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【連載小説】僕のセイシュンの三、四日 #09

この物語はフィクションです。登場するあらゆる個人、団体、組織、事件、SNS等は全て架空のものであり、実在のものとは関係がありません。
また、この作品は2013年にKDP/Amazonにて発行された電子書籍版に加筆・修正をし、連載形式に分割して再発表するものです。
ここまでの話数は↓のマガジンに纏められています。


         ○

 結局、随分待ったが、砂羽は親子丼を食べきれなかった。エビピラフを平らげた僕がその残された分を食べた。
 長い昼飯の後、僕は砂羽を連れて久しぶりに構内をぶらつく事にした。
 そのキャンパスには二つの学部しかなく、教室数や規模もそれほど大きなものでは無かったが、何となく砂羽には大学というものを見せておきたいと思ったのだ。
 かといって、子供の興味を引きそうなものが僕には分からなかった。
 ワークステーションの並んだ電算室を覗いた後、体育館と併設されたジムに連れて行ったが、あまり砂羽の反応は芳しくなかった。
 僕は砂羽を抱き上げて、エアロバイクに乗せてみようとした。しかし、砂羽は身体を強張らせてそれを拒否した。
 講堂では誰もいないのを良いことに、ステージに二人で立ってみた。
 思えば僕はステージからの視界に慣れていなかった。整然と並んだ空いた座席がもし人で埋まっていたらと思うだけで、何だか悪酔いしたような気分になった。

 あまりに何も無かったので、何か砂羽に買い与えようと大学生協に向かうことにした。
 その途中、小教室棟のトイレの前で、僕は小便がしたくなった。一応砂羽にも尋ねてみた。
「ここ、トイレだけど、おしっことかうんことかしたくない?」
 砂羽は何も言わずに女子トイレに入って行った。五歳の子が一人で用を足せるのか分からなかったが、何も訴えないということは大丈夫なんだろうと思った。
 僕は素早く用を足し、トイレを出た。砂羽はまだ出てきていなかった。僕はトイレの前にあるベンチに座って待つことにした。
 小教室棟も静かだった。
 ここ数日自分の身に降りかかって来た予想外の出来事を考えてみようと思った。しかし、上手く行かなかった。
 筋道立てて考えるには、どれもまだ生々し過ぎた。
 考えるのを止めるな、とどこかで聞いた事があるが、僕のような凡人には考えるのを止めた方が良いことだってあるのだ。
 ただ、泉との平穏な日々が懐かしかった。
 そこに戻ることが出来れば、何も要らないのにと僕は思った。

 ふと、砂羽が遅すぎると気付いた。
 僕は立ち上がり、女子トイレの前に立った。
 だが、中を覗くのにはとても抵抗があった。
 砂羽ちゃん、と僕は小声で呼んでみた。しかし、女子トイレは未開の地の鍾乳洞みたいにひっそりとしていた。
 もしかしたら、先に出てどこかへ行ってしまったのかも知れないとあたりを見に行ったが、砂羽はいなかった。
 やはり、トイレから出て来ていないのだと思った。とは言え、僕にはトイレの前をうろうろすることくらいしか出来なかった。
 そこに、ファイルケースを抱えた学生らしき女が通り掛かった。
 少し躊躇ったが、僕はその女学生の後ろを追ってすみませんと声を掛けた。
 女学生は知らない顔の僕に対して身構えた。が、砂羽に何かあったらと思うと彼女に頼むしか無いとその時の僕は思った。
「そこの女子トイレに子供がいる筈なんですが、いつまで経っても出てこないんです。僕が入る訳にはいかないので、中の様子を見てきていただけませんか?」
 女学生は不審そうに僕を見た。
「子供?」
「ええ。五歳の女の子です。随分長いこと経ったんです。何かあったんじゃないかと思って」
「アナタの子?」
 僕は一瞬答えに詰まった。
 そして、ええ、まあ、と口にしてしまった。
 事情を説明するのは面倒くさいと思ったのだ。
 思えばそれが失着だった。
 お急ぎの所、申し訳ないんですがお願いします、と僕は頭を下げた。疑わしげな目つきで女学生は僕を見ていた。
 しかし、お願いしますと再度言うと、わかったわ、見てくればいいのね、と仕方なさそうな表情で女学生は女子トイレに向かった。
 僕はその背中に、子供の名前は砂羽と言います、と伝えた。
 時間にして、二、三分だったろうか、女学生がトイレから出て来た。砂羽は連れられていなかった。
 不自然な程女学生は笑顔だった。注意深く思い出せば、どことなくぎこちなかったようにも思える。僕は訊いた。
「いましたか」
「いたわよ」と女学生は言った。
「ああ、良かった、どこかへ行ったかと……」
「大きい方してるんだって」
「そうですか」
 とりあえず僕はほっとした。じゃあ、アタシは急いでるから、と女学生はそそくさとその場を去った。僕はありがとうございました、と頭を下げて見送った。
 子供でも便秘なんてするんだなと僕は思った。
 それなら仕方無いので、僕はまたベンチに腰掛けて気長に待つことにした。
 しかし、何かがしっくり行かなかった。
 煙草を吸いたいと思った。が、そこにも灰皿は設置されていなかった。
 何かが僕の頭の中でチリチリと音を立てていたが、その理由がその時の僕には分からなかった。
 どうして僕の頭はいつも遅れて気付くのだろう。気付かないよりタチが悪い。
 あの砂羽が、“初対面の人間と言葉で会話するなんて有り得ない”のだ。
 
 僕は床をぼんやり眺めていた。バタバタと何人かの急ぎ足の音が近づいて来て、僕の前に止まった。
 見上げると、緊張した面持ちの男二人が僕を睨み付けていた。
 僕はその二人を顔だけは知っていた。事務の職員の筈だった。
 背の低いほうの男が訊いた。
「君はここの学生か?」
「はい」
「学生証は持ってる?」
 禿げたほうが畳み掛けて来た。
 その後ろで女子トイレに入って行く女二人が見えた。一人はさっきの女学生だった。
 学生証は休学手続きの時に返していて持っていなかった。
「いや、今ありませんけど」と僕は答えた。
「本当か?」と背の低いほう。
「本当です。僕、休学中なんです」
「休学中なのに何でここにいるんだ? 名前と学籍番号は?」と禿げたほう。
「高橋祐介です。学籍番号はXXXXXXXXですけど、僕何かしましたか?」
 休学中は施設に立ち入ってはいけないなんて話は聞いたことが無かった。
 僕は二人を交互に見た。
 僕と彼らの間に明らかな温度差があった。
 ふと見ると、中年の女性職員が砂羽を抱き上げてトイレから出てきた。 
 さっきの女学生がその後ろからついてきて、僕を睨んだ。
 女性職員が砂羽に「もう大丈夫だからね」と言っているのが聞こえた。
「あのぉ、その子――」僕が砂羽に近寄ろうとすると、男二人は僕の前に立ちはだかり、女性職員は砂羽をかばう様に僕に背を向けた。
 また自分がややこしい事態に巻き込まれていることを僕は薄々感じ始めた。
「この子どこから連れてきた?」と背の低いほうが言った。
「家からですが」と僕は答えた。
「君はこの子の何だ? 関係は?」と禿げたほうが訊いた。
「いや、あの、話すと長くなるんですが、知り合いの子というか」
「さっきは自分の子だって言ったわ」と女学生が叫んだ。
 僕はその語気に一瞬怯んだ。
 確かに「アナタの子?」と訊かれ、肯定したことに間違いは無かった。
 しかし、その空白が彼らの目にはより疑わしいものに映っただろう。
「この子、ここの蛇口の使い方が分からなくて手を洗えずに困ってたんです。で、この子に『あの人、お父さん?』って訊いたら、首を横に振ったんです!」女学生は職員達に訴えかけた。
 僕は呆気に取られていた。男二人は視線を交わして頷き合うと、それぞれに僕の右腕と左腕を掴んだ。
「詳しく話を訊きたいから、事務棟まで来てもらえるかな?」と背の低いほうが言った。
「いや、そんな困ります」と僕は言った。
「困ることがあるんだね?」と禿げたほうが言った。
「いや、無いです、無いですけど」
「じゃあ、ちょっと話するくらいいいだろう?」と背の低いほうが言った。
「人から預かってるだけなんです!」と僕は叫び、二人から腕を振りほどこうとした。しかし、それは結果的に二人による拘束を強くしただけだった。
「じゃあ、母親はどこにいるの? 連絡とれるの?」と禿げたほうが言った。
「それは……分かりません」
「ほら、やっぱり!」と女学生は言った。
「分からないって言っても、それは……」
 大人四人に同時に睨まれると言うのは生まれて初めての事だった。僕の声は嗄れた。 
「母親が失踪したからで……それで、大学を見せてやろうと思って……本当なんだ」と僕は言った。
 だが、もうその場には僕の言葉を信じてくれる人はいなかった。
 二人は僕を挟み込む様に腕を掴んで歩き始めた。女性職員が「この子どうします?」と二人に訊いた。禿げた方が「連れてきて、でも、別の部屋に」と答えた。
 そうだ、砂羽に訊けば良い、と僕は思った。
「砂羽ちゃん、僕とお母さんと泉おばさんとご飯食べたよね?」と僕は砂羽に聞こえるように大きな声で言った。
 だが、引きずられながら振り返っても、砂羽は女性職員の胸に顔を埋めさせられたままで、何も言わなかった。
 そっか、そうだよな、と僕はがっくりして、力が地面に流れ落ちていくような感覚を味わった

<#09終 #10に続く>

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