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【連載小説】転送少女症候群、もしくは黍島柘十武の長い回想 #01




 今、僕は三回前の引越の時まとめたまま開封してこなかった段ボール箱を物置で見つけた。
 何が入っているのだろう、と思い、その疑問のしっぽに絡まるように答が胸の奥から引きずり出された。
 痛いな、と呟いた。
 いや、確かにそんな気がしたのだが、その言葉の意味ほどの疼きは、頭にも胸にも、あるいは意識の中のどこにも無かった。
 ただ過ぎ去ったはずのものが、こうして目の前に、いかにも古ぼけて封印され固まっていることを、僕はただほんの少しの驚きとともに眺めることになった。
 開けてみようか、と思った。きっと今こうしてこれが再び目に触れたということには何か意味がある、そう思って、センチなのは自分に似合わない、と苦笑しながらガムテープを引き剥がした。

 その箱の正体を、もったいぶっても仕方無い。
 これは、かつて作家に(当時の僕は“モノカキ”と言っていたが)なりたかった僕の原稿だ。
 段ボールがはち切れそうなほどの原稿用紙が詰まっているのに、その中に完成した作品は無い。
 物書きになりたい、格好良く書きたい、あわよくば有名になりたい、という浅はかな、つたない、幼い想いだけが、そこに詰まっている。
 そこに、終わる物語は無いのだ。

――いや、嘘だ。
 僕は、躊躇いながら開けたその箱の一番上に、思ったほど古びていない原稿用紙の束を見つけた。
 それは、最後まで書いたのだ。書いて、でも、あまりに悲しくて、誰にも見せることができなかったのだ。
――いや、嘘だ。
 あまりに出来に納得いかなくて、誰かに見られるのが恥ずかしかったのだ。
――いや、まだ嘘をついている。
 恥ずかしかったのは本当だ。でも、理由が違う。
 本当を、言う。
 それが、あまりにも自分をさらけ出し過ぎていて、それを他人に見せることに竦んだのだ。
――いや、それも違う。
 さらけ出したいと望んだくせに、内臓までを引きずり出せる着想と技術と勇気が無かったことに、落胆したのだ。
 想像上の誰かの、つまらない、という言葉を僕は聞いた。へたくそ、と罵られた。内容の真偽を邪推する好奇の目が、まるで本当に自分に向けられているかのように身体が震えた。
 でも、今、思い返してみれば、それは過剰な自意識が産みだした、ただの妄想だった。

 うん、おそらく、本当に、つまらない。
 だから、僕はあの日、最後の一行を書いた日、“モノカキ”になるのを諦めたことを、今、後悔はしていない。
 過去を許すためには、どんなに些細な、他人にとっては何の意味の無いことでも、何かに満足することを重ねていかなければならないし、僕はたぶんそうできた、と思う。
 あれほど身を捩り、空を掻き、歯を軋ませながら欲しがったものは、何一つ手に入らなかったが、僕は、今の自分に大方満足している。

 ああ、何だか漠然としたことを曖昧に書いている。
 ある種の「逃げ」の癖はあの頃と変わらない。
 でも、僕はあの頃の僕を、僕の書いた文章を、今、あの頃の自分に代わって、晒そうと思う。

 それにどんな意味があるかなんて、考えない方が良い。
 僕も、読んでくれるひとも。
 自分の創作を、オナニーだと言い切った有名なひともいるけれど、これは、そんなものの中でも、とびきり低級な方の部類に入る。僕が言いたいのは、そのくらいのことだ。
 以下、見苦しい文章にて。乞うご容赦。



 まず、僕が彼にインタビューしようなどと思った理由を説明しなくてはならないのかもしれない。
 だが、それは非常に難しい。
 いや、僕の頭の中では非常に簡単な事なのだ。
 ただそれを万人が納得する形で説明するのは多分不可能だろうということだ。
 彼は有名人ではない。特別な職業についているわけでもない。万人に有用な情報を持っているのでもなければ、信じられない能力を持っているわけでもない。インタビューというものが彼になされ、それが文章になることの意義は限りなくゼロに近い。
 だが、僕には彼にインタビューをしなければならない理由がある。そしてそれは誰にも理解して貰えない。それだけのことだ。



 何もしない六年でした。
 彼は俯き、一目見て安物と分かるYシャツの袖のボタンを弄りながら、そう言った。その襟は黒く煤けてよれており、不健康に見えるくらい白い肌が、対照的に艶めかしく透き通っていた。
 新宿、某喫茶店。どこへ行っても人で溢れかえったこの新宿では、珍しくテーブルの間隔が広く置かれ、落ち着いた雰囲気の店内には、古いイラストのポスターが張られている。
 その三日前、昔から待ち合わせの場所を決められない性癖のある僕が、案の定困っていると、彼からこの店を指定してくれた。
 約束の時間より十分も早く来ていたという彼を二十分待たせた僕が、すみません、待たせて、と謝ると、彼は、「いえ、気になりません、退屈しませんから」と応えた。
 決して、営業的ではないにしろ、どこか創られたもののような笑顔が印象的だった。
 テーブルには氷も溶けかけて薄まったアイス珈琲のグラスだけがあった。
 僕からは表情が見えない。彼はボタン弄りに飽きたように手をテーブルの上のアイス珈琲にのばしたが、顔は相変わらず俯いたままだ。
 十数秒のことだったが、こういう時の沈黙はひどく長く感じるものだ。
 彼の眉がピクピクと動く。僕には、彼が笑っているのか、泣いているのか分からない。
 僕は何かを言おうとした。で、どんな風に? とか、そんなこと言ったって、何かはあったんじゃないですか、とか、そういう繋ぎの言葉が幾つも頭を巡ったが、どれも声にしてはいけないような気がした。
 そして更に数十秒後彼は顔を上げて、もう一度言った。
 何も、大学では、うん、なあんにもしない六年でしたね。
 その顔は、微笑に固まっていた。


 
 思い出すのは坂道ばかりだ。朝も昼も夜も坂を登った。
 下宿のアパートは丘陵地のきつい坂道の天辺にあり、朝は駅へと転がり落ち(彼はそう言う表現を使った)、大学も駅からは山をひとつ越えて歩かねばならなかった。
 彼は十八の春を、大学生として迎えていた。司法試験合格者を毎年多数輩出する私学である。
 弁護士にでもなろうとしてたの、という問いに彼は、いや、受かっちゃったんで、と頭を掻いた。

「本当はどこでもいいから文学部にいきたかったんですよ。漠然と作家になりたいなあ、とか考えてて。
 強くじゃなくて、本当に漠然と、ですけど。
 なんせ読書もそんなにしてなかったし、小説の真似事をしてたわけでもなかった、ただ、組織に入るのは嫌だった。だから作家で文学部。
 そもそも方向がネガティブなんですよ。でも、変な所で親の顔色窺うようなところがありましたから、文学部は受けられなかった。
 それも周囲の勧め、というか、まあ親の勧め通りにしていただけなんですけど、法学部ばっかり六つ受けて、それで、そこしか受からなかった。
 何で受かったのか分からないし、受かっても嬉しくなかった。
 じゃあ、はいるんじゃないよ、って話になるんですけど、父親が喜んじゃって、I種取ってキャリアになって、俺をいじめた奴を見返してくれって」

 彼の父親は警察官だ。いかりや長介が演じた、あの老刑事のように、職務においては有能であっても、組織人としては不器用なタイプの男なのだという。そのせいで、出世には疎く、常に苦い思いを噛み締めてきた。
 それは息子である彼も同じだ。今は分からないけれど、と前置きしながら彼は話す。

「まあ、官舎生活とか、子供の間にも親父の階級反映しますから。
 実際、俺の父さんはおまえの父さんより偉いんだから、お前も俺の言うこと聞けみたいなこと言われた事ありますし、リップサービスで警官継ごうかなあ、とか親に言ってたんですけど、本当は嫌でしたねえ、転勤も多いし、子供が可哀想だなあって」

 本当に嫌だったんだろうな、と僕は感じた。
 多分、子供、とは翻して彼自身のことなのだ。
 可哀想だった自分が居た。
 何年かおきに転勤を繰り返し、その度に馴染んだ環境や友達がリセットされる。
 彼にはずっと居場所がなかった。子供しか知らない路地裏の迷路も、側溝から拾ってきたエロ本を廻し読む悪ガキ仲間もなかった。
 ただ、彼は警官の息子としてのみ存在するよりなかった。
 そうして、その子供は理不尽に押し付けられる階級社会の厳しさや倫理観の中で、親にまでリップサービスしなければ居る場所のない人間に育ったのかもしれない、と僕には思えた。
 確かにそんな子供は可哀想なのかもしれない。

「でも、親がどうこうっていうのはともかく、結局入学したのは何より自分に恐怖があったからですよね。今思うと。
 だって何で受かったか分からないんだから。たまたま、としか思えないわけです。自信とかそういうものにもなりようがないんです。
 うん、漠然としか考えてない作家への道よりも、浪人したくないって怯えのほうが勝つのは明らかですよ、そんなの。
 大体僕らの世代って、確か戦後最大の受験者数とかで、来年もたまたまがあるかどうかなんてわからないし……いや、僕は本当に偶然で受かったと思ってたんです、世界史でたまたま前日読んでたところがばっちりでちゃったりとかしてたんですよ、そんなラッキーが来年もあるわけないって自分で分かってて。
 まあ、仕方ないから行くかみたいな……嫌な奴でしょう? だって行きたくて行きたくて努力しても落ちる人もいるわけだから」

 僕は、いや、まあ、仕方ないです……と言葉を濁す。
 ちなみに僕は、二浪して、さして行きたくもなく、学びたい訳でもない学部になんとか入った。行きたくて行きたくて努力して落ちた側に居た。

「きつかったのは夏ですね。
 北国から出てきて暑さだけでもきついのに、あの辺って、坂多いでしょ?
 それが、その年記録的な猛暑でねえ。
 何て言うか、そんな暑さって体験したことないわけじゃないですか。北国に居たわけですし。
 認識できないんですよ、最初のうち、その暑さっていうのを。
 暑いのが分からないんだ。
 なんでこんなに汗出るんだろう、おかしいなあ、俺、体おかしいのかなあ、って思ったりして。だって、動かないで寝てるだけなんですよ? それなのに、おねしょしちゃったみたいに床やら蒲団やらがびしょ濡れになるんですもん。
 で、ある時、ふっと、あ、これ暑いんだ。すごく暑いんだ、って気付いて。
 なんだったかなあ、確か、テレビで三十八度とか言っててそれで気付いたんですけどね……普通気づきますよねえ?
  そうだ……うん、鈍感なんです、僕」

 彼は力無く笑って、僕に虚ろな目を向けた。
 同意して欲しいという色を感じた。
 でも僕は否定すべきなんじゃないかと思った。えてして女の子の自虐が「そんなことないよ」と言われるのを期待して発せられるように、彼のそれもそうなのではないかと思ったのだ。だから僕の返した笑みも曖昧になった。
 曖昧さを誤魔化すかのように、どうしてサークルとか入らなかったの? と僕は訊いた。いえ、そういうのも全然、と彼は応えた。
「なんて言うのかな、勧誘とかあるじゃないですか? 
 全部、白々しく感じたんです。
 本当のことを言っているひとがひとりもいないように感じた。
 わかりあえるひとがそこにはひとりもいないように感じたんです。
 それは今思うと、若さ故の間違った思い込みというか……そうですね、自分は特別なんだ、と意識の果て、無意識の入り口あたりで思っていたんだとわかります。
 でも、今思うと皆がそう思ってる。特に大学受験なんて山を登り切ったその年頃の若者は。まあ、よくいる勘違いしたコドモだったってことです」

 いつのまにか彼は俯いていた。僕もテーブルに目を落とした。店内の、人の居る落ち着いた静けさが、僕たちを包んでいた。
 深く深く口でそんなものを吸い込んでから、でも、と彼は言った。
「僕にはゆうがいた。遊だけがいればいいと、思ってました」

――さあ、本題だ。
僕も静けさを肺に送り込んだ。

<#01終わり、#02に続く


 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2016年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版と大筋において変更はありません。

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