【連載小説】転送少女症候群、もしくは黍島柘十武の長い回想 #03
それから何日も過ぎました。朝目覚めるたびにこれは夢じゃ無いと思い知ることになりました。何度目覚めても、遊はそこにいました。
部屋にいるからといって、彼女はとりたてて何をしてくれるでもありませんでした。料理も、洗濯も。もう一度例の行為を“提案”してくれることも。
僕は、それでも、いつものように坂を下り、上りました。
取り立てて何もなかった。
話はしましたよ。他にすることがないんで。
大体僕の部屋は娯楽に乏しかった。訪ねてくる友達がいないから、ゲーム機どころか、トランプすら無かった。
部屋の小さな本棚には大学の教科書と参考書くらいしか並べられてなかったし、音楽もそれ程の収集家じゃなかった。
必然的に、話題は、彼女が昼間見たテレビのこととかが多かったかな。すごいぜ、最近の昼ドラは、実の姉妹がひとりの男を取り合うんだ、ふたりともとやっちゃうんだよ、とかドラマのあらすじを説明してくれました。興味はなかったけど、僕はそれを黙って聞きました。
多少、軽い自己紹介みたいな、それぞれの身の上のことも話しましたかね。家族構成とか話しました。彼女も、両親と妹がいるけれど、長く会っていないと言いました。これが、わたしみたいな不良品と違って、妹ってのは良い子でね、親はそっちばかり可愛がったよ、なんて苦笑していました。
いっぱい恋をしてきたことも教えてくれました。
僕のところに来る前は、年寄りばかりの若者のいない島にいて、仕方無いから一番若い、島の診療所の五十代の医師に恋をしたのだそうです。駅で泣いていたのは、その恋が『始まったせいで終わってしまったから』だと言いました。
ちょっと意味がわかりませんでしたけど、始まるものは終わります。言葉のちょっとした不器用さのせいだろうと、僕は流しました。
その前は、外国でギャングみたいなことをしている少年に。言葉が通じなくて大変だったけど、恋ってのは、言葉なんて関係ないね、って彼女は笑いました。
その更に前は……という風に、まあ、その恋のこと自体は割とオープンに彼女は教えてくれました。
まあ、何て言うか、リアリティには欠けていました。少なくとも僕の信じるリアリティには。だから、嘘にのってやるような気分で、僕は話を聞きました。
ひとにはそれぞれに事情がある。それを深く掘り起こすことは、なかなか勇気がいる。僕にはそんな勇気は無かった。
でも、いや、そんなに色んなひとを好きになったのなら、両思いになってそこに居続けることだってできただろう、と僕は思ったし、それは、訊いてもみました。でも、彼女は、ふ、っと笑い、まあ、仕方無いよね、そういう摂理だから、と言いました。
不思議な言い方でした。更に次から次へと恋をしなければならない理由を訊いてもみました。それもやっぱりごまかされましたけど。
でも、彼女は言いました。わたしは自分にそれなりの魅力はあると思ってるけど、君のほうはわたしを好きになるべきじゃないのかもしれない、と。
どうして? と僕は訊きました。正直言えば、好意とは言えないまでも、遊という人間の気取らないところに対する好感のようなもの、は既に僕の中にあったわけですから。
彼女は、やっぱり何かを諦めた笑顔でこう応えました。
「結局、最後は応えてあげられないから」
相変わらずもどかしい感じはしていましたが、でも、そんな会話を重ねて、たったそれだけの間に、僕たちはそこに一緒にいるのが当たり前の存在になりました。
少なくとも遊はそう振る舞っていた。
迷惑も、実害も、そうなってみると何一つ無かった。僕は、観葉植物か、金魚の水槽でもそこに置いたくらいの気分になっていました。
それに、改めて気付いたのは、帰る場所に誰かがいるというのは案外悪くない、ということでした。ひとりぐらしは、自分でも気付いてなかったけれど、やっぱり寂しかったのかもしれません。
何日かしたとき、電車を降りると、改札口で待ってくれてさえいました。
遊は、ツトムがたまには外に出ろって言ったからさ、と少しはにかみました。僕は確かにそういうことを言いました。
まあ、女の子が迎えに来てくれるというのは悪い気はしません。遊は僕の腕を取ると、どうする? と聞きました。僕は、どうしていいものかわからず、じゃあ、晩飯の買い物をしよう、と提案しました。いいね、と遊は笑いました。そして、初めて僕たちは夕食の買い物に一緒に向かいました。
彼女は棚の食品を楽しそうに覗き込みながら、僕の先を歩きました。嬉しそうに僕に振り返り、ねえ、今日は何食べるの? と訊きました。それまで僕はカップラーメンばかりの生活を送っていました。遊が来てからも、ずっとそうでした。
でも、遊のために何か料理をするのも悪くないような気がしました。サバの塩焼き? と僕は言ってみました。すると嬉しそうに目を見開いて、彼女は、サバ! と飛び跳ねました。大げさなくらいに。そして、踊るように腰を振りながら、サバ、サバ、サバの塩焼き、とメロディをつけて歌い始めました。
僕は周囲の目が気になって、恥ずかしくて、やめろよ、歌って踊るの、と彼女の肩を押さえました。え、どうして? と遊は不思議そうに僕を見詰めました。腰を振って、ステップを踏みながら。
「だからやめろって」
「いいじゃない」
「良くないよ、恥ずかしいよ」
「誰も見てないよ」
僕はふと周りを見ました。
周りにいた主婦の人達が、すっと目を逸らしました。
僕は、自分の顔が真っ赤になったのがわかりました。だから、やめろ、と僕は言いました。遊は、ふん、と鼻で息をつくと、こういうのはさ、中途半端にやると恥ずかしいんだよ、だから……とニッコリ笑いました。
え? と思う間も無く、遊はばっと手を広げ、客たちに身体を向けると、うぉううぉうぉうぉうぉおおおう、とその胸にも負けない豊かな声で、シャウトしました。
僕は呆気に取られました。止めるタイミングを逃してしまった。
遊は、そのまま、歌い続けました。こんな感じに。サバ、サーバー、サババ、サバ、今日のごはんは、サバの塩焼き、おいしいかな? おいしいよ、きっとね、コイの味がするよ、サバだけどぉおお――。
やめろって、と僕は叫びました。そして、周りを見ると、驚いた顔の客たちが、すっと僕から顔をそむけて散っていきました。
いっそう高らかに歌い上げながら、くるりくるりと踊る遊を止めるより、僕は、逃げ出す方がいいと判断して、さっと逃げ出しました。
ちょっと、待ってよ、と遊は追いかけてきました。僕は、もう恥ずかしくて恥ずかしくて、それに応えませんでした。
怒ったの? と訊かれました。自分が怒っていることにそれで気付きました。
僕は、とにかくそのスーパーを出ることしか頭にありませんでした。レジの待ち時間さえ耐えられそうになくて、僕はカゴに入れた食品をさっさと棚に戻して、何も買わずに外に飛び出しました。ちょっと待ってよ、と聞こえましたが、僕は振り返らずに歩きました。
ツトム、ツトムってば、と後ろから遊は僕に呼びかけ、Tシャツの裾を掴みましたが、僕はそれを払って歩き続けました。すると遊は後ろから、どん、と僕の背中に飛びつきました。腕が僕の肩を包んで胸を締め付けました。
僕はその手の甲に、何か茶色い痣のような、胸にもあった染みのようなものがあるのに気が付きましたが、その時は何も思わず、ただ立ち止まりました。
何も言えませんでした。耳元で声がしました。
「ツトムは、ああいうのは嫌い?」
「……恥ずかしいよ」
「あれは、君が恥ずかしいんじゃない。恥ずかしいとしたら、わたしだ」
「一緒にいれば、仲間だと思われるだろ?」
「だって、仲間だろ? 親友だ。同居人だよ。隠すこともない」
「でも……」
遊の息づかいが、確かに聞こえました。僕は自分を抱き締めるその腕を乱暴に払いました。こういうのもやめろよ、外だぞ、と僕は呟きました。遊は、ふう、と息を吐くと、君はシャイだね、繊細だ、と言いました。
僕は足下にしか視線を動かせなかったけれど、遊が僕を見詰める真剣さがちゃんとわかりました。そしてこういいました。
「悪くないよ、そういう男の子も」
「そうかよ」
遊は僕を追い越して、部屋への道を歩き始めました。その背中で、遊は言いました。
なんていうか、旅の恥はかきすてっていうかさ、色んなところに飛ばされてると、ついそういう癖がつく、ここで何をしても知ったことかってね、悪かった、と。
僕は、まるで自分とは真逆だな、と思いました。
僕は父の転勤で行った先では、どこでも良い子で、後ろ指さされるようなことをしてはいけない、と身を竦めて生きて来ました。イラッとしたのは、遊の、その強さが羨ましかったからかもしれません。
僕は複雑な心で、飛ばされる? と訊き返しました。遊はそれには応えませんでした。代わりに、あーあ、サバ食べたかったなーと、また、大声で言いました。僕は呆れて、却って可笑しくなって、首を振りました。
好きなの? サバ、と訊くと、ん、ツトムは? と遊は訊き返しました。僕は、まあ、嫌いじゃない、好きだよ、と応えました。遊は、それなら、わたしも好きだ、とちょっとだけ振り返っていいました。
その姿。夕焼けが、突然目に入りました。黄金の天球が僕たちを朱に染めていました。
ああ、僕はそれを写真にすべきだった。僕には言葉にできないほどのその光と影の儚さを。
そして、「わたしはきっと君自身のこともちゃんと好きなれる」と笑った、あの声さえも。
でも、その時の僕に、それが、思い出になってしまうなんてことは、想像もつきませんでした。
そんな日々が永遠に続くかと思われた、ある日でした。
第二外国語はフランス語を履修していました。
今となっては、アン、ドゥ、トロワ、とかボンジュール、シルブプレ、メルシーボク、ジュシィ、チュエ、イレ、エレくらいしか思い出せませんけれど。
で、さっき言ったように、語学のクラスに、以前から気になっていた女の子がいました。志伊理美という名でした。
いつもおとなしめの色の服を着、化粧っ気も殆どありませんでした。でも、長い、したたるような黒の髪が、きちんと櫛で梳かれて後ろでぎゅっと結ばれていて、そうして晒された富士額が、僕にはとても美しく見えました。
服装同様に、彼女自身もおとなしくて、あまり他のクラスメートと話しているのを見た事がありません。そんなところに、僕は共感していたのかもしれません。
いや、共感しあえるかもしれない、と淡い期待があったのかもしれません。
彼女はそういう期待をかき立てさせる女の子でした。好きにならなければならない、と思わせるような。
いや、それは、ただの僕の特殊な思い込みだったかもしれませんが。でも、実際に馴れ馴れしく近づく勇気は僕にはありませんでした。
その日、僕は語学の授業前、学部棟のロビーでぼうっとしていました。
まあ、遊のことを考えていたんです。
確かに実害はない。
――スーパーで歌って踊る以外は――。
彼女が言った通り、カップラーメンの食事に文句をつけることもない。だから、余計な支出もあるわけじゃない。でも、女の子と一緒に住むということは、いや、ああいうあけすけな女と一緒に住むということは、思ったより、しんどかった。基本、ノーブラにTシャツですからね。僕にだって、疚しくなることがあった。
もちろん、遊のことだから、正直に、いや、やっぱり、いいかな? と言えば、いいよ、と応えてくれそうでした。
でも、僕も若かった! 自分がそんなことを言い出すことをこの上も無く恥ずかしく、みっともなく、情けなく感じた。
それに、怖かった。……うん、怖かった。やっぱり遊は正体不明なままだったし、そんな相手に快感で全てをあやふやに融かされでもしたら、どうなってしまうか、恐ろしかった。それを試す勇気は無かった。
でも、何かちょっとした執着みたいなものが僕の心に滲み始めていましたのは確かです。
そして、そんな想いが折に触れて僕を呆けさせていました。
で、ふと気付くと、授業の開始時間がとっくに過ぎていました。やばい、と思いました。
担当講師は遅刻、欠席に相当厳格で、遅れて教室に来た学生を何度か追い返すところを見た事があるからです。その時もダメか、と思いましたが、一縷の望みをかけて、僕はエレベーターに走りました。
僕がエレベーターの前に立つと、同じように慌てて駆けてくる女の子がいました。
志伊理美でした。
息を切らして、僕の隣に立った彼女に、僕は会釈しました。彼女も、ちょっと苦しそうに笑顔で会釈しました。
普通ならソレ幸いに会話でも仕掛けるのかもしれませんが、僕はそんなこともできませんでした。
扉が開いて、乗り込んだとき、僕たちは同時にボタンに手を伸ばしました。僕が慌てて、ごめん、というのと同時に、志伊理美も、ごめんなさいっ、と手を引きました。僕たちはちょっと見詰めあって、もう一度、僕が、ごめん、と言った時も、志伊理美は同じタイミングで、ごめんなさい、と声を発しました。それで、僕たちは、苦笑しあうことになりました。
僕が結局ボタンを押すと志伊理美が言いました。
「フラ語だよね?」
「うん」
「もうダメかな」
「わかんないけど……」
「はあ、急いだんだけど」
「用事?」
「うん、ちょっと、手間取っちゃって」
「ふうん」
何に手間取ったかはわかりませんでしたが、僕は深く訊きませんでした。
思えば、僕はひとに深く踏み込むことが苦手でした。遊に対してもそうでしたが、どこまでが許されるラインなのかわからず、結局、そのずっと手前で立ち止まってしまう癖がありました。そんな自分の意気地無さに僕は諦めのような気持ちで、俯くしかありませんでした。
教室では案の定、担当講師が冷たい表情で僕たちを見詰めました。彼女はこう言いました。
「遅れてくるようなひとに教えることはありません。今日はお引き取りください」
僕は、やっぱりダメか、と思いました。すみませんでした、と頭を下げようとしたときでした。志伊理美が、一歩前に進んで、彼女に訴えかけました。
「実は――」
「理由は訊いてません」
「いえ、やむにやまれぬ事情が――」
「お母さんが倒れましたか? おばあちゃんが亡くなった? それとも、弟さんかしら? ああ、そうそう、通りすがりの急病人を助けたひともいましたよ」
教室に、静かな笑いが、起きました。まあ、そういうことを言い訳に使うものは確かに多かったのかもしれません。でも、志伊理美は必死の形相を崩しませんでした。
「話だけでも聞いて下さい」
「お帰り下さい」
「お願いします!」
何というか、声とか、表情とか、姿勢とか、僕から見ると、そこに何の混じりけもない真剣さとか、必死さがありました。異界を旅する少女が、恐れながらでも、最後の敵に向かって剣を振り上げる、とでも言うような。それを演技だとするなら、間違いなく、主演女優賞ものでした。
そんな彼女の様子に圧されたのか、講師は、話してご覧なさい、でも聞くだけですよ、と毅然とした態度で言いました。すると志伊理美は、必死さをすっと消して、今度は、躊躇うように、恥じらうように、身を縮めました。
「言い辛いんです」
「じゃあ、このまま去りなさい」
「いえ、先生だけに、お教えします」
よろしいですか? と自分の問いへの応えも待たず、志伊理美は講師に近寄りその耳元に手をかざして、何事かを囁きました。
講師は表情も変えませんでしたが、その視線を僕の方に向け、そして、志伊理美が囁き終わると、僕に、本当ですか? と問いました。
何が本当なのかわかりませんでした。でも、志伊理美が僕を見詰めていました。見詰めて、軽く、ほんのごく軽く頷きました。僕はそれにつられて、頷いてしまいました。
それを見ると、講師は、わかりました、これは特例です、席に着きなさい、と言って、僕たちが座るのも待たず授業を再開しました。
授業の最中、僕は何度も志伊理美を見ましたが、彼女は、僕に振り返ろうともしませんでした。
授業が終わって、教室を出ようとしたその後ろから、ちょっと待って、と志伊理美の声が聞こえました。
僕は自分の事だと思わず――いえ、思いましたけど、自分に対してじゃないかもしれない声に振り返って恥ずかしくなるのがいやで、そのまま教室を出ました。
でも、それは確かに僕を呼び止める声でした。何故なら、僕のシャツの裾を彼女が掴んだから。僕は立ち止まりました。志伊理美は穏やかに笑っていました。そして、こう言いました。
「もし良かったら、お昼一緒にしませんか?」
僕は、断れたでしょうか? その誘いと蕩けるような笑みを。
僕は、控えめに言って、上機嫌でした。遊がそんな僕を見詰め続けていました。
何? とそれに気付いて僕が問うと、遊は、今日は随分浮かれてるね、と言いました。
「良いことでもあった?」
「……いや、別に」
「聞かせてよ」
「いや、本当に、別に」
まさか、他の女の子の話をするわけにはいかなかった。
僕の機嫌が良かったのは、他ならぬ志伊理美のせいでした。
一緒に昼を食べながら、取り立てて変わった話はしませんでした。授業のこととか、そういう大学生的世間話程度のことはしました。大学の先生って、あまり丁寧に板書してくれないよね、と志伊理美は言いました。
ノートどんな風に取ってる? と訊かれたので、僕は自分のノートを彼女に差し出しました。それを開くと、わあ、すごい、この授業、こんなにあの先生板書しないよね、と感心したように僕を見詰めました。
ねえ、もし良かったら、この分だけでも写させて貰っていい? と志伊理美は申し訳なさそうに僕の目を覗き込みました。
悪い気分はしませんでした。断る理由もありません。僕は、彼女がノートを写すのを見ながら、ラーメンを啜ることになりました。
志伊理美は、いかにも女の子らしく、ノートにペンを走らせていました。走らせながら、時折、僕に言葉を掛けてきました。
字、上手だね、とか、板書以外の先生の言葉まできちんとまとめてあってわかりやすい、とか、その度に少し顔を上げて、上目づかいの微笑みを、僕に投げかけました。
もしかして、他の授業も、ちゃんとノート取ってる? と志伊理美は訊きました。僕は頷きました。ふうん、と志伊理美は何でもないことのように、返答しました。
僕が食べ終わって、しばらく待つと、志伊理美もノートを写し終えました。そして、ありがとう、とノートを差し出しながら、こんなことを言いました。すっごくわかりやすかった、こんな風にノート取れるなんて羨ましい、憧れちゃうかもしれない、って。
僕は、なんと返答していいのかわからずに、口ごもって目線を逸らしてしまいました。
褒められるというのは、特に女の子から褒められるというのは、本当に嬉しい。でも、こんな時喜びを素直に表現するのは格好悪いことだと思っていました。
それを誤魔化そうとちょっと言葉を探している内に、あの講師に志伊理美は何を言って出席を認めさせたのか、訊きたくなりました。
志伊理美は、ああ、と僕の質問につまらなさそうに応えました。
「ああ、アレね」
「うん、何を言ったら僕まで出席できるようになるのかなって」
「痴漢にあったって言ったの」
「え? 本当?」
「うん。そういう日もあるよね」
「え?」
「今日じゃなくても、そういう日はある。あの先生、古ーいフェミニズム信奉者だから、そういうのには弱いのはわかってたの」
「は? ……え? で、どうして僕まで……」
「ああ、頷いてくれて助かったよ。あなたは証人になってくれた」
「えーと、全然話が見えないんだけど……どういうこと?」
「つまり、電車の中で痴漢にあってたところをあなたが助けてくれたことにしたの」
「あ……ああ」
「だから、あなたという“恩人”がいたから、うまくいった」
「はあ……」
「ありがとう、恩人さん」
イノセントな笑顔が、僕に向けられていました。僕もつられて笑いました。
でも、すごいなあ、と僕は言いました。何? と志伊理美は首を傾げました。
「すごい演技力だね」
「そう?」
「本当に、そんな風に見えた」
「そうかな」
「……なんか」
「ん?」
「女の人は怖いね」
志伊理美が、ちょっと顎を引きました。
その表情が、なんというか、いきなり固まったような気がしました。
……違うな、景色がモノクロになったような、瞳が灰色になったような、そんな感じがしました。
それはほんの一瞬でしたが、何かまずいことを言ったか、と僕は、あ、いや……と口ごもることになりました。彼女もそれに気付いたのか、すぐに笑みを柔らかなものに変えると、その話題を断ち切るように、ねえ、もしよかったら、他の授業のノートも、うつさせてくれませんか? と少し僕の目の奥を覗き込むかのように首を傾げました。良いも悪いもありません。イエスしか思い浮かばないのに、僕は躊躇いました。
なんとなく割り切れない何かが胸の内にわき上がりました。
ダメかな、とすっと彼女は僕の方に前のめりになりました。僕が、そのかわいらしさに圧されて、いいけど、と言いかけた瞬間でした。僕の後ろから、よう、と男の声がしました。
笑顔でしたよ。志伊理美は。何も変化はなかった。
僕に向けられていたそれを、彼女は僕の後ろへと移しました。僕が振り返ると、そこには男がいました。
なんというか、ちょっと思い浮かばないな、ごめんなさい、でも、よくドラマなんかで出てくる、少しだらしない、すれた探偵みたいな容貌だな、と思いました。背が高くて、男っぽくて、筋肉は確かについて締まっているのに、ほんの少し猫背で、けだるくて。いかにも女の子が好みそうな不良と言った感じでした。ほら、叱りながら、でも結局わたしがいないとこの人はダメなんだ、って思わせるような。
なんというか、僕は、いきなり、自分が小さくなってしまったように感じました。僕に無いものを全部持っているような気がしたんです。
そういうのって、瞬時にわかっちゃうものです。あ、絶対に敵わない、って。
彼は、僕にちら、と目を向け、じっと見詰めました。僕の目は逸れてしまいました。それから、男はぐるりと僕たちのテーブルをまわるように志伊理美に近づきました。よう、と彼はもう一度彼女に言いました。志伊理美は、笑顔のまま、氷井さん、と彼の名を呼びました。
彼は、彼女からふっと視線を逸らして、釣れますか? と言いました。僕は、その時は、彼が何を言っているのかわかりませんでした。志伊理美は、ただ笑顔を少し傾けただけの応答をしました。
彼は眉を上げ、呆れたような笑みから、鼻息をふっと洩らすと、そう言えば、こないだスズモトがさあ、と少し張った声で言いました。志伊理美は、それを聞くか聞かないかのタイミングで立ち上がり、あ、用事思い出しちゃった、黍島くん、またね、と蕩けるような笑顔で僕の肩に触れて、その場をすっと離れて行きました。
僕は折角の機会を邪魔されたことに多少の落胆と憤りを感じましたが、この男に対して、それを表現しようとは思いませんでした。いや、ただびびっていただけかもしれません。
氷井と呼ばれた男はそれを視線で追うでもなく、伸びたゆるい癖毛の頭をガリガリと掻いて、また、ふん、と鼻で笑いました。
そして、僕を見下ろすと、君さ、と言いました。僕は、何でしょう、と応えました。彼はじろじろと僕の顔の上に視線をなぞらせてから、やっぱりやめとく、悪いね、知らなくていいなら、知らない方がいい……でも、呪われるなよ、と言い残して、その場をだるそうに去って行きました。
僕は、なんとなく安堵のため息をつきました。そしてすぐに――男ってのは馬鹿ですね――志伊理美の、またね、という言葉に嬉しくなりました。また、ってことは、また、ってことです。チャンスがある、ってことです。僕はなんとなくノートを開きました。
彼女が写したページには、こんなことが書いてありました。
「ありがとう、黍島くん。すごくたすかったよ。また教室でね♡」
僕は、さっき感じた劣等感なんか、どっかに飛んでいったのがわかりました。
ハートですよ? 今なら――多少なりとも経験を積んだ今なら、ハイハイ、ハートハート、くらいに思うかもしれませんが、その時の僕は、ピンク色の熱い液体が全身を濡らしたかのように感じました。
で、そんな気分で部屋に戻ったわけです。ドキっとしますね。ああいうとき。僕はすっかり遊のことを忘れていました。
ザ・挙動不審、でしたよ。浮かれながら、怯えてる訳ですから。そんな僕に遊は、実に単刀直入に訊きました。
「で? どんな女の子なの?」
僕は、すうっと身体から血の気が引くのがわかりました。
いや、まだ、僕たちはそういう関係じゃない。確かに遊に対して好感は持っていたけれど、それはまだいわゆる恋愛云々のレベルでもない。なのに自分を罪深く感ずる不可解さ。
僕の視線は、遊の瞳がどんなに追っかけても、空を逃げ続けました。
遊は、ぐっと僕に近づいて、もう一度、どんな女の子なの? と訊きました。だから、違うんだって、と僕は身体を背けました。遊が、きい、悔しいぃ、と僕の二の腕をつねりあげました。
ふざけた調子でね。
痛くは無かったけれど、僕はそれを払って、お前に関係ないだろ、と嘯きました。お、それは自白だね、と遊は可笑しそうに言うと、訊かせなよ、役に立てるかもしれない、と床に腰をおろしました。
僕はその平然とした様子の遊に少し苛立って、訊きました。
「お前、僕のこと好きなんだろ?」
「うーん、まあ、まだ本式ってわけでもないけどね。可能性十分っていうか。だんだんそういう気になりそうな、ってとこ」
「他の女のことなんて訊きたくないだろ?」
「まあ、そうだね……でも、いいじゃん、訊かせなよ、嫉妬ってのは、案外、恋に効くんだ」
ニコニコと笑う遊を見て、僕はため息をつくしかありませんでした。
何秒か見つめ合って、そして、遊の顔に、また、少し儚げなものが過ぎりました。遊は言いました。
「もし、君に好きな人がいるなら、わたしは何の躊躇いも無く君を好きになれる」
「は?」
「だって、わたしがいなくなっても、君はひとりにはならないじゃないか」
「あ?」
「わたしの好きになったひとが、寂しい想いをするなんて、わたしだって寂しいじゃないか。幸せになって欲しいんだ。好きになった男達には」
いかに他人に深く踏み込めない僕でも、これ以上無いチャンスでした。僕は、それまで曖昧にごまかされてきたそのあたりのことを、今こそ訊かねばならない、と思いました。
「その、おまえ、好きになったらいなくなるってどういう意味?」
「どうもこうも、そのままの意味だよ」
「好きになったら、出てくってこと?」
「うん。まあ、出てくっていうか、なんというか……」
「普通、逆だよな。好きになったら、一緒にいたいし、いるよな?」
「そうしてみたいね」
「何を隠してる?」
「君は信じないよ。というか誰も信じない。今までだって、そうだった。ちょっとかわいそうな子だ、くらいにしか思われなかった」
「何を――」
遊はすっと背を伸ばし、僕に強く視線を合わせました。僕は、それに怯みながらも、視線を外せませんでした。そして、遊は、は、とひとつ息を吐いて、こう言いました。
「……実はわたしは先日助けていただいた鶴でして」
僕は、それを聞いて、鶴はたすけてねえよ、いねえよ、このあたりに鶴は、とがっくり頭を下げました。じゃあ狐、それもいない、亀? 助けてないし、竜宮城はいかない、とくだらない掛け合いをして、助ける動物が思い当たらなくなったらしく、遊は言葉を止め、また僕たちは見つめ合いました。
笑顔でしたが、どうしてか、この女の子には、何かを諦めてしまったような、哀しみがいつも漂っていました。
鷹揚にふるまっているようで、その底に大きく寂しげな碧い空洞があるように思えました。
そんな何か深刻な空虚さが、僕を少し真剣にしました。
僕も腰を降ろし、そして、遊に向き合いました。僕は、多分、精一杯深刻に取り繕って、言えよ、信じるよ、と声を掛けました。遊は、ちょっと戯けたように左右に首を振ると、きっと信じないよ、君も信じないよ、と呟きました。
僕はぐっと遊に身体を近づけました。
「信じる」
遊は首を振りました。
「信じるさ」
「信じないよ」
「信じる」
「……じゃあ、鶴だって信じて」
「それは信じられない」
「ほら、やっぱり信じないじゃない」
「だから、それは……」
遊はそっぽを向いて、ははは、と笑いました。僕の視線は床に落ちました。
なんだか急に、理由もなく、悔しくなりました。悔しさが、もう一度、僕に、信じるさ、と呟かせました。
戯けた様に、頭を揺らした遊が、じゃあさ、昔話をしようか、と言いました。だから、鶴の恩返しはいらねえよ、と僕は応えました。
それが届いたのかどうなのか、遊は、昔々、あるところに、と切り出しました。
その声は、たしかに悲しい真剣さにかすれていました。
僕に、聞かなきゃいけない、と思わせる声でした。
<#03終わり、#04に続く>
この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
また、この作品は2016年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版と大筋において変更はありません。
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