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【連載小説】Words #11

 この物語はフィクションです。
 作中の人物・団体・学校・事件、及び各種名称、方言などあらゆるものは、創作であり、実在のものとは一切関係がありません。  

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 僕がバス代を貰えなくってしばらく経ったある日。その日は大雨で雷が鳴っていた。僕は母に乞うた。
「あの、雨なんで、バス代ください」
「傘があるでしょ?」
「は?」
「傘があるから、歩いて行けるでしょ?」
「いや、だからそういうレベルの雨じゃない――」
「ああ、しつこい! なんでもごねれば通ると思って! ゴミ袋でもなんでもかぶっていけばいいじゃない!」
「いや、でも――」
「行きなさい」
 まっすぐ玄関を指さされて、僕は言われた通り、感覚の薄い手にビニール傘を持って、重い足を雨の中踏み出した。
 その日の雨と言ったら! 僕のウチは父の転勤によっていくつもの街のいろんな気候を経験していたけれど、その街は盆地で、それまで体験したことのないような複雑な気候にとまどうことが多かった。
 そんな街においても、その日の雨は、十数年ぶりの大荒れだとテレビのお天気キャスターたちが深刻な顔で語るようなものだった。傘があるから歩いていけるでしょ? などと母は言ったが、傘をさしては、歩いて行けないほどの風も台風でも無いのに吹き荒れていた。
 いや、それも、母への怒りや苛立ちと諦めに沈んで、腹立ち紛れに歩いていた最初は良かった。どうして、なんていうかドラマティックなことが起きないんだろう、くらいに思っていた。恋人と激しく言いあって、飛び出して行ったオンナを追いかけるようなシチュエーションにはぴったりに思えた。
 ああ、真沢かかほ里が何かやってくれないだろうか、などと妄想する余裕すらあった。 しかし、そんな妄想を、雷の轟音と閃光が、焼き払った。ピカ、ドォオオオオオン、ピカピカ、ドドドドオオオオオン、僕の足は、体験したことの無い激しい雷への恐怖で動かなくなった。
 パニックになった僕は、金属、ヤバイ、と思い、強ばる腕で、傘を投げ捨てた。
 降りかかる豪雨。すぐにもずぶ濡れになるが、もう、足が動かない。
 胸が鳴る。呼吸ができない。何も考えられない!
 ただ雷鳴の度に、竦む身体。
 僕は、それでも何とか、比較的安全と思われる軒先を渡るように、もつれるような脚を走らせた。
 しかし、もうムリだ、と思ったとき、公衆電話ボックスが視界に入った。僕は、そこに駆け込んだ。取り敢えず、安全だ、と思った。それでも、雷鳴はとどろき続け、僕の身体もその度に竦んだ。
 もうムリ、もうムリ、もうムリ、ムリムリムリムリムリムリ! タクシー、と思った。
 僕はポケットというポケットに手を突っ込み、鞄をひっくり返した。チャリンと、一枚、十円玉が落ちただけだった。で、僕は頭が悪い。とりあえずタクシーを捕まえて、乗ってしまって、家に帰って、どうしようもない状況を作って、母に払わせれば良かったのだ。
 でも、そんな機転は僕には無かった。僕はその十円玉を持ち上げて、家に電話をした。母が出た。
「はい、もしもし」
「あ、僕」
「何?」
 途端に不機嫌そうになる、母の声。しかし、これは非常事態である。きっと、わかってくれる。僕はそう信じて、電話の向こうに情けなく縋った。
「今、雷で、雨で、もう、動けない」
「え?」
「塾、ムリ。帰るから」
「何言ってんのあんた?」
「は? は?」
「またズル休みしたいだけでしょうよ」
 また? 僕がいつズル休みした?
「いや、だから、そっちでもわかるでしょ? 雨! 雷!」
「雷くらいが、なんだっていうのよ」
「は?」
「ちゃんと塾に行きなさい! なんでそんなにワガママなの! アンタは!」
「いや、だから、本当にコワくて、脚が、脚が動かなくて、だから……!」
「落ちやしないわよ! 脚が動かないって言いながらも、そこまで行ったんでしょ? 動くじゃないの。塾にいくくらいできるでしょうよ!」
「いや、ここまできたけど、きたけど! これ以上――」
「ああああ、しつこいっ!」
「だから、ムリだから、だから、タクシーでかえ――」
「タクシーなんか乗ってきたって、払いませんから!」
「いや、だから――」
「知らないわよっ!」
 そして、電話は切れた。僕は、雷が落ち着くまで、そこで、自分のものじゃないみたいな身体を震わせているしか、することが無くなった。
 ずぶ濡れになった僕が、塾に辿りついたのは、もう授業が終わった直後だった。若い学生講師が、言った。
「オカアサンから電話あったぞ。サボったんじゃないかって」
「いや、そんなつもりはありませんでしたけど、でも……」
「……うん、わかる」
 講師は、いかにもあわれそうに僕を眺めると、他に何もしようがなく、講師室へと戻って行った。
 僕はもうただしんどくて、そこにある椅子に座り込み、机に突っ伏した。
 雨に濡れた服の重み。
 でも、その湿り気も、纏わり付く生ぬるさも僕は感じない。
 ただひたすら恐怖に身体の奥底まで震えた余韻。
 冷たい、硬い、僕の中で、何かがぷっつりと切れている。
 何か、は、何か、だ。でも、それはもう、二度とは繋がらない何かだった。
 それだけが、わかって、それしか、その時の僕にはわからない。
 そんな僕の机に伏した頬に、触れるもの。僕が驚いて顔を上げると、そこに、同じ特別進学コースの品川が笑っていた。
「何ソレ」
「あ?」
 品川理瀬。いかにもファッション雑誌のヘアスタイルのページにありそうな、緩いウェーブの掛かったデザインされたボブ。美人とも、カワイイとも言い難いけれど、でも、表情がコロコロと変わって、いかにも素直そうな顔。
 実際の性格は、大したもので、出てくる言葉はいつもどこか皮肉か批判が雑じっているようなヤツ。かほ里あたりとまた別種の扱いづらさがある。
 医者の娘。しながわ産科婦人科と言えば、その街ではそれなりに名が通っている。その時の僕に、彼女の服装のブランド名を言い当てる知識もなかったけれど、たぶん、流行の衣装をバーゲンなどで焦って買い漁るようなことをしないで済むだけの財力は、野暮ったい僕にも感じられた。
 そんな軽やかなスカートをひらひらさせて、彼女は僕の前に立っていた。
「馬鹿じゃないの」
「あ?」
「傘、無かったの?」
「いや、あったけど、どっかで捨ててきた」
「なんで?」
「雷、落ちるかと思って」
「うわ、頭わる」
「何?」
「落ちるわきゃないじゃん、こんな街なかで。避雷針だってバンバン立ってるのに」
「落ちるかと、思ったんだよ。こういうの、慣れてなくて」
「タクシー乗るとかさ」
「金が……無かった」
「ウケる」
 ひとの不幸に、簡単に「ウケる」ことができる。それは、自分の立つ家柄とか財力とか地位といった地盤の強固さを示している。いや、それだって、僕と比べれば、だけれど。
 もうちょっと高いところから見れば、そういう言動・振る舞いは、眉を潜められるものだったろう。でも、彼女は、何も怖がらない。その強さはうらやましくなくもなかった。
 しかし、その時の僕に、彼女の言動を心広く受け流すことなどできなかった。
「ウケる?」
「うん、馬鹿じゃん」
「ひとの不幸がそんなに楽しいか?」
「まあ、ね」
「最低だな、おまえ」
 素直そうな顔が、少し、性格悪く僕を睨み付けた。
「あ、そ」
「……」
「最低で、結構」
「……」
「でも、そんな最低な人間に、あんた勝てないよね」
「……」
「『人間的に優れた』あんたが模試で一度でもわたしに勝ったことある?」
「……」
「『人間的に優れて』いたら、東大に入れる?」
「……」
「『人間的に優れていて』こんな雨に濡れなかったことがある?」
「……」
「『人間的に優れて』いたら、お金が無くてもタクシーに乗れるのかしら」
「……」
「どう思う? 『人間的に優れた』あんたは?」
 何も言い返せない。悔しいが、事実だ。「人間的に優れた」という部分以外は。
 その皮肉が強烈に僕を抑え込む。だからといって、僕のむかつく心が収まるわけじゃない。悔し紛れに僕は言った。
「なら、最低なおまえはとっとと帰れ! タクシーにのって!」
 僕がどんと机を殴ったことに、品川は少し眉を上げたが、すぐさまそんな僕を見下すように、ニヤリと笑った。
「タクシー? そんなもの乗らないわ」
「え?」
「乗ったこともない」
 そしてそのまま品川は、携帯電話を取りだし、発信ボタンを押した。
「ああ、シンドウ? 車を回して」
 それだけ言うと携帯を閉じ、品川は背中を見せた。
「わたしには、運転手つきの車があるの。それで帰らせて頂くわ」
「……」
「『ごきげんよう』」
 く
 く
 くそおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!
 心はそう叫ぶ。最後の「ごきげんよう」、わざと、上流っぽく言いやがった。
 でも、僕はそれを声で表明するほどの度胸も無い。
 表明したところで、何も変わらない。僕の気持ちなど、何も変えない。誰も、聞いてはくれない。
 もう、帰りたくないな、と思った。
 どこにも、もう、行きたくない。
 帰ったところで、あの家は、母達のテリトリーで、僕の休める場所ではない。
 なのに、僕にはそこへ帰るしかないのだ。
 どれだけ、そこで、そんな重みに押し潰されていたかわからないけれど、僕は、ひとけのなくなった教室の中、ひとり、立ち上がった。そして、ビルの二階にある塾の階段を降りきったとき、そこに品川がいた。つまらなさそうにして。
「……帰ったんだろ? 運転手つきの車で」
「帰らせた」
「そ。じゃな」
 僕は、それ以上の会話をしたくなかった。そのまま離れようとしたいまだ乾かぬ背中を品川は引いた。僕が立ち止まらずに、そのまま歩こうとすると、もっと強い力が僕を引き留めた。
「何だよ」
「歩いて帰るの?」
「ああ、『人間的に優れてる』から」
「どのくらいかかんの?」
「一時間半くらい。『人間的に優れてるから』」
「バス、あるんじゃないの?」
「金、がないんだよ。『人間的に優れてるから』」
「わたしさー」
「何?」
「路線バス、ってのも乗ったことなくてさ」
「へえ」
「いっぺん乗ってみたいと思ってさ」
「ふうん」
「一緒に、乗ってくれる? 初めてだからさ、だ、誰かと一緒に……って」
「あ?」
「お金、貸す。わたしは――」
 いつしか品川は僕の前に立って、僕を見詰めていた。
「『人間的に優れてるから』」
 品川は僕の腕を、がっしりと掴んだ。僕は、何故かそれをちゃんと感じることができた。その皮肉に籠められた彼女の温もりのようなものを。
 ため息をついた。僕がいつまでも自立できなかった理由がこれだ。結局どんなむかついていても、楽な方を選ぶ。僕は、数分後、品川とバスに揺られることになった。

<#11終わり、#12に続く


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