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僕はハタチだったことがある #09【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2014年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)から最新話までをまとめたマガジンはこちら↓です。



 君は当たり前のように部屋に来るようになった。深夜でも、早朝でも、君は容赦無くチャイムを鳴らした。僕はもう面倒くさくなって、鍵はかけないから、勝手に入ってこいよ、と言った。
「なんなら、やっぱり、鍵をやろうか?」僕は言った。
「いらない、あなたのいない部屋に用は無いもの」君は応えた。
 一緒にいても、僕たちは取り立てて何をするでもなかった。君は黙って僕を眺め、時折、抱きつくように僕に腕をまわして、僕の身体を掻いた。
 身体が密着しても、不思議と性欲を感じなかった。ただ小さい子供か猫が僕にじゃれているような、微笑ましさを感じただけだった。
 君の痒みが僕の中にあるなんて、ちょっと信じられない話の筈なのに、僕はまったく疑ってなかった。
 自覚は無かったけれど、君が僕を特別に扱うことに、僕はいつのまにか酔っていたのかも知れない。三十分のときも、一晩のときもあったけれど、君は、そうして気が済むと、何も言わずに帰って行った。
 桂木のことも、師匠のことも、互いに訊かなかった。

 コンビニの深夜アルバイトは辞めた。
 結局、関さんの誤解を完全には解くことはできなかった。彼は聞く耳を持たなかった。
 あては無かった。生活にも困りそうだった。でも、険悪なまま、二人で過ごす時間に、僕が耐えられなくなった。
 幸い、たまたま電話をくれたばあちゃんが、生活費の援助を提案してくれた。後ろめたいような気がしたけれど、就職したら返すから、という約束でそれを受け入れた。
 僕も、スクールの掲示板の求人票を見上げることが多くなった。


 そして、面接がスクール内で行われた。
 桂木がいた。貴句もいた。その他にも花巻や神田と言ったクラスメートや他のコースを含めて十人程度の学生が教室で順番を待っていた。僕は着慣れないスーツの硬さにそわそわしていた。
 貴句と目が合った。ふっと貴句は目を逸らした。
 次、山田さんだって、と面接を終えた学生が貴句を呼んだ。貴句が出て行くと、花巻が僕の隣に座った。
「貴句、大事にしろっていったじゃない」と花巻は言った。
「ああ」と僕は応えた。
「たらしだったんだね、相馬」
「違うよ、事情があったんだ」
「クラス内の女全部召し上がるつもりでしょ?」
「なんだよ、それ? 貴句だって”召し上がって”ないよ」
「またまた」
「本当に」
「本当?」
「本当の本当」
 花巻は疑わしげに僕を見て、じゃあ、と声を落として耳元に口を寄せた。
「桂木から早田さん奪ったってのは?」
 僕は、花巻を見て、それから、教室の隅で座っている桂木に目をやった。
 確かに君は平然と僕の傍にも来るようになった。でも、僕たちは恋人の約束をしたわけでもなんでもなかった。
 そんなこと、してないよ、と僕は言った。へえ、と花巻は応えた。
「狭い世界で、あっちこっちくっついたり離れたり、なんかいやらしい」
「だから、してないよ」
「貴句だってさ、今は三角関係のまっただ中だし」
「何それ?」
「知らない? 皆言ってるよ、水谷と近藤さんで取り合ってるって」
「へえ」
「へえ、って。何か本当に平気そうだね。取り返すんなら、今のうちだって言おうと思ってたのに」
「だから、振られたんだよ、終わったんだ」
「貴句は、きっとまだ、本当の所は、相馬だと思うんだけどな」
 そういうと花巻は口を閉じた。
 水谷とタカハルで貴句を取り合っているという話は、ただ卒業制作で一緒にいることが多いから立ったゴシップだろうと思った。
 僕は、その二人の秘密を知っている。タカハルはどうか知らないが、水谷が本気で貴句を好きになっているとは思えなかった。
 貴句を惜しいと思う気持ちはもう無かったけれど、もし貴句が二人に惹かれているとしたら、この先貴句には苦労が多そうだとぼんやり考えた。
 そして、僕の順番が来た。

 教えられた通り、ノックをし、挨拶をして、僕はその部屋に入った。面接官の前に立って、デザイン芸術コース二年、相馬聡太です、と言うと、面接官はどうぞ座って下さい、と手で仕草した。僕は座った。
 面接官は、私はこの地域の採用を担当している多田といいます、と名乗り、履歴書に目を落とした。そして、去年の一年生の年度代表だね、と言うと、僕を見据えた。
 多田さんは、しばらく何も言わず、そうしていた。
 就職活動と言えるものは、それが初めてだった僕は、それが普通のことなのかどうかもわからなかった。だから、その目を見詰め返していた。
 多田さんは言った。
「あれだね。君は去年うちに入った井上君とか他の年度代表とは違うね」
「そうですか?」
「なんか、オーラというか、ギラギラしたものがないね」
「はあ」
「毎年ね、君のコースの年度代表の学生さんにはね、こういう話をする。『何かを作りたいというと、芸術作品みたいなものをイメージするけど、会社の中で働くということは、君たちが思っているより、ずっとクリエイティブなことだよ。何よりお客さんの笑顔を作り出すってことなんだ』ってね」
「はい」
「そういう話をしないと、年度代表になるくらいの学生さんはよそで『アーティスト』になっちゃうでしょう? 怒られるんだよね。優秀な学生を逃すと」
「そうなんですか?」
「でも、君にはそういうの必要なさそうだ」
「はあ、申し訳ありません」
 いやいや、謝ることはないよ、と多田さんは椅子に背を凭れかけた。じゃあ、何話そうかなあ、と多田さんは言った。
 でも、その目は睨むでも、眺めるでもなく、僕に注がれていた。
 そして、何かを思いついたかのように、彼は身を乗り出した。
「ぶっちゃけるとね、今年は三人、君のコースから採用する予定です。でも皆優秀でね、選ぶの困るよね」
「はい」
「で、相談なんだけど、君なら、まず誰を落とす?」
 そういう質問は、全くの想定外だった。就職対策の授業でも聞いたことが無かった。作っていたのは、もっと普通の、志望動機とか、打ち込んだこととか、長所・短所みたいな質問への答だった。
 迷った。
 でも、誰かを落とすなんて、僕にはできそうになかった。僕は言った。
「わかりません。皆頑張ってます」
「いや、強いて言うなら、でいいよ」
「じゃあ……私を」
 ふう、と深い息を吐いて、多田さんは乗り出していた身体を引いた。だめだなあ、だめなんだよ、それじゃあ、と彼は言った。
「相馬君さ、例えば、ここに三千万の仕事があったとする。他社と競合した時、君は他社さんが頑張ってますから、そちらに譲ります、と言うかい? 
 君が仕事ができないと思われるだけじゃない。三千万をみすみす逃した、会社にとっての損失だよ。
 会社にとって損失ということは、君や君の大事な同僚を路頭に迷わせる可能性があるってことだ。
 三千万で、何人雇える? 何ができる? 大人の判断にはいつもそういう責任が伴う。わかるよね?」
「はい……そうですね」
「人間はエゴイスティックじゃなきゃいけない。そしてそのエゴは仲間のために発揮しなければならない、と僕は思ってる。
 ……まあ、自己犠牲も美しいし、君が優しいのもわかったけどね。
 でも、それはドラマや映画の中だけにして欲しい。
 ちょっと意地悪だったかな。じゃあ、こう聞こう。君がチームを作るとして、三人選ぶなら、自分と後二人は誰を選ぶ?」
 僕は、少し考えた。内容は同じでも、そういう訊かれ方なら、すぐに答えられると思った。僕は、顔を上げた。
「桂木君と山田さんを選びたいと思います」
「どうして?」
「桂木君は、優秀です。たまたまついてなかっただけで、インフルエンザにかかっていなければ、きっと彼が年度代表を取っていたでしょう。今まで習ってきたソフトについても僕と同じか、それ以上に詳しい筈です。彼はコンテストの一次審査もパスしました。きっとセンスがあります。熱意もあります。彼なら、安心して仕事を任せられます」
「山田さんは?」
 上手い言葉が見つからなかった。
 きっと、貴句の名前を出したのは、せめて就職の手助けくらいしたいという、それだけの思いだった。
 多田さんは少し顔を動かして、僕の言葉を促した。僕は、視線を落として、慎重に言った。
「彼女は、おそらく、普通の人です。勿論私だって、そうなんですが……。でも、そう本人も言ってました。自分は普通だと。つい、エキセントリックなものに目を遣りがちですけれど、世の中の大半の人が普通の人であるなら、ちゃんと普通の感覚を持った人間が普通にする仕事が何より大事だと思います」
 視線を戻すと、多田さんが微笑んでいた。僕は、その微笑みが肯定なのか、愛想笑いなのかわからなくて、それに山田さんは絵も描けます、と口走った。
 そりゃあ、良い特技だね、と多田さんは言った。本当に今の人選でいい? と彼は訊いた。はい、と僕は真っ直ぐ視線を向けた。
 うん、と相づちを打つと、じゃあ、最後に志望動機でも訊くかな、と彼は言った。僕は用意してきた答を述べた。そして、じゃ、結果は近々スクール側に伝えますから、これでいいよ、次の神田さんを呼んでくれる? と彼は言った。
 僕は、その部屋を出た後、何だかまるで手応えが無くて、ふわふわした気持ちで、神田に順番を告げた。
 僕はその面接が特殊だったことを後になって他の学生から聞いて知った。
 数日後、僕は、内定を一つ、手にした。貴句も受かった。でも、多田さんの言葉は嘘だった。僕のコースからの内定は二人だった。
 桂木は、落ちた。



 僕はなんとなく気まずい思いで過ごしていた。桂木は、以前のように、誰かに食ってかかるようなことはしなかった。でも、どこか悲壮感を漂わせながら、暗い表情で、彼は座っていた。
 君は、その隣にいた。君たちがカップルらしいベタベタとした親密さを漂わせることはそれまでも少なかったけれど、僕の部屋にやってくるペースを考えれば、二人がそれほど一緒に過ごしていないことは僕にもわかった。
 本当は僕は、桂木を慰めたり、励ましたり、そういうことを君にして欲しかった。僕にはできないことだった。
 その時には、僕は、桂木にだって何とか就職して欲しかった。あの時訊いた事情に、無関心ではいられなかった。僕は何だか彼を裏切ったような、出し抜いてしまったような、妙な重さを感じていた。君とのことも勿論その重みの半分以上を占めていた。
 だけど、僕はその君を、拒絶することもできなくなっていた。何だか色んなことの輪郭がぼやけていて、どれにも手が触れない感じがした。君は、僕の部屋に来続けていた。



 部屋にいると、セイゾーさんから電話があった。当たり前のように、君もいた。セイゾーさんは、今日これから会おうよ、と言った。僕は不思議に思い、帰省してるんですか? 大学は? と訊いた。セイゾーさんは、まあ、いいじゃないか、会ってから話そう、と言った。
 電話を切ると、君が僕を見ていた。友達だよ、これから会うんだ、と僕は言った。君は帰ってくれるだろう、と思っていた。でも、君は、ついていってもいい? と訊いた。僕は、色々と考え、最後は君の瞳に絆されて、頷いた。

 フライヤーが壁一面に貼られた階段を降り、受付を済ませ、僕たちは練習スタジオに入った。
 セイゾーさんは持ってきたキーボードをセッティングすると、ウォームアップに、と言って、あの曲を歌った。
 僕は、君とは言えど、やっぱり自分の詞を誰かに聴かれるのは恥ずかしくて、俯いていた。
 演奏が終わると君は、ぱちぱちぱちと拍手して、良い曲ね、と言った。セイゾーさんは、ほら、聡太君、二人目だ、と僕に笑いかけた。
 首を少し傾げた君に、セイゾーさんは言った。
「作詞は聡太君なんだ」
「あら、どうりで、ちょっと詞が釣り合ってなかったわ」
 僕は頭を掻いて、首を振った。悪かったな、と言うと、君は、冗談よ、と返した。
「素晴らしくはないけど、かわいらしい」と君は言った。
「どうせ」と僕は応えた。
「でも、こんな恋、してたのね」
「フィクションだよ」
「初恋もまだだって言ってたのに、一体誰のことを想って書いたのかしら?」
 君は、セイゾーさんに視線をやった。セイゾーさんは、にっこり笑いながら、それがわからないんだよね、と応えた。僕は、半ばむきになって、だから、フィクションだってば、と叫んだ。
 僕が大きく腕を振って、次いきましょう、他に何か聴かせて下さい、とごまかそうとすると、セイゾーさんは、いや、今日はこないだ渡した曲を一緒に仕上げようと思ってさ、と言った。
 僕はまだ詞を作っていなかった。そのことを言うと、だからここで作ろうよ、とセイゾーさんは笑った。
 僕たちが試行錯誤するのを、君は退屈そうな様子も無く見詰めていた。そんな君を、時折セイゾーさんが何か不思議そうに見てはちょっと首を捻っていたのを、僕は奇妙にも思わなかった。曲は、ワンコーラス分の詞だけ、ひねり出した。

 居酒屋で、大学を辞めたとセイゾーさんは言った。僕は驚いて訊いた。
「どうして?」
「どうして、って……まあ、やっぱりもう学生はいいやって思ったんだ」
「でも、もったいない」
「言ったっけ? 俺が高校で留年した理由」
「いえ。噂では病気だったって」
「それはまあ、理由付けだよね。
 でも、俺の中では、本当の所は別にある。
 俺、小さい頃から、ピアノ習ってたんだけどさ、始めてしばらくした頃にピアノ教師に言われたんだ。あなたには才能が無いって。手も小さいってね。
 ことあるごとに言われるんだ。それはずっと俺を縛る言葉だった。
 まあ、それも一つの教育だとは思うよ。才能の無い子を誤解させないっていう意味でね。
 だけど、音楽が好きなのに、自分には才能が無い、というのは、悲しかった。音楽に触れていれば楽しいはずなのに、いつもどこかが曇っている。そんな感じだった。
 それが歳を取るごとに暗く、大きくなる。自分と他人の差がわかるようになるからね。教師の言っていたことが本当だと認めざるを得なくなるわけだ。
 苦しくなった。俺は、それで、ピアノを習うのをやめた。普通に勉強して、普通に就職して、普通に生きよう、そう思っていた。
 でも、高校入って、一生懸命普通に生きようとしている内に、ただ学校がどうしようもなくいやになった。本当はしたくもない勉強をさせられて、他のやつに気をつかって、学んでいるはずなのに、ただ消耗していくだけのような気がして、ざわざわして、苦しくて、色んな事が許せなくて、何だか目的がわからなくなった。
 で、何もしたくなくて、部屋に籠もった。
 まあ、こっちはそう思ってなかったけど、親はそんな俺を病気かなんかだと考えて、色々病院とかに相談に行ったらしい。
 学校には親がそう言ったんだろう。そうこうしている内に出席が足りなくなって、留年というわけさ」
 セイゾーさんは、ビールを飲み干すと、同じモノをと店員にジョッキをかざして見せた。
「まあ、その時にもう学校はいいやと思ったんだけど、うちは兄貴ができがいいから、とりあえず大学は行かなきゃならないみたいな雰囲気があってさ。一応なんとか入ってはみたものの、やっぱり、学校があまり好きじゃないのを改めて確認したってところかな。だから、大学はやめたんだ」
 僕は、じゃあ、これからどうするんですか? と訊いた。セイゾーさんは頷くと、就職先を探すよ、と応えた。
「音楽関係ですか?」と僕は訊いた。
「それなら、東京で探すよ。仕事は仕事。音楽は音楽。こっちに戻って来たのは、まあ、聡太君がいるからだよね」
 君が、あら、プロポーズみたいね、と言った。ええ? と僕は驚いてみせた。
「あながち冗談じゃない」とセイゾーさんは言った「ちゃんと曲作りがしたかったんだ。今日みたいな感じでね。大学では、聡太君の代わりを見つけられなかった。
 もちろん詞を書くヤツはいっぱいいた。きっと皆上手かった。
 でも、あの曲みたいな曲は作れなかった。
 何が足りないのか、考えてみた。もう、聡太君くらいしか違いがない。
 聡太君、俺は高校に戻った時も、本当はずっと中退しようと思っていた。でも、あの曲ができたおかげで、心が晴れたんだ。もっと何かいいことが起きるかも知れないって。音楽をやってけるって。
 俺は、あの曲ができた瞬間の喜びを、もう一度、いや、何度でも体験したい。俺が帰ってきたのは、そういうことだよ」
 僕は照れくさくて頭を掻いた。
 自分でも決して上手いとは思えない僕の詞が、セイゾーさんの人生を変えたとも言える話だった。何だか責任重大な気がした。
 どうかな? とセイゾーさんは僕を見詰めた。どうなのよ、と君が畳み掛けた。僕は、がんばります、と自信なさげに言った。良かった、頼むぜ、とセイゾーさんは言った。
 僕たちは、そのまま馬鹿話をしながら、結構な量を飲んだ。
 君は多くは喋らなかったけれど、機嫌良さそうに見えた。
 勘定は君が知らないうちに済ませていた。自分たちの分を返そうとすると、あなたたち、余分なお金無いでしょう? 今日の曲の演奏料だと思えば良いわ、と君は言った。
 僕とセイゾーさんは顔を見合わせ、笑い合い、そして、ごちそうさまです、と並んで頭を下げた。
 その代わりまた新しい曲も聴かせてちょうだい、と君は言った。
 
 地下鉄の駅に着き、別れようかという時、セイゾーさんが突然、ああ、と君の顔を見て何かを思い出したかのように声を上げた。
「どうしました?」と僕は訊いた。
「いや、思い出した。リンちゃん、どこかでみたことあると思ったんだ」とセイゾーさんは言った。
「はい?」
 君の表情を僕は見ていなかった。僕は酔っていたし、セイゾーさんは酔った上に女の気持ちに疎い人だった。彼は言った。
「リンちゃん、俺の持ってる裏ビデオに出てくる女子高生とそっくりなんだ」
 君は一瞬固まり、そして、例の冷たい笑顔を浮かべた。
 そして、そう? それじゃあ、その子はきっと可愛いのね、と言うと、あたし、これで失礼するわ、と先に階段を降りていった。慌てた様子も無かった。
 僕には、その時、何の違和感もなかった。
 ただ、女の子にそんなこと言っちゃだめですよ、とセイゾーさんを窘めた。ああ、ごめん、とセイゾーさんは応えた。
「でも」とセイゾーさんは言った「そういうビデオの中では、結構上等な部類に入る子でさ、目隠しされたり、縛られたりして、結構えぐいやつでね。ああいうのって、女の子が義務的にやってるって感じのが多いんだけど、でも、なんかその最中に男に対して言う言葉が、本当に、リアルな愛情溢れる感じで、ちょっとこっちがどきっとしちゃうようなヤツなんだ」
 へえ、と相づちを打つより他に無い話だった。貸そうか? とセイゾーさんは言った。まあ、機会があれば、と僕は応えた。
「いやあ、ビデオの子はもうちょっと幼い感じで、目隠ししてるけど、それ以外は本当にそっくりだなあ」
 改札をくぐる手前まで、セイゾーさんはその話をやめなかった。
 恋はわからなくても、そういうのは見るのか、とちょっと感心しながら、僕は帰りの地下鉄に揺られた。
 何となく、師匠を思い出した。
 しばらく会ってなかった。
 どのくらい間隔を開ければいいのかわからなかった。
 スケッチブックを持って行くべきかもわからなかった。
 たとえスケッチブックを持って行っても、結局それが言い訳にしかならないような気がして、なんとなく恥ずかしかった。
 そういう惑いさえも全部見透かされてしまうように思えた。
 体面が気になるくらいに情欲は収まっていた。僕はあの時の荒波を懐かしくさえ思った。
 そして、それを鎮めた肌を想うと、胸が熱くなった。
 本当に、ふと途中の駅で僕は降り、反対方向のホームへと渡った。



 師匠は、待っていたわ、と僕を迎えた。
 バックルームにはコンピューターがあった。僕たちの習っていたフォトレタッチソフトが起動していた。ペンタブも接続されていた。
 とうとう買ってしまったの、と師匠は言った。僕はスクールにはないペンタブが珍しくて、色々といじってみた。
 師匠は、これ、描いてみて、と円筒の白いペン立てを指し示した。僕は目測でペン立ての縦横の比率を測り、ガイドを表示させ、それに合うように作った選択範囲を保存し、組み合わせ、円柱のアウトラインを塗り、保存した選択範囲を利用してグラデーションを塗った。そのくらいがその場で僕に思いつく全部だった。
 作業をしている間に、ペンタブが使いづらくて、マウスに持ち替えた。その方が作業が早かった。
 おおまかに出来上がった時、アクロバットね、と師匠は言った。こういう単純なものは、多分コンピューターの方が早いでしょうね、と僕は応えた。
 ううん、あたしにしてみれば、マウスの方が使いづらいから、器用に使うなあと思って、と師匠は微笑った。慣れです、きっと師匠もその内そうなるし、これよりもっとすごいものを描くようになります、と僕も微笑みを返した。
 そして、そのまま、キスをした。
 その先を遠慮するつもりは、お互いに無かった。
 僕は椅子に腰掛けた自分に跨がる師匠に、志のぶ、と呼びかけてみた。師匠は、上気した顔で苦しそうな笑顔を浮かべると、先生、とだけ返した。その声が僕の我慢を諦めさせた。

 終わった後、色んな事を報告した。微笑みを浮かべながらそれを聞いてくれる師匠を見ていると僕は何だか安らいでいくのがわかった。
 話の最後、何とはなしに、卒業制作に何を作ればいいかがわからなくて迷っていると僕は言った。師匠は、先生こそ、もっとすごいものができるでしょうに、と応えた。
「あのソフトで絵を描いたらいいじゃない? ここでやったようなことをコンピューターでやりなおして、発展させてみるってのも、あのスクールにおいてはありかも」師匠は言った。
「そうかもしれないですけど……じゃあ、何を描けば良いのかって問題なんです」と僕は首を振った。
 師匠は顎に指をあてて少し考えた後、こう言った。
「先生が、美しいと思うものを描けば良い。本当に残したいと思うものを」
 絵なんて、どんな難しいこと言ったって、だいたいそんなところから始まってるのよ、と師匠は僕の頭を抱いた。
 僕はより一層の安らぎを感じながら、あなたの声を絵にできたらいいのに、と思わずその胸で呟いた。あら、声だけ? と師匠は僕の顔を手で挟んで、覗き見た。あ、あ、と慌てる僕を楽しそうに見詰めると、それだけでも嬉しいわ、でも、ちょっとキザかも知れないわね、と言った。
 僕は恥ずかしくなって、それを誤魔化すために、唇を求めた。
 そして、もう一度、今度は床の上に、僕はその細い身体を押し倒した。


 何も選んでいないのに、必要なものはちゃんと満たされた、そんな日々だった。
 それでいいんだ、と思っていた。
 君は師匠のことをもう問わなかったし、ゆうきのこともまだ知らなかった。
 思えば、僕は、女の人たちに甘やかされるのに慣れていた。家の事情と言ってしまえば、その通りだった。
 僕は、人間が甘かった。
 君の言ったように幸せ過ぎた。
 でも、今思えば、やはり、それは不自然だった。
 嵐の前のように、静けさには何か意味がある。僕は、あの少女の引き起こすもう一波を、予測なんてしていなかった。

 その日、二度チャイムが鳴った。
 一度目は君だった。勝手に入れって言ったろう、と言っても、君は気にしていない様子だった。僕を引っ掻きもせず、ベッドに腰をかけた。僕も並んで座った。
 君は視線を動かさなかった。僕は何も言わなかった。
 しばらくして、君が、あのね、実は知っておいて欲しい事があるの、と口を開いた時、二度目のチャイムが鳴った。僕は新聞の勧誘か何かと思った。
 どちらさま、と訊くと、――警察のものですが、伺いたいことがありまして、と声がした。
 僕は君に振り向いた。君は、あなたはみだらなことは何もされなかったし、しなかったということにしなさい、と言った。僕はまだぴんと来ていなかった。
 僕はドアを開けた。彼らは素早く、玄関へと身体を入れた。初老の男と若い男が、バッジを開いて見せた。
 相馬聡太さんで、間違い無いですね、と言った。はい、と僕は応えた。
 この子知ってるね、と若い刑事は写真を差し出した。
 写っていたのは、間違い無く三浦恵だった。
 僕は、はい、知ってます、と応えた。君を見た。君は小さく頷いた。僕は刑事たちに向き直った。微笑みの中で、目が鋭く光っていた。で? と僕は言った。
「この子、ちょっと前に補導されましてね。まあ、最近おとなしかったんですけど、実は中学の時からの家出の常習で、児童相談所に保護されたんです。それでね、何軒かわたり歩いて、どうも、この部屋にもしばらくいたって本人が言うんですよ。確認したくてですね、本当ですか?」
「ええ、そうです、それで僕は――」
 ああ、いやいや、と初老の刑事は僕の言葉を遮った。
「もし、よろしければ、ちょっと署まで来ていただいて、お話伺えればと思うんですよ」
「いや、それは構いませんけど……」
「それは、ダメよ」
 君が立ち上がり、僕と刑事の間に割って入った。
「こちらは?」と刑事が訊いた。
「……友人ですけど」と僕は応えた。
「これは、任意なのでしょう?」と君は訊いた。
「そうですね。今の所は」と刑事は応えた。
「なら、ここで、話をすればいい」
 刑事は、君をしばし見詰めて、微笑むと、そうですか、なら、と言った。
「泊めていたのは間違いありませんか?」
「はい」
「間違い無い?」
「はい、勝手に部屋の鍵作られて、迷惑して、僕は仕方無くて友達の家とかに泊まってました」
「それはずっと? 日にちは?」
「九月から十月にかけて、日にちははっきりとは……でも、友達に確認してもらえればわかります」
「そもそも、何故部屋にあげたんですか?」
「いや、半ば強引に……」
「何かしようと思った?」
「いえ、そうじゃなくて、バイト先からずっと付いてきて、いきなり泣き出して……上げるしかなくて……」
「その日、あたしと外出したんです。その時に彼ったら、鍵を一時的に預けたの、そしたら合い鍵を作られたのよ。迷惑してたのよ――」
 口を挟んだ君を、いやいや、あなたではなく、相馬さんから話が聞きたいんですよ、と刑事は窘めた。そして一つ咳払いをすると、厳しい視線を僕に投げかけた。
「実はね、あの子から、全部聞いてるんです。わかってるんですよ」
 僕は、何が全部なのか、不安になった。
 君が三浦恵を殺そうとしたことが、僕の背中をその時になって冷たくした。
 いつか君にさせられた万引きのことさえ頭に巡った。
 刑事はそんな恐怖が僕の身体に満たされるのを待つような間を開けて、さらに訊いた。
「家に上げて、加えて、部屋を好きに使わせて、やっぱり何かあったでしょう?」
「何も……無いと思いますが……。部屋を好きで使わせたわけじゃなくて、可哀想な事情を聞いて、強く出られなくなったというか……」
「事情?」
「あの、こんなこと言っていいのかわからないですけど、お父さんに乱暴されて、その、関係を……」
「関係を」
「肉体関係を強いられてると、彼女が」
「言った?」
「はっきりとでは無かったですけど、そういう言い方を。お父さんがいて、痛い思いをして、お仕事をしなければならないみたいな……」
「人助けよね」と君が言った。
 刑事は君をぎらりと睨んで、そしてそのままの視線を僕に向けた。僕は声が掠れるのを感じながら、必死で言った。
「それで、可哀想になって。警察に行こうって言ったんです。そしたら、大泣きし始めて、迫って来るし、仕方無いから、僕は部屋を出て……」
「迫って来た」
「ええ、でも、拒否しました」
「抱きついてきたり?」
「そうですね」
「押し倒された?」
「はあ」
「触られた?」
「必死で払いました」
「そこまでされたら、普通我慢できないよねえ?」
「だから、家を出ました」
「しちゃったんじゃないの?」
「しません」
「本番じゃなくてもさ、色々あるでしょう?」
 僕は、三浦恵の指が自分の股間を擦り上げたことを思い出した。
 あんなに忌々しい快感は他に記憶に無い。
 師匠もそれが弱みだと言っていた。
 何もされてないと応えろと君もさっき言った。
 僕は溜息をついて、首を振った。
 僕が作った間が不自然にならないくらいのタイミングで、君がまた口を出した。
「何ですか? 淫行したとでも言うんですか? 結論ありき、ですね」
 刑事は再び微笑みを作り、カノジョがいるから、話せないのかなあ、と言った。君は、あたしはもし彼が淫行犯だろうが強姦魔だろうが、構わないですけど、と返した。まあ、いいです、と刑事は言った。
「してないんだね?」
「はい。何も」
「お金は渡した?」
「一銭も」
「本当に?」
「本当に」
「でもなあ、こういうケースで、何もしないってのは、僕たちの経験では一件も無い。百パー、なんかしちゃうんだよ。現にここを出た後で転がりこんだ部屋の男たちは皆なんかしてたよ。まあ、情けなくて悲しいことだけど、そのくらい当たり前のことなんだ。君だけしてないっていうのはねえ」
「何もしてません」
 自分からは、と僕は思った。まあ、いいか、と刑事は微笑した。
「でね、気になることがあるんだ」刑事は続けた。
「はい」
「ここから出た時の前後しばらくの記憶が無いって言うんだよ」
「はあ」
 僕は胸が苦しくなった。僕がこれからは絶対に法を犯さないと決めたのはこの時だ。
「なんか、したよね?」
「さあ、わからないです」
「いや、したんだと思うな」
「そんな……」
「困ってたんだろう? 部屋に戻れなくて」
「だから、出て行ってくれて、助かりました」
「持ち物に、合い鍵が無かったよ?」
「そうですか」
 君のように、平然としていられる度胸はどこで養えばいいんだろう、と思いながら、僕は自分を見られたくなくていつしか俯いていた。いいでしょう、と刑事は言った。
「まあ、もう一度詳しくあの子に訊いて、証拠が固まれば、また来るかもしれない。もしかしたら、次は本当に署まで同行してもらうこともあるのかもしれない。その時は逮捕状を持ってくるからね。あのね、君がたとえどんな嘘をついても、大人の世界では通用しない。僕たちはそういうプロだからね。ちゃんと、必要な証拠を積み上げてみせる。だから、もし、言うなら今だけど、いいかい?」
 再度確認して、僕が頷くのを見て、刑事は、わかりました、ご協力ありがとう、と背を向けた。
 君が、次は弁護士を立ち会わせます、と言った。お好きにどうぞ、あまりガードが堅いのは、かえって鼻につきますよ、と楽しそうに応えた。
 そして、何かの刑事ドラマみたいに、ふと立ち止まって、ちなみに、と言った。
「ちなみにね、あの子には父親がいない。さて、どっちが嘘をついているのかな」
 そう言い残すとようやく彼は出て行った。
 僕は、本当に、身体から力が融け落ちて、その場にへたり込んだ。君が僕を抱き締めた。僕は、その感触に縋り、うわあと君の胸の中で叫んだ。
 嘘をついた、嘘をつかれた、嘘に引きずり回された、そのことの罪悪感や悔しさや虚しさが、激しく口から漏れ出でて君の膨らみの間に籠もり続けた。
 君の胸元をすっかり濡らしてしまうまで、僕は涙を止めることができなかった。

 十一月、この街の秋の終わりは、そんな風に僕の身体を冷やし始めていった。


<#09終わり、#10へ続く>



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