【連載小説】Words #04
この物語はフィクションです。
作中の人物・団体・学校・事件、及び各種名称、方言などあらゆるものは、創作であり、実在のものとは一切関係がありません。
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そして、何度か「転勤」を繰り返し、数年後、中学に上がって、そこで、最終学年にもなり、僕は、かほ里と出会った。ひとりで、音楽を聴く、艶めかしいカラダと。そして、都合良く思うわけだ。
もし、僕にピアノが弾けたなら、と。
オンガクをきっかけに、彼女と話ができたなら、と。
オンガクは、僕と彼女の世界をつなぐ、魔法なんじゃないか、と。
僕は、その頃放課後よく音楽室に行った。ヒマだったのだ。
中学に上がって、一度はバスケ部に入った。でも、もう、その時には、バスケットボールへの情熱は無かった。
いや、かっこつけるのはやめよう。
その部の新入生の中で、経験者は僕だけだった。だから、誰より上手くボールを扱えた。正直、新入生に課される筋トレやら、固定位置でのドリブルなど、馬鹿らしくて退屈だった。周りの下手くそな新入生の連中をココロの中で馬鹿にした。
だから、少しくらいさぼってもいいか、と思った。そんなことより、父がくれたおさがりのパソコンで遊ぶ方が楽しかった。そして、すぐにも一切部活に行かなくなった。
母が今度は塾通いを強制するようになったことを言い訳にした。母は自分の遺伝子と息子の頭の程度をどのくらいに見積もっていたのかしらないが、関東や関西の有名進学校の名前をその頃良く口にした。
今の僕は呆れて笑うしかないが、その頃の僕は重い石をその分だけ背負わされているような気分になった。
ただ、ひとつ便利だったのは、家の教育方針を持ち出せば、顧問をとりあえず納得させることはできることだった。
でも、それも万能ではなかった。顧問が認めても、当然のように納得しなかった数人の強面の先輩たちに、殴られ、蹴られして、部活への参加を強制された。
だが、僕が戻った頃には、周りのあの下手くそだった連中が、僕なんかよりはるかに上達して、宙を舞い、ボールにマジックをかけていた。
僕はその目の前で繰り広げられる異世界の出来事に、ただ、呆然とし、惨めな自分がヨチヨチとしか動けないことに、やる気をなくした。上級生たちは殊更僕をキビシク扱った。一番下手くそなやつにできることなど、パシリか、ストレス発散のために殴られることくらいだった。
しかし、エスカレートする下手くそいじめの中で、僕が怪我をしたことがオトナたちも巻き込んだちょっとした騒ぎになり、僕は、はじき出されるように、今度こそ本当に部活をやめることになった。
することがなくなった。
いや、勉強がある。だから、家には帰りたくなかった。
親には図書室で勉強すると言いながら、僕は、そんな場所には決して立ち寄らず、放課後を校内で、ぼんやり過ごしていた。
例えば、他で遊んで、それが母に知られた時のことを想えば、トモダチの誘いに乗るのも、はばかられた。断り続けているうちに誘われもしなくなった。本当に、ヒマだった。
そんな僕の、かほ里とのきっかけを求める気持ちが音楽室に行かせた。
本当は、向こうだっていつまでも帰らずに音楽を聴きながら教室にいるのだから、教室に居残って、なにげなく話しかけさえすればいいだけの話なのだが、でも、その勇気も無かった。意気地の無い少年が気安く語りかけるには、かほ里は、ちょっと怖すぎる女の子だった。
だから、合唱部が練習をしていないときには、誰もいない音楽室のピアノの前に座って、鍵盤に指をのせた。でも、その時すでに僕の指には何かを弾けるほどの技術もしなやかさもなかった。
憶えているメロディがなかった。
弾きたい曲がなかった。
何より、僕には、魂にあふれかえり、指に情熱を籠めさせるだけの、オンガクが宿ったことなど、一度もなかった。
そんなある日だった。音楽室でそんな風に固まっていると、一人の女子が何気なく入って来て、小さな悲鳴を上げた。
「ひっ……」
「……」
彼女は少しだけ竦んで、そして、そのことに恥じたように、慌てて微笑した。いつかの「女勇者」だった。僕の方も慌てていたから、声が出なかった。
あの時、スカートをひったくるようにして、僕を睨みつけた印象が残っていて、なんとなく嫌われているような気がしていたから。
でも、彼女は微笑したまま、僕に近づいて来た。
「何、してるの?」
「……何って、別に」
どんなに漫画みたいに女の子と軽妙なやりとりをすることに憧れて、それを妄想シミュレーションしたところで、結局それができるようになるには、経験が必要なのだ。多くの失敗を重ねる、という。
ご覧の通り、僕は、甘いやりとりの導入部分で失敗したけれど、彼女はそれを気にする風でも無く、僕の横に立った。
「ピアノ、弾くの?」
「……いや」
「そう……」
「……うん……あ!」
僕は、急に、弾けもしないピアノの前に座っていることが恥ずかしくなって、飛び跳ねるように椅子から立ち上がった。「女勇者」はおかしそうに笑った。
「そんなキョドらなくても」
「い、いや、その……なんていうか、なんとなくっていうか――」
「うん」
「む、昔、やらされてたんだ。だから、なんとなくっていうか」
「弾けるの?」
「……もう、弾けない。『エリーゼのために』の、最初のとこくらいしか」
「ふうん」
「……うん」
「なんだ」
「え?」
「弾けるなら良かったのに」
「え?」
「同じなら」
彼女は、僕がそれまで座っていたピアノ椅子にすっと腰を下ろし、優雅に鍵盤に指を乗せた。
そして、音楽が、鳴った。
誰でも知っていて、名前の方は半分くらいのひとが知らない、有名なピアノ曲。
音楽を愛した事の無い僕は当然知らない方の半分だったけれど。
でも、それはかつての僕の技術など遥かに凌駕して、豊かに、滑らかに、響き渡った。
僕は、少しそれに聴き惚れたけれど、すぐにもっと恥ずかしくなった。
「エリーゼのために」なんて曲名を出してしまったことに。
ほんの少しでも弾ける雰囲気を醸し出してかっこつけたかった自分が。
演奏の途中でも、僕は逃げ出したかった。でも、なんとなくそうするわけにはいかないような気がした。
僕に本当の意味での技術の高低はわからないけれど、でも、彼女の演奏には、そうして途中で退席していいようないいかげんさは無かった。
だから、僕はそこに身体を竦めているしかなかった。
彼女が弾き終わって、少し首を傾げて僕を見たときには、僕は消えてなくなってしまいたかった。
「どう?」
「女勇者」は訊いた。僕は、どう応えていいのかわからなかった。
自分の中に、その演奏をどうこう言える基準が無かった。感想が無かった。
ただ、僕はその演奏の最中、自分の羞恥心に身を竦めていただけなのだから。
それでも、「女勇者」は、僕を見詰めることをやめなかった。僕は、何かを言うしかなくなった。
「……うん……いいと……思う」
「そう? わたしね、ヘタなの」
「え?」
呆けた僕の顔を、おかしそうに見詰めてから、「女勇者」はさっぱりと立ち上がった。
「もう、遅いよ。帰る?」
「……え?」
「帰ろうか?」
「……あ」
「帰ろう」
「……うん」
彼女は、あっさりと背中を向け、入り口へと向かった。僕は、それでも、竦んだままだった。でも、彼女は立ち止まった。そして、扉を開け、僕に振り返った。
振り返ったまま、僕を見詰めていた。
十秒? 二十秒? でも、立ち止まったまま僕から一向に視線を動かさない彼女の意図を、半分疑いながら、奇妙な間の後にようやく読み取って、僕も慌ててピアノのそばを離れた。
帰路をずっと一緒に歩いたわけじゃない。校門を出て、すぐそこまでの短い間だった。僕たちは、ほんの少し、会話をした。
「ありがとう」
「……え?」
「あの時」
「?」
「廊下で」
「……あ」
「きみが、止めに入らなかったら、わたしも、何もできなかった」
「……いや、アレは……」
彼女が、盛大に勘違いしている、ということを、敢えて伝えない、という計算ではなく、僕はただ適切な応えを見つけられずに会話していた。そんな余裕は無かった。
「ちょっと、情けない感じだったけど」
「うん」
「でも、あいつら、ちょっとコワいもんね。わかるよ」
クスクスと「女勇者」は笑った。僕も笑うしかなかった。
「でも、情けなくても、そうしてすらしてくれなかったら、わたしも勇気がでなかった。きっと、あの子、裸にされてた」
「……うん」
「やりすぎ……ううん。ああなる前から、わたしも、ずっと、イヤだと、思ってた」
本当は、もっとやって欲しかった自分が、恥ずかしかった。だから、ただ頷いた。
「うん」
「だから、きっかけをくれて、ありがとう」
「いや」
じゃあ、わたし、こっちだから、と曲がり角で、「女勇者」は立ち止まった。僕は、それじゃあ、と、その居心地の悪さから逃れる様に背中を向けた。それを呼び止めるように、彼女は訊いた。
「あのさー」
「何?」
「実は、あの子のことが好きなの?」
「え?」
「光屋さん。光屋かほ里」
「あ、え、いや、そんな……」
「好きだから、たすけた?」
「ぜ、ぜ、全然、そんな……こと、ないし」
「そう」
「……うん」
「じゃあ、良かった」
「うん?」
「きみが、ただの勇気あるひとで」
あらゆる意味で「女勇者」が勘違いしていることを、今の僕ならそれとなく伝えてあげることもできるだろうけれど、その時の僕はいわれの無い称号の方にドギマギしてしまって、ただ間抜けに引きつった顔をしているしかなかった。
そして、別にそんな僕をもっと間抜けにしようという悪意ではないだろうけれど、彼女は、言った。
「もし良ければ、ネームプレート、もらえない?」
僕は、わけがわからなかった。うん、僕の創作の中に、目の前の出来事に適切な判断と反応をできない主人公がいるけれど、僕もそんな感じだった。
彼女は、僕に近寄り、鞄からカッターナイフを取り出すと、僕の制服のネームプレートを止める糸を切ろうとした。
動けなかった。ただ、されるままに、その手元を見ていた。
それまで、「女勇者」然として動じない風に見えていた彼女の、さっき迷い無く音楽を奏でた演奏家の指が、カッターナイフを持って、微かに、不器用に震えながら、僕から、プラスティックのネームプレートを切り取って行った。
そして、それを生徒手帳に収めると、そこから取り出した自分のネームプレートを、僕の制服の胸ポケットに差し込んで、笑ってみせた。
「あ、あの……」
「そういうことだから」
「あ、あの」
「そういうこと、だからね。いい?」
「……あ……はい」
彼女は「女勇者」だった。きっぱりと、背中を向け、去っていった。
彼女が曲がり角で消えてしまっても、僕はずっとそこに立ちすくんでいた。
そして、まるで感覚の無くなった指で、落としそうになりながら、彼女が胸に差し込んで行ったネームプレートを取り出した。
『真沢』
「女勇者」の名前だった。うん、改めて言うまでもない。僕だって彼女の名前くらい知っていた。
真沢佳織。
まったく、僕のことをよく知りもしないで、そういう思い切ったことができるなんて、さすが「女勇者」。今の僕は感心するけれど、同時にこう言わざるを得ない。
君は、勘違いしている。とても、勘違いしている。
僕は家に帰り、母にネームプレートが無いことを咎められ、転んで無くしたとか適当なことを言った。母は訝しげに僕の胸元と顔に交互に視線を向けた。
ネームプレート交換のことなど悟られてしまったら、どんな「禁止」が降りかかるかわからない。僕は徹底的に何も無かった雰囲気を演技することになった。
母は、僕を睨み付けた。
「どうでもいいけど」
「はい」
「ちゃんと勉強してるんでしょうね」
「してる」
「図書室で勉強とか言って、ほんとは遊んでるんじゃ無いでしょうね」
「それはない」
「言っとくけど、女子と付き合うなんて許さないからね」
「はは、あるわけない」
「そんなヒマあるんなら、塾の授業増やして貰った方が良いんだから」
「いや、大丈夫」
「いい?」
「はい」
「勉強して、イイ大学にいけば、そこらへんの女なんかより、ずっと素敵な女性と結婚できるの」
「はい」
「今、遊ばなくたって、良い仕事について、もっといいものが手に入る」
「……」
「言ったでしょ? イイ大学に行けば、総理大臣からホームレスまで好きなものになれるの」
「……」
「でも、勉強しなかったら、仕事がもらえないから、下の方からしか選べないのよ。ホームレスにしかなれないの」
「……」
「見てご覧なさい、お父さんを」
「……」
「高卒だから、出世が遅い」
「……」
「わかるわね?」
「……」
「勉強しなさい」
「……」
本当にステレオタイプにイヤな親だった。
どうせならもっともっとあからさまに破綻してくれていれば良かったのだ。そしたら、小説のネタくらいにはできて、「わたしも毒親に苦しんでます。感動しました」くらいの感想をもらえたのに。
でも、当時の僕はただ、母と顔を合わせていたくない事情に急かされて、話もそこそこに、部屋に逃げ込んだ。そして、爆発するみたいに、飛び跳ねた。
やった! やった!
その学校において、ネームプレートを交換するということは、つまり、そういうことだった。
そういうこと、とは、そういうことだ。
そのくらいわかるだろう?
<#04終わり、#05に続く>
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