【連載小説】転送少女症候群、もしくは黍島柘十武の長い回想 #12
次の日、学校に行くのが、相当に嫌でした。
僕はどうしても遊のそばにいなければならないような気がしたし、寝不足でかなり身体がだるくもありました。
でも、遊は、学生の本分は勉強だよ、行っておいで、と背中を追い立てるように僕を送り出しました。行っても、その本分を全うできそうにないと思いましたが、僕はそれに逆らえませんでした。
坂を下りました。電車に乗りました。
やはり、世界はハリボテのような気がしました。
日常が、馬鹿馬鹿しかった。
僕は、話の続きを、切望していました。あの突拍子も無い話だけが、遊の傷だけが、僕をそのハリボテの中から連れ出してくれる。
はは、都合良いですね。僕は、遊をあわれに思いながら、遊の話にもっと大きな山場を、過去の遊にもっと深い傷を望んでいました。
そして、そのことに気付いていませんでした。
まったく! いやになる!
電車の中を見回しました。前の日のように、あからさまな視線は感じませんでした。でも、何か妙な気がしました。あまりにも誰も普通でした。無関心な、いつもの、知らない人々でした。
いや、普通で悪いことはない。悪くはない。その筈なのに、何かがおかしい。そう感じられる。
『連中』なら、ツトムに気付かれるようなヘタな尾行はしないよ――不意にまたそんな言葉が蘇りました。
何かが僕に注がれていました。視線ではなく、意識のようなものが。
僕は自分の身体が急にぎこちなくなるのを感じました。
自殺ならまだ良い方で、生きながらこの世の地獄を味わう、そんな言葉も、過ぎりました。地獄? どんな? あの遊の話に出て来た少年のように、閉じ込められて、指を失うとでも?
僕は硬くなった身体を一生懸命普通に動かそうとしました。電車を降り、学校への坂道を上り、学生たちで溢れるキャンパスを語学の教室へと歩きました。
すれ違う学生は、どれも普通の学生でした。
それが、奇妙でした。
僕に気付かれないように、完璧に擬態した「連中」が混ざっている可能性がありました。
何度も振り返りました。誰も後をつけてくる様子はありませんでした。
でも「連中」が大規模な組織で、複数人によって受け渡しながら、僕を監視しているとしたなら?
悪い想像が、僕を縮こまらせました。
語学の教室に入りました。遅刻はしませんでした。そこには既に志伊理美が座っていました。でも、彼女は僕に振り返りもしませんでした。
彼女は僕を必ず見つけるはずなのに!
僕は、混乱していました。混乱したまま授業を受けました。
混乱は深まるばかりでした。朦朧としていたと言って良いと思います。
僕は座りなおしました。ふと、窓の外を見ました。七階の教室でした。地上で二、三人の学生が何事かを話している様子でした。肩がびくっと動きました。「連中」? いや、考えすぎだ、視線を戻そうとしました。その時、彼らが、見上げました。
目が、確かに、合いました。
すると彼らは、歩き出し、その教室のある学部棟の入り口へと向かいました。
間違い無い、そう思いました。
逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ……でも、一体どこに?
僕は机の上の、その日はまだ何も書いていないノートの罫線を見詰め続けました。何も思いつかない、ただ、逃げなきゃ、と思うばかりで身体が動かない。
身体が、動かない。
バタバタと何者かが駆けてくる足音が聞こえました。やばい、やばい、やばい、やばい、それは、教室の前で止まりました。
ああ、もう、ダメなのか……仕方無い、いつも、僕はこうだった、降りかかる理不尽に立ち向かうことができなかった、人はいずれ皆死ぬ、元々生きることに意味なんて感じられなかった、誰かが殺してくれるなら、それほど楽なことは無い、仕方無い、無駄な抵抗はやめよう、誰も騒がない、もしかしたら、この教室全員が「連中」だったのかもしれない、ああ、僕は、まったくマヌケだった……。
ふと、何かが肩に触りました。僕は、覚悟しました。いや、諦めました。いつものように、そう身体が反応して、力が抜け落ちていきました。上手にしとめてもらうために。
それが、僕の生き方でした。
でも……でも、その瞬間、ふと、いつかのように、心にわき上がるものを感じました。それは今まで感じたことの無い強い衝動でした。
僕はまだ、遊の話を聞き終わってない! いやだ、まだ、することがある、死にたくない!
肩に触れたものが一度離れ、もう一度、今度は叩くように置かれました。僕は、恐怖に絞られるような思いをしながら、それでも、ぐっと顔を上げました。
――そこに、あの語学の講師がいました。彼女は言いました。
「わたしの授業はそんなに退屈かしら?」
何を言ってるのか瞬時にはわかりませんでした。彼女は少し息を吐くと、背中を向け、入り口を指さしました。
「眠るなら、今日は、教室より外のベンチが最適ですよ」
僕が、訳も分からず呆然としていると、彼女は教壇に戻り、今度はいらついたように、わからないかしら? 出て行きなさい、とまた入り口を指さしました。
僕は、まだ、良くわからないまま、ただ、その威圧感に逆らえずに、教室を出ました。
出るとき、一度、振り返りましたが、薄笑いの学生たちの中で、やはり、志伊理美は僕を見ようとはしませんでした。
講師に言われたからというわけではありませんが、僕は構内の人工池のそばにあるベンチに横たわりました。
ああ、晴れてる、と僕は随分しばらくぶりに天気のことに気付きました。
それにしても暑い。太陽の光が痛い。最適だなんて、僕には思えなかった。
でも、他にすることもなく、そして、教室で僕を襲った眠りが再び訪れることもなく、ただ、ぼんやりと空を眺めていました。
そんな眩しい空が埋め尽くした視界を遮る影がありました。ぎょっとしました。朝感じていた異常な緊張の余韻が、まだ残っていました。
僕がその場で固まっていると、何びっくりしてんの? とその影は言いました。
「ツトムは小心者だなあ」
遊、でした。それはそれで驚きでした。な、何してんの? と僕は身体を起こしました。ん、と遊はベンチに腰掛けました。
「ツトムが不安そうだったからね。護衛、みたいなもんかな。まあ、突然思い立ったというか」
「護衛って……今はお前の方が危ないのに」
「ん、だけど、ここなら、大丈夫」
「なんで?」
「ん」
遊は、応えずに、僕の肩に頭を乗せました。そこは外でしたけれど、僕はもうそんな遊の頭を押し返そうとも思いませんでした。
最初のころ感じた恥ずかしさもありませんでした。僕は、僕たちが、そういうことをしても、もう当然だ、と思っていたんです。
そして、遊がそばにいるということが、僕の不安と緊張を解いていくのがわかりました。守ってもらえるのだ、と、そう感じたのかもしれません。
何も話しませんでした。それでも良いと思えました。言葉の無いところで、僕たちは通じ合っているのだと。
どのくらい経ったでしょうか。誰かが僕の前に立ちました。顔を上げるとそれは志伊理美でした。遊がいましたが、僕は慌てることもしませんでした。志伊理美も、そんなことはどうでもよさそうでした。僕は、もう、その用件を、問おうとも思いませんでした。
「ずっと、思ってたの」志伊理美は言いました。
「……何を?」
「このひとは、嘘をついてるって」
「え?」
「君は、嘘をついてるって」
「あ?」
「初めて、見たときから。すぐにわかった。そういうニオイがした」
「何を言ってるか……」
「おとなしいふりをして、弱いふりをして、そんな仮面を被って、本当は誰よりも強かに笑ってるって」
「……」
「わたしと同じだって」
「意味がわからない」
「ノートなんて、口実だった。わかってると思うけど」
「……」
「好きになったんじゃない。わたしたちは、誰も好きになれない」
「……たち?」
「でも、わたしにとっては初めての同類だった」
「本当に……意味が……」
「それが、わかった。嬉しかった」
「……そう」
「そう」
「……でも、残念だけど、僕は君と同じじゃない。君みたいに、嘘をついてひとを振り回すみたいなことはできない」
志伊理美は、ふっと眉を上げ、微笑みました。
「ほら、また嘘をついた」
いや、違うか、志伊理美は軽く指を唇に当て、言い直しました。
「もう、君は嘘そのものになった」
「……は?」
「やっぱり、わたしたちは……わたしは永遠に孤独」
もう、声はかけないから、そう言って、志伊理美は、去って行こうとしました。その背中に、僕は、一切の作り物を感じませんでした。やっぱり、そういう高度な演技だったのかもしれません。でも、声を掛けずにいられませんでした。
振り返った彼女に僕は訊きました。
「参考までに、みっつ目のお願いを聞かせてくれないかな」
志伊理美は、ふ、と笑うと、もう、叶えてもらったよ、と手を振って、遠くなっていきました。蕩けるような笑顔じゃなかった。でも、何かこう、それまで僕の見てきた彼女の中で、一番可愛らしく見えました。
それまで、じっとしていた遊が顔を上げました。僕は訊きました。
「お前、わかる?」
「ん? わかんないよ。会話のレベルが高すぎて」
「だよな」
「だよ」
「うん」
「でも」
「ん?」
「なんか追っかけてきて欲しいんじゃないのかな」
「まさか」
「そうだと思う」
「有り得ない」
「嫌い?」
「いや」
「なら、そうした方が良い」
遊が僕の肩を軽く押しました。僕は、思わず立ち上がり、一歩足を前に出しました。でも、そのまままたベンチに腰を降ろしました。不思議そうに遊が僕の顔を見ていました。
「どうしたの?」
「いや」
「追いかけなよ」
「僕」
「うん」
「あんな子より、どっちかというと……」
僕たちは少し見つめ合いました。そして、遊が、ぷっと噴き出しました。ダメか? と言うと、それ、わたしが使おうと思ってたんだけど、と遊は僕の肩を何度も叩きました。
「落ちた?」
「落ちない」
「やっぱ、ダメか」
「うん、ツトムじゃ無理だ」
ははは、と笑って、ところで、と何気なく遊が眉を上げました。何? と僕は訊きました。
「ツトム、百メートル何秒で走れる?」
「え? そんなの憶えてないけど、クラスでは遅い方だった」
「そう。マラソンは?」
「苦手だった」
「ふうん。財布に余裕はあるかい?」
「いや、今それほど持って無いけど、でも銀行には多少の……」
「じゃあ、大学生活に未練は?」
「は?」
「昨日までの話のつづきと、どっちを取る?」
「いきなり会話のレベルを上げてきたな」
「どっち?」
「そんなの、すぐには……」
「オーケー、じゃあ、できるだけ両方取れるようにしよう」
「は?」
遊が僕の手を握りました。そして、僕を引っ張り上げるように立ち上がらせると、いいかい、何も考えないで、正門まで走ろう、タクシーが止まってたから、わたしたちはそれに乗る、いいね? と言いました。
笑顔でした。
僕はわけがわかりませんでしたが、でも、行くよ、と言って、駆け出す遊に引っ張られるように走りました。
遊の方が、僕よりずっと足が速かった。何度も足がもつれそうになりました。途中、おい、と、声を掛けられたような気がしましたが、それに応える余裕もなく、僕は正門までの道のりを何とか走りきり、止まっていたタクシーの扉を叩きました。
僕たちはそれに乗り込みました。とにかく出て! と遊が言いました。え? と運転手が訊き返しました。僕は、遊の言葉を繰り返しました。
とにかくって、と運転手は訝しげに応えましたが、早く、早く、と急かす遊の代わりに、僕は、とりあえず駅まで、と叫びました。
うーん、とその近い目的地への不満を込めたうなりが聞こえましたが、僕は、また、早く! と言いました。
運転手は本当に嫌そうにゆっくりハンドルを何回も握り直していました。僕は振り返りました。こちらを見て、少し歩を早めた何人かの学生がいました。そこに氷井も飛び出してきたような気がしましたが、僕はしっかりとは確認しませんでした。
焦っていました。何故走らされたのかという理由を、了解したからです。イライラしました。早く! と叫びました。ふん、と運転手は大きく鼻で息を吐いて、車を出しました。動き出してしまうと、タクシーは乱暴なくらいに急加速しました。
僕は遊に確かめました。
「『連中』?」
「ああ、おそらく……たぶん……いや、きっと」
「ああ……」
「まあ、当然、ツトムの部屋ももうダメだ」
「……そんな」
「とりあえずは、仕方無い。人混みに紛れるか……」
僕は運転手に、とりあえず駅はやめて、どこか人の多いところへ、あ、その前にどこかATMのあるところに止まってください、と言いました。運転手は、いかにも胡散臭げに、はい、とだけ応えました。
遊は、ふう、と座席に深く凭れました。
「……しかし、追いかけられる、ってのも、悪くないね」
「あ? 今までだってそうだったろ?」
「わたしを追いかける? そりゃあ、一応探してはいるだろうけどね」
「え……? お前ずっと『連中』から逃げてたんじゃないのか? 今だって――」
「たまたま近くにいるから、捕まえられるもんなら、そうしようってことだろ? 転送するわたしを網にかけることなんか無理だ」
「なら……」
「それにやっぱりわたしの『転送』は使い勝手が悪い。脱出には使えても、侵入にはあまりにも向いてない。利用方法はごく限られてる。
わたしの能力は本来事件になるべきことを、穏当な自然死にして済ます程度にしか使えない。それは治安の維持とか誰かのメンツや見かけだけの平和を守ることにとっては大事なことかもしれないけど、積極的な攻撃はからっきしだ。
それに、使うにしたって、相当周到な準備が要る。それなら毒でも盛るか、どこかから狙撃でもした方がずっと簡単だ。だから、そういう意味での価値は、今は殆ど無い。
多分、『連中』はそう結論してるはず。
まあ、研究対象としては面白いかもしれないけどね、それだけだ」
「なら……」
「とは言っても、わたしは秘密を知りすぎてる。このあいだ、公然と宣戦布告もした。できるものなら始末がしたい。あくまでも、できるものなら、ね。
それにしたって、わたしを一度はピン止めしなきゃならない。
だからまあ、強いて言えば、今はわたし本人よりツトムを狙ってる。わたしの今の恋の相手と思われる君をね。ツトムを新たな鎖にして、わたしを縛り付けようってね。あの少年の代わりにツトムを使うのさ」
「……ああ」
「ツトム、それにね」
「それに?」
「わたしは確かに逃げてもいるけど、ただ、逃げてるわけじゃない」
「え?」
遊の目が、ギラリと鈍い光を放ったような気がしました。僕は、言葉を呑みました。
「それじゃあ、最終章と、しゃれこもう」
遊はその妖しい輝きに、すっと瞼を降ろしました。
<#12終わり、#13に続く>
この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
また、この作品は2016年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版と大筋において変更はありません。
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