【連載小説】転送少女症候群、もしくは黍島柘十武の長い回想 #15【最終回】
「それで、全部です」
彼はそういうと、すっかり氷が溶けて薄まったアイス珈琲を口にした。僕がここに来た時には、まだ昼だったのに、窓の外に酔客のグループが何組も通り過ぎる時間になっていた。
彼は、一気に話した。正直に言うと、インタビューを断ち切って、別日を提案しようと何度も思った。でも、できなかった。
僕に、彼の言う、真剣なフリができていたのか、それはわからない。でも、彼はそんなことまるで気にしていなかった。ただ、自分がそこにいるかのように、まるで、何年も前のその時に帰ったように、話した。
僕は、それで全部? と念を押した。ええ、と彼は応えた。
「まあ、その後は、『檻』に連れて行かれて、一年くらいそこで、尋問されたり、牢に入れられたり……でも、僕は、遊の話したことについて全て知らないフリを通しました。僕は、そういうのは得意なんです。毎日変な薬を飲まされたのはちょっといやでしたけど。飲んでるうちに、話したくなるんです。そして、遊のことを忘れてしまいそうになるんです。洗脳の薬ですかね。よくわからないですけど。
まあ、でも、遊の言ってたのは、本当でした。優しかったですよ。みんな。確かに悪いところじゃありませんでした。食事はあまりおいしくなかったですけど。
でも、多分『連中』の方針も変わったのかもしれません。遊たちが暴れたせいで。色んなひとがいました。
ミツウラみたいなひともいましたよ。男でしたけど、この国の陰謀について随分聞かされました。うん、『檻』の中にも、きっと、もっと巧妙なシステムが、出来上がってたんでしょうね」
そうですか、と僕は言うしかなかった。彼はそんな僕の表情を見ると、信じられませんよね、とほくそ笑んだ。ぞくりとした。刃で愛撫するような笑みだった。
「それで、一年経って、何故か僕はそこを追い出されて、あの部屋は親が解約したみたいで戻れなかったですけど、一応、大学にはまだ籍があって、部屋を改めて探して、今度は少し高かったけど、平地の部屋にしました。
でも、何かもう勉強する気力もなくて、ただ、ぼうっとして、遊を思い出しながら、暮らしてました。
それで、六年目になって、もう、辞めたらどうだって、親が言い出して、はは、あんなに僕にプレッシャーかけたのに、向こうから言い出して、逆らうのも面倒だったので、それで、バイトを始めて……」
また俯いて、ボタンを弄りを始めた彼に、僕は、とても慎重に、高校時代について教えてくれる? と訊いた。
彼は、その溺れたくなるような妖しい深淵をおさめた目を少し吊り上げて僕を見た。
「はは、何も無いですよ。何も。僕自身には何も無い。ひとに話せる秘密なんて、僕にはありません」
話せる秘密はない、つまり、話せない秘密は、あるってことだ、と僕は思った。
この話がフィクションだったらいいのに!
たわいのない嘘だったら! そこに積み重ねられた、時間や、彼の想いや、その数や、流されてきた血なんてなければいいのに、と僕は祈った。祈りながら、そのまま彼を見詰め続けた。
それを、今度は狂おしいくらい柔らかく受けとめると、彼は、そうですね、あなたは僕の話を何年もずっと訊きたいと言い続けてくれました、少しなら、話します、と言った。途端に背景がモノクロに褪せたような気がした。彼は灰色の瞳で言った。
「僕はいじめられっ子でした。言いましたよね? 高校でも、同じでした。男子校なんですけどね、玩具でしたよ。本当に。誰も助けてくれなかった。教師も、親も」
彼は少し流すように瞳を逸らすと、く、と笑った。
「でも、何故か最後は、皆がその玩具を血まみれで取り合うようになるんです。不思議ですよね」
灰色の瞳が赤い魔性で濡れたような気がした。僕は息を呑んだ。
それも一瞬だった。僕は何とか首を振り、もう一度、訊いた。
「自分を鈍感だと思う?」
「ええ」
「自分には、何の魅力も無いと?」
「ええ、あなたがそう言ったんでしょう?」
僕には、もう、それ以上何も訊くことができなかった。もしかしたら、もっと深く立ち入ることもできたのかも知れない。詳細に、その『いじめ』について。でも、そんな勇気は、僕にも無かった。
長い時間ありがとうございました、と僕は頭を下げた。良いんですよ、それに、もう僕は、『連中』は怖くない、あなたが『連中』でもいいと思ったんです、実際、あなたがあの『檻』に連れて行ったんだから、そう言って彼は立ち上がった。
その艶めかしい姿態からゆらりと匂うような光を放って。
目がそらせなかった。彼が去って行くのをどうしても引き留めなければならない、と思った。
まだ何か? と振り返る彼に僕は訊いた。
「ユウは、今、どこに?」
ははは、と彼は楽しそうに笑うと、ちょっと眉を上げて、その焦げ痕のある右手を握り直し、戯けたように首を振って、そのまま出て行った。
何かを、誰かと、話しながら。
僕がこのインタビューをした理由を、書くことはしない。
本当に、したくない
○
これが、あの日、僕が、全てを諦めた原稿だ。本当に、未熟だ。
そんなものを読ませてしまったことを改めて心から謝りたい。
でも、僕はあの頃の自分を許したいのだ。何もできなかった自分を許して、そして、前を向きたいのだ。
未来に、あの挫折を、持ち込みたくはないのだ。
積み上げてきたものを突き崩したくなる衝動を堪えて、更なる些細なことを積み上げていくことを、ただ、それだけの、自分勝手な理由を本当に許して欲しいのだ。
自分に許したいのだ。
僕は、あの原稿を打ち直したこのファイルを、多分、二度と読み返す事は無い。
そうだ、僕には、することが山ほどある。
さぼり気味だった掃除をし、食器を洗い、おいしい食事の下ごしらえをし、布団を陽に干して、役所で手続き関係を済ませ、彼を迎え入れる準備をしなくちゃならない。彼はまだ僕をさん付けで呼ぶのだろうか。
何だって良い。僕は、彼が、彼でありさえすれば、それでいい。
誰でもいいんじゃない。
僕は、彼の全てを、あの時、選んだ。
それを誤りだとは、決して、思わない。
そう、今日は、彼の、六回目の退院の日だ。
<終>
この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
また、この作品は2016年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版と大筋において変更はありません。
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