。
今でこそマンガ専用のソフトがあるけれど、マンガを描くことを第一の目的としないそのソフトでの作業は、何だか大変そうだった。何か問題が起こる度、彼ら三人は集まって話し合っていた。僕は、それを、うらやましく思った。
でも、そこに入れない理由を作ったのは自分だった。当たり前のように隣に座っている君を見て、僕は余計寂しくなった。
就職活動で飛び回っているらしい桂木の不在の間、君は僕の傍を離れなかった。僕が君を奪ったとか、君が二股を掛けているとか、そういう噂があったとしても、もう否定できないくらいの状況証拠が積み上がっていた。
最近、タカハルの調子が良くないのよ、と君は言った。地下鉄の駅へ向かう途中だった。
僕は、普通に見えるけど、と応えた。君は溜息をついた。
「大抵、春になると調子が悪くなる人が多いらしいけれど、タカハルは冬なのよ。それもあって、前の冬は夜間コースにあえて付き合わせたの。でも、今回はダメ。部屋でもふさぎこんでいることが多くて。学校にいるときは必死で、普通に見えるようにしているのよ」
「声とか聞こえたり?」
「ううん、それは無いって言うんだけど……。なんていうか、不安で、ざわつくんですって。そして、考えが悪い方、悪い方に向かって、ひどかった時に引き戻されるようで辛いらしいのよ」
「ふうん……」
「話しかけられるのもいやがるし……こんな時、あたしはまるで無力だわ」
君が表情を変えなくても、それが弱音であることはわかった。珍しいことだった。初めてだったかもしれない。
僕は自分が君の胸で泣いたことを思い出した。
その原因が君にもあったとしても、僕はそれを責めるつもりは無かったし、ある種の親密さが生まれてしまったことを打ち消そうとも思わなかった。
タカハルについては、僕にもできることは無かった。でも、君なら励ませると思った。
部屋に戻る前にどこかで飯でも食っていかないか? と僕は君に提案した。君は、こくりと頷いた。
「何食べる? ラーメン? カレー? パスタかな?」と僕は訊いた。
君は少し考えて、あたしね、と言った。
「あたし、牛丼って食べた事無い」
僕は、じゃあ、それにしよう、と言い、君の手を取って、繁華街にある牛丼店に向けて歩き出した。
店に入る時、一瞬君が竦んだような気がした。初めて入る店だから、気後れしたのだろうと、とりたてて不審にも思わなかった。
僕は、並でいいかな? と訊いた。何でもいいわ、と君は応え、顔を伏せていた。
僕は、並と味噌汁を二つずつ、やってきた店員に頼んだ。すぐにそれは給された。
君は顔を上げた。サジマ、と言った。店員が振り返った。
その笑顔が次の瞬間、戸惑いに崩れた。
でも見詰め続ける君に対して店員は笑顔を作り直すと、りんどう、と応えた。君は立ち上がった。そして、味噌汁の椀を持つと、その店員の顔へとぶちまけた。店員が熱さに驚いて、それを必死で拭おうとしているのに目もくれず、君は振り返ると店を出て行った。
僕は、出て行く君の背中を呆然と見送った後、店員に対して、すみません、ごめんなさい、と謝った。店員は、いや、いいんだ、いいんです、と応えた。
その時に限った話ではないけれど、わけがわからなかった。でも、残された牛丼を悠長に食べるわけにもいかず、僕は、金をおいて、もう一度、ごめんなさい、と言い残して、君を追った。でも、右を見ても、左を見ても、君の姿は無かった。
そして、それからしばらく、君は僕の前に現れなかった。
学校にも来なかった。
季節感に疎い僕にもわかるくらいクリスマスが近かった。赤と緑が煌めいて、そして、この地域ならではの雪の白が街の底を覆っていた。
やたら幸福を押しつけてくる演出が鬱陶しかった。
君が来なくなってしまったことの寂しさが、驚く程、胸の中で騒いでいた。
そうして都合良く寂しくなれる自分が、何となく許せなかった。
僕はその時自分でも気付いていた。自分がたった一人の相手では足りないことを。しかも、それが、絶対に得られないものの代わりにしか過ぎないことを。だから何も選ばずにいたことを。
どこかで見たラブストーリーの様にはいかなかった。
美しくなかった。残したくなかった。だから、師匠のところにも、行かなかった。
僕はひとりになった。
会社のこの地域の内定者の集いがあった。ひとりひとり自己紹介をし、連絡事項や注意があった。
多田さんもいた。会の後、僕は彼に話しかけた。
「どうして、桂木君はダメだったんですか? 三人取る予定だとおっしゃってました」
多田さんは、微笑むと、そうだなあ、と言った。
「予定は未定って言うでしょう?」
「そうですけど……」
「彼はついてなかった」
「ええ?」
「これまでの経歴を見てもね。能力差が無い時には、そういう所も大事だよ」
多田さんはすっと離れて他の学生に話しかけにいった。はぐらかされたとしか思えなかった。理由ではなく、相手にされていないということに、気分が重たくなった。
これから先、社会に出たら、こんな気分を何度も味わうことになるのか、と思った。
貴句がいた。帰り道、一緒に歩くことになった。何を話しかけて良いのかわからなかった。貴句は何かを打ち払うようにぶんぶんと顔を振って、僕を見た。
「ああ、やっぱり、だめ」貴句の声は大きかった。
「何が?」僕は驚いて応えた。
「ずっと黙っていてやろうと思ったけど、こっちがしんどい」
「そうですか」
「ねえ、この会社、本当に入るの?」
「今の所そのつもりだけど」
「じゃあ、同僚じゃん」
「そうだね」
「ずっと話さないなんてできないよ。不自然だ」
「そうかも」
「仲直り……。仲直り? しよう」
「ん?」
「仲直りとしか言いようないじゃない?」
「まあ、そうだね」
「じゃあ、そういうことで」
「そういうことで」
僕たちは、別に握手を交わすでも無く、仲直りを確認した。貴句は僕に訊きたいことが多くあったようだ。
「ねえ、あの子どうしてる?」
「どの子?」
「そんなに一杯心当たりあるの?」
「三番目の愛人なら、今、モルジブで幸せに暮らしてる」
「誰だよ、それ。あたしが言ってるのは、電話に出た子」
「ああ、妹なら、南極観測隊の隊員になったらしい」
「ああ、シロクマに会いに」
「ペンギンの方らしいよ」
「もうっ……何でも無かったんだってことはわかった」
「わかったの?」
「違うの?」
「どうだろう」
貴句は、もう、いいよ、と呆れた風に笑った。僕も笑い返した。
「やっぱり、相馬とは、会話が違うな」
「そうかな」
「そうだよ」
「もしそうなら、貴句とだけだよ。他では会話は上手くない」
貴句は、ちょっと頬を赤くして、すぐ顔をしかめてみせた。
「だめだよ、カノジョ持ちがそういうこと言っちゃ」
「カノジョ? どの?」
「だからもう良いって。早田さんだよ」
「ああ……。でも、カノジョじゃない」
「嘘」
「本当」
「いつも一緒にいるじゃん」
「いつもはいないよ。トイレには一人で入る」
「だから冗談はもういいって……。桂木から、全部を奪った男として、一部で名を馳せているよ。君は」
「奪ってない。奪うつもりもない」
「本当に?」
「本当に。それに、貴句こそ、三角関係のヒロインやってるって話じゃないか」
「冗談やめてよ。ガラじゃない」
「な? 噂なんてあてにならないんだ」
「そうね」
「そうだよ」
別れ際、僕たちは少し見つめ合った。
僕はようやく貴句がスーツを着、化粧をして、少し大人っぽくなっていることに気が付いた。僕は、それをそのまま言った。貴句はちょっとふざけたあきれ顔をした。
「いい女だと、気付いたか」
「まあ、『どうでも』がつくけどな」
「なんだよそれ」
「冗談だよ」
「いい女だろ?」
「そうですね」
「気付いた時には遅すぎる、ってのは、こういうことを言うのよ」
貴句は、これからは普通にやっていこうね、と手を上げて、去って行った。引き留めたいと強く思った。思って、僕は自分が嫌になった。
君の代わりに、貴句を使おうと、ほんの少しでも頭に過ぎったからだった。
ゆうきから電話があった。念のために訊くけど、二十四日、暇か? とゆうきは訊いた。暇だ、と応えた。
「なんだ、カノジョいたんじゃないのか?」
僕は何も言わなかった。すると、まあいい、琴子がケーキを焼くし、いつもの鶏に詰め物をしたやつも作るって言うから、食べに来い、とゆうきは言った。
久しぶりに戻ったその部屋は、ゆうきの匂いがして、胸が騒いだ。ゆうきの懐に抱かれた日々が、懐かしく、心を刺した。こたつには、琴子の作ったオードブルやケーキや鶏の丸焼きが並んでいて、まぶしかった。
ゆうきはまだいなかった。僕は、ゆうきは? と琴子に訊いた。うん、ちょっとね、と琴子は台所で応えた。
僕は、部屋を出て行くまで、定位置だった席に座り、ぼんやり天井を眺めていた。琴子が、エプロンで手を拭いながら、やはり、いつもの場所に正座した。
僕は、料理に目を遣り、相変わらず美味しそうだね、と言った。琴子は、“笑って”僕を見た。
「これが最後かと思って、張り切っちゃった」
「最後?」
「だって、聡ちゃん、来年はこの街にいないかもしれないでしょう?」
会社は東京に本社がある。この街にも支社があるが、配属されるとは限らない。一応ここにいれるように希望を出すけどね、と僕は言った。
「だとしても……」
琴子は何か嬉しそうに口を開いたが、すっとそのまま言葉を止めた。何? と僕は訊いた。琴子は、ううん、あたしから言っちゃだめね、と首を振った。僕は首を傾げた。
そこに、ドアが開いた。ゆうきが、本格的に降ってきた、と雪を払いながら、入って来た。ゆうき一人じゃなかった。その後ろに見知らぬ中年男が立っていた。
ただ嫌な予感がした。
ゆうきは、僕を見ると、おう、と声を掛け、後ろの男に振り返った。あれがあたしのムスコで聡太、と言った。男は頭を下げた。僕も会釈した。ゆうきは、男を手で指し示しながら、聡太、こちら、今泉さん、同僚で、まあ、そのなんだ……と言葉を濁した。今泉さんは、柔らかく笑みを作り、僕は恋人のつもりでいるよ、と言った。
僕のショックをどう表現していいかわからない。ビールも、琴子の料理にも、味が無かった。
今泉さんを中心にした和やかな歓談も、その意味が掴めなくて、ただ頷いていた。
僕は、ゆうきのムスコとして、顔に笑みを貼り付けておくことに精一杯で、ゆうきがくれたプレゼントの箱も言われるまで開けられなかった。ネクタイだった。今泉さんと選んだのだと言われた。僕は自分が何も用意してなかったことに随分後になって後悔したけれど、その時はそんなことまで気が回らなかった。
だから、君からの電話が鳴った時も、今泉さんに言われるまで、その音が何を示しているかがわからなかった。
君は、あなたの部屋の前にいるわ、とだけ言って切った。僕は、なんだか下手な言い訳をして、退席を申し出た。
部屋に帰るのかい? と今泉さんは訊いた。僕が頷くと、じゃあ、車で来てるから送るよ、と今泉さんは言った。僕は丁重に断った。しかし、今泉さんは僕の耳元で、二人で話もしたいしね、と囁いて、僕より先に部屋を出た。
僕にも娘がいてね、と運転席で今泉さんは言った。僕は、そうですか、と応じた。
フロントガラスに、降る雪が貼り付き、ワイパーに払われて行くのを、僕は見ていた。
今泉さんが、中年と言えど、いかにもゆうきに似合いそうな容貌をしているのが悔しくて、それを見ないようにするためだった。
「娘は前の妻のところにいる」
「そうですか」
「複雑な思いをするんだってね」
「何がですか?」
「いや、前の妻が再婚する時、娘がそう言っていたからね」
「ゆうきは再婚じゃありません」
「そりゃあ、わかってるよ。でも、子供としては――」
「僕は、ゆうきの子供でもありません」
今泉さんは僕をちらと見た。横目にその笑顔が映った。わざとらしいところの無い、穏やかな笑みだった。それが嫌だった。
「それも知ってる。でも、まあ、子供のようなものだろう? 相馬さんはそのくらい大事に君を育てた」
「そうですね」
「相馬さんを口説こうとした時、こう言っちゃなんだが、一番の障害は君の存在だった」
「はあ」
「君が立派に巣立つまで、男なんかいらないって言われたこともあったな」
「そうですか」
「僕の言葉を聞いてもらえるようになったのだって、君の進路が決まったからだ。二年もかかってやっとだ」
「そうですか」
「それくらい君は想われてる。きっとそれは一生変わらないことだよ」
「そうですか」
「よくあるだろう? 二人のうち一人しか助けられないシチュエーションで、どっちを救うか、っていう質問」
「はあ」
「そんなことがあったら、きっと僕は見捨てられるだろうな」
「そうですか」
「でも、それでいいんだ。僕は、相馬さんの一番大切なもののために、死ねるんだから」
「なんか、おおげさですね」
「はは、そうだね」
そのまま僕たちは黙り込んだ。僕は部屋の最寄り駅で降ろしてもらった。送ってくれた礼を言うと、今泉さんは、まっすぐに僕を見詰めた。僕は何の感慨も無くそれを見詰め返した。
「もしかして、君は――」
「はい?」
ふうっと息をつくと、今泉さんは、いや、何でも無い、とりあえず会えて嬉しかったよ、と言って車を出した。
僕はそれを見送るでもなく、部屋に向けて歩き出した。
頭や肩にかかる雪も気にしないみたいに君は部屋の前にいた。僕はそれを払い落とした。手が勝手に頬に伸びていた。
冷たかった。なのに、君の瞳には熱が渦巻いていた。
僕はそこに呑み込まれたくなった。君が、部屋に入れてくれる? と訊かなければ、僕はずっと朝までだって、それに魅入られていたかも知れない。
君は、部屋に入って、コートも脱がずにベッドに腰掛けると、話があるの、と言った。大体予想がついた。僕はそれを避けようと思った。
タカハルは? と訊いた。辛そうだわ、と君は応えた。君が、でも、それじゃなくて、と言うのに被せて、桂木は? と問うた。君は首を振った。
「あの人はそれどころじゃない。それでもなくて――」
「クリスマスイブだってのに、いいのかよ」
「だったら何? ……だから違うの――」
「僕は、サジマの代わりにはなれない」
君は、ぐっと、身体を固めた。言葉にしてしまうと、驚く程残酷な気持ちになっていた。僕は君を痛めつけたかった。理由なんて、うさばらし以外の何物でもなかった。君が、と僕は言った。
「君が何故それに僕を選んだのか、わからない。
訊いたって、どうせ、それを弱みに僕を振り回すんだろう?
僕は、そういうのは、もううんざりだ。
自分がされたことを、僕にしてみせて、僕はどうすればいいっていうんだ?
可哀想だって、言って欲しいのかよ? 憐れんで欲しいのか?
言ってやるよ、お前は可哀想だ。ビョーキだよ。そんな風にしか、生きられないなんて、お前は一生可哀想なままだ。
壊れてる。まともな人間じゃない。
サジマが君を見捨てたのだって、元母親が君を苛めたのだって、本当は、人を殺そうとまでする頭のおかしいお前が、お前が……」
君が立ち上がって、僕の目尻に指をあてた。そのせいで、僕は自分が泣いていることに気が付いた。
僕はその手を強く握り、そして、投げ捨てるように払い落とした。
帰れ、と僕は言った。帰らないわ、と君は応えた。僕は、帰れ、と、今度は、怒鳴った。
君が俯いて鼻で深く息を吐き、僕を見据えた瞬間、左頬に鮮烈な痛みが走った。驚いて君の顔を見た。見詰める間も無く、また僕の頬が君の掌で鳴った。
胃の底で、何かが沸騰しきっているのを感じた。イケナイ、と思った。アブナイ、と感じた。
僕は玄関を指さし、頼むから帰ってくれ、と裏返る声で頼んだ。
君の首が振られた。嫌な動きだった。
頼むから、ともう一度言いかけた言葉は、また、鋭く振り抜かれた腕のせいで消えてしまった。
相変わらず理不尽な女だった。でも、僕はもう何も考えたくなかった。感情を動かしたくなかった。
何気なく、君の瞳を見た。それが、震えていた。しかも、潤んでいた。
僕はそれを「許せない」と思った。
いや、本当は言葉じゃなかった。何かがはじけた。乾いた音が冷たいままの空気に散った時、自分の手がしてしまったことに僕は唖然とした。
手を見た。まるで感覚が無かった。
少しよろめいた君が、頬を膨らませるように口の中を舌で舐めてから、僕に向き直った。
ああ、と思った。
震えが起きた。
君は白い前歯で唇を噛むと、拳を僕の頬にぶつけた。痛みなんてあの時に比べれば何ということもなかった。所詮女の力だった。
でもそのことが、僕の口角を上げさせた。僕は、笑っていた。君の眉が動いて、戸惑いが伝わった。
嘘をつくつもりはない。僕はソレを見て、たまらなく、愉快になった。
笑って、僕は君を強く、手加減も無く、打ちつけた。今度はたまらず後ろに下がった君は、すぐにまた僕に一歩踏み出したけれど、その仕草は恐れを隠し切れていなかった。
楽しいでしょ? と君は言った。声は掠れていた。
嬉しいね、と僕の心が言っていた。
胸元に手が伸びた。君が息を詰めた。僕は、二度、三度、四度と君の頬を打ち、掴んだ君の胸元を押した。床に無様に倒されたその身体を前に、自分を止めることができなかった。
もう、不条理な口をきく、瞳の不思議な女はいなかった。背中に馬乗りになった僕は君の頭を床に押しつけた。きっと君の瞳を潰してしまいたかった。
押しつけて、どうしていいかわからなくなった。
僕にはそれ以上の暴力を想像できなかった。
何か嫌なものが僕の胸でぽつんと点を打った。
点は現れるなり、滲んで広がった。
もっと何かをしなければ、僕はそれに呑まれてしまう、と本能的に思った。だから、髪を乱暴に掴み、平泳ぎの息継ぎみたいに顔を上げさせた。
絶え絶えの息に忍ばせて、どうせならついでに犯しなさいよ、と君は言った。
僕の身体が凍った。
君は無理矢理僕の股の下の身体を裏返すと、仕返しされてあげるわよ、と唇を動かした。その憤ろしい粘膜を塞がなければならなかった。それしか逃れる方法は無かった。
血の味がした。
再び凶暴な痺れが全身を支配した。
慣れ親しんだ自分がどこにもいなかった。何も止められなかった。
喉の奥から出る音のまがまがしさがもっと自分を獰猛にするのを感じながら、僕は乾いたままの君を引き裂いた。
君をあの牛丼屋で見失った後、僕はサジマの仕事終わりを待って話をした。あんたはりんどうの今のカレシかい? とサジマは煙草に火を点けながら訊いた。いえ、と僕は応えた。それがいいよ、とサジマは言った。
「あの女はちょっと重いからね。そう思わない?」
「わかりません」
「なんていうかさ、全部を預けてくるっていうか」
「はあ」
「初めはカワイイなとは思うんだけどね。そのうち向こうの期待の大きさに怖くなってくるっていうか」
「はあ」
「無言のプレッシャーってヤツ? “愛して”オーラがね。つらいよね」
「なんで、消えたんですか?」
「俺はもともと博徒というか、根無し草だし。ホールの状況が良いところがあれば、そこに行くよ」
「二万円……どうして、金を残したんですか?」
「そりゃあ……まあ」
サジマは短くなった煙草を足下に放ると靴で踏みつけた。
「まあ、めんどくさくなった、ってこと。出演料というか……手切れ金だよ」
「戻って来たのは?」
「地元にもどっちゃダメか?」
いえ、と僕は首を振った。それに種銭が無くなったからな、仕切り直しだよ、とサジマは言った。
「でも、あのビデオはちょっとした小遣いになったぜ」
「ビデオ?」
「ありゃ、聞いてない?」
「はい」
サジマはにやりと笑うと、そのビデオの内容を説明した。
細かいところは省くけれど、目隠しをし、縛って、君が拒否できない状況でカメラを回したということだった。
君が、そっくり、僕にしたことだった。
拳を握りしめた時、その怒りが、僕に不条理な仕打ちをした君のせいなのか、君をおとしめたこの男のせいなのか、その両方なのか、わからなかった。
その拳を見て、サジマは、お、やるかい? と不敵な笑みを浮かべた。殴れば、楽になるのだろうか、と思った。関さんはどうだったのだろう、と考えた。
結局僕は首を振った。それがいい、お前は俺には勝てないよ、サジマはそう言った。
それにしてもあの様子じゃ、まだ俺にほれてんな、あいつ、という言葉に胸が焦げるような気がしたのは、悔しさだったんだろうか。
その時、何かを殴りたい気持ちは僕の身体のどこかに装填されていたのかも知れない。僕は黙り込んだ。ま、もう、ここも潮時だ、思ったよりしがらみがあったなあ、とサジマは伸びをしてみせた。
全てが終わった後、僕は虚しさと罪悪感の混ざったものに揺られながら、床にへたり込んでいた。君はぴくりとも動かず、横たわっていたけれど、しばらくして、すっくと立ち上がった。
ね、縛っておかないと、男は、突然乱暴になったりするのよ、と君は言い、伸びたセーターも、破れたストッキングも、何もなおす風も無く、玄関に向かった。ブーツを履き、君は訊いた。
「サジマと話したのね」
「ああ」
「サジマは、あたしのこと……」
君は言葉を止めた。そして、やっぱりいいわ、と言って、出て行った。
僕は、ほんの少し躊躇って、もっと傷つけたいような、でも、謝りたいような、気持ちの悪い衝動に逆らえず、靴も履かずに君を追った。
君が車を出そうとしていた。僕は助手席の窓を叩いた。君は窓を開けた。僕は言った。
「サジマは、君のこと好きだったって、でも、どうしていいかわからなくなったって」
君は、表情も変えなかった。
ああ、そういえば忘れてたわ、と君は一通の封筒を僕に渡した。クリスマスプレゼントよ、と言って君は乱暴に車を発進させた。
見送りながら、僕はもっと心が痛くなった。
嘘だったからだ。
サジマに僕は訊いた。りんどうを少しでも愛していたか、と。サジマは、ハ、と半笑いで、誰が本命のあんなビデオを撮るかよ、と言い残していった。
僕は、そんな君と、あんな風にしか、結ばれ得なかったことを、今でも後悔している。
それは、封筒を開けて、クリスマスカードと一緒に入っていたレシートの意味するところに思いあたった時から、ずっと心の底にある。
古くなって文字の掠れたレシートには、五月の日付でコーラが二本買われたことを示す記載があった。
僕は、あのとき万引きなどしていなかった。
僕は力無く笑った。
でも、君に対してもっと深い罪が為されたことを、誤魔化すことはできなかった。
僕が自分を失っている間に、君が背中に幾筋もつけたかき傷が、いつまでも痛み続けた。
十二月、クリスマスが来ると、今でも僕は、あの時の自分のせいで、どこか哀しい気分になる。
<#10終わり、#11へ続く>
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