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僕はハタチだったことがある #01【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2014年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)から最新話までをまとめたマガジンはこちら↓です。




 僕はハタチだったことがある。
 多くのひとがそうするように、僕もそこを通り過ぎた。
 何も特別なことじゃない。取り立てて変わったことが起きたわけでもない。
 当たり前の喜びや悲しみ、迷い、苦しみ、そんなものがあっただけだ。
 ただ、それらには必ず君の存在がついて回った。
 君がいたんだ。どうしようもなく。

 作家が冒頭の一文を迷うというのは良く聞くことだけれど、まさに僕もその問題に直面していた。数え切れない程キーボードを打ち、それと同じだけのバックスペースキーを叩いた。
 そうやって、もう何ヶ月にもなる。
 
 勿論僕は作家じゃないし、作家になりたいわけでもない。色んな形式に迷ったけれど、結局、僕は小説や物語が書きたいわけではないと分かった。年表や何かの資料を編纂しているのでもない。

 ただ、僕は手紙が書きたいんだ。

 君と出会い、一緒に過ごしたあの頃、大事な人々が多くいたのに、決して素直ではいられなかった頃、僕が何を知り、何に迷い、何を思ったのか、それを、君に伝えたい。

 まだ、僕の胸を刺し続けるトゲがないわけじゃない。
 でも、多くのささやかな秘密の有効期限は切れた。
 そして、僕はそれらを許せるようになった。それがトシを取ったせいなのかどうかは分からない。
 ただ、今、僕はそれを話したくて仕方が無い。
 そして、その相手は君しか考えられない。

 あの一年の終わり、結局君を選ばなかった僕が、こうして君に語りかけようとしている。
 勝手だと言ってくれていい。このまま読まずに捨ててくれてもいい。
 あるいは、「マヌケ」と罵るのかも知れない。
 まあ、好きにしてくれ。

 でも、僕は君に手紙を書く。
 そして、それは、もしかしたら、結果的に僕たちのおとぎ話になってしまうのかも知れない。





 君に初めて出会ったのは(と僕が思っていたのは)、奉明計算機情報スクール・デザイン芸術夜間三ヶ月コースの、コンピューターが並ぶ教室だった。

 年明け早々だった。
 僕は昼のコースの学生の一人だったけれど、成績と真面目さを買われて、榛名はるな先生のアシスタントとしてその場にいた。
 とは言っても、その日がデビューだった。
 先生が説明する時、それに合わせてプロジェクタで映すモニタ用のマシン操作が僕の主な役割だった。
 講義で説明するまでショートカットは使わないで、わけがわからなくなっちゃう人もいるからね、と榛名先生に言われていた。
 だけど、ある程度ショートカットになれた頃というのは、メニューバーやツールボックスからの操作方法を忘れがちで、僕は慌てて勉強し直さなければならなかった。

 教室の最後列にいた僕からは、白髪混じりの頭も見えた。質問されたら、分かる範囲で答えても良いという指示もあった。
 ひどく緊張していた。それまで、僕は大人から教わることはあっても、大人に教えることなんて経験がなかったからだ。
 そして、講師用の白衣が面映ゆかったのも憶えている。
 とにかく僕はいつもより心拍数の多い状態でそこにいたわけだ。

 君がタカハルを従えて教室に入って来たのは、講義が始まって十分も過ぎようとしていた時だ。コートからロングスカート、ブーツにタートルネックや鞄、その長い髪の毛先まで黒ずくめの君は、すみませんの一言も発さなかった。
 その時の君は知らなかったかも知れないが、若者の就職を見据えた昼のコースなら、大目玉を喰らうところだ。
 でも、大人相手のクラスでは榛名先生は怒ることもなく君たちの名前を訊き、「早田鈴はやたりん」と「近藤隆治こんどうたかはる」という名が受講者リストにあるのを確認すると、最後列の空いたマシンの席につくよう促した。
 君はポケットから取り出したミントタブレットのケース風の箱から何かを口に入れてから、僕から一つあいた隣に座り、その更に隣の席にタカハルがついた。
 君は僕をちらりと見、それから何か一言二言、タカハルと顔を近づけて耳打ちし合った。
 榛名先生が、オリエンテーションとも言うべき初回授業にお定まりの、教室やマシンについての注意事項を説明していた。
 そして君は腰を浮かすと僕の隣の席に手を付き、身体を伸ばすようにして僕の耳に顔を寄せると小声でこう訊いた。
「あれ、わざと?」
 吐息が熱かった。ミントの匂いがした。まるで息を耳孔に吹き込まれたみたいに感じた。
 僕はそれはそれは驚いて、君を見た。
 とろけて落ちそうな黒目が僕を映していた。
 君は右の口角を上げた。顔にそれ以外の動きはさせないと言わんばかりの表情だった。
 確かに君の顔は表情なんか要らないくらい整っていたけれど、僕はそれには気付かずに、ただ慌てていた。
 何を訊かんとしているのか、僕には直ちにわからなかった。君はもう少し、僕に顔を寄せた。
「だから、あの先生の声、地声なのかって訊いてるのよ」
 再び訊かれて、僕はようやく君の言わんとすることがわかった。
 十ヶ月近く教わっている間に慣れてしまって忘れていたが、榛名先生の声は、相当に甲高く、どこまでも通る少女のヒステリーみたいな声だった。
 僕は、まるで鳩が歩いている時みたいに首を縦に振った。
 君は鼻でふんと言って、「なら、仕方無いわね」と呟き、自分の席で居住まいを正した。

 ドキドキしていた。でもそれまでの緊張とは違っていた。僕は講義に関係ないとは言え、「分かる範囲の質問」に初めて答えた。
 妙な達成感があった。大丈夫、大丈夫だった、と何度も心の中で繰り返した。
 僕はその時イケると思ったんだ。馬鹿馬鹿しい、つまらないことだったけれど、僕がその後、講師らしく振る舞えていたとするなら、他でもない君のあの質問が自信をくれたからと言っていいと思う。
 まったく何が人を救うのかなんてわからないものだ。
 初めての質問は君からだった。そのことを自分では意識してたわけじゃない。でも君はその時もう僕にとって特別だったのかも知れない。
 時々吸い寄せられるように君を見た。その度に目が合った。そして君はタカハルと何事かを耳打ちし合った。
 君とタカハルは恋人同士に見えた。一緒の講義を受けて、誰はばかることなく心を通わせることができる……。うらやましく思った。
 ――これは当時なら言えなかった僕のささやかな秘密の一つだけれども。

 その日、榛名先生はブラシツールやテキストツールなんかのごく限られた機能を皆に試させた。一通りプロジェクタでの説明が済むと、僕も机の間を歩いて、生徒たちの様子を見て回った。
 君は途中から、何か手も動かさず固まっているようだった。タカハルが心配そうな顔をして、小声で君に何か言っていた。
 すると君は、ケースを取り出し、直接口へ何かを放り込んだ。
 表情は相変わらずだったが、とてもうんざりしているような動作に僕には見えた。君が「タブレット」を噛み砕くがりっという音が聞こえてきそうな気がした。
 だけど、その時の僕は取り立てて疑問に思うこともなく他の生徒の方に注意を向けた。

 生徒の中には安田茜やすだあかねや君の嫌いな「師匠」外永志のぶそとながしのぶもいた。
 師匠は僕を呼び止めて、どこか西の方を思わせるイントネーションの、柔らかい囁きのような声で僕に訊いた。
「先生、線が、がたがたするんだけど、これでいいのかしら」
 画面には可愛らしい、素人目にも上手な兎のイラストが黒い線で描かれてあった。線は乱れていたけれど、僕はそのかわいらしさに感心した。僕にはそんな風に―しかもちょちょいと―描ける力はなかったから、何となく気圧されたような気分にもなった。嫉妬もあったかも知れない。
 悟られないように、僕はモニタを覗き込んだ。しかし、何ががたがたしているのか、分からなかった。
「マウスで描くと上手く線が引けないこともありますが……」と僕は言った。
「そうじゃないの、なんていうか、線の端がぎざぎざっていうか、がたがたっていうか」と師匠は否定した。
「どこがですか?」と僕はモニタに更に顔を近づけた。
 ほら、と師匠はモニタに赤いマニキュアの爪を乗せた細く長い指を立て、そしてそのまま隣の席のモニタを指し示した。
「ほら、こっちの人のはがたがたってしてないでしょう?」
 言われてもその時の僕はその違いがわからなかった。
 普通の状態だったら、例えば昼のクラスでクラスメートに訊かれたなら、僕はすぐにその違いも理由もわかっただろう。
 だけど、君の質問で自信を得たとは言え、やっぱり普通の状態でなかった僕は、軽く混乱してしまって、何も見えていなかったようなものだった。
 わからないと思われるのも沽券に関わると感じ、沈黙を作るのも怖かった。とりあえず僕はでまかせでこう言った。
「コンピュータですから。調子悪いこともありえます。ソフトを再起動してみましょうか」
 はあ、そういうものかしら、と師匠は頬に手を遣り、面倒くさいわねえ、と独り言の様に呟いた。
 僕はファイルを保存し、ソフトを再起動させた。しかし再起動させても、師匠は変わってないと言い、焦りの度を深めた僕は、操作をするために身体を寄せてあれこれとキーボードを叩いた挙げ句、環境設定ファイルを削除したり、マシンをも再起動させたりしたが、ファイルを開くと、現象は変わらなかった(と師匠は言った)。
 変ですねえ、と師匠は笑っていたが、師匠から漂う嗅いだことの無い香水の類のかすかな香りに僕は浸食されているみたいに感じていた。
 そこに他の生徒から解放された榛名先生が来た。
「どうしました?」
 僕はその甲高い声を頼もしく思った事はそれまで無かった。僕は、思わず、先生、と声を漏らして、場所を明け渡した。
 榛名先生は、師匠の話を聞き画面を見るとすぐに、ああ、モノクロ二階調になってますね、と言った。そして、マウスを使って、メニューバーからカラーモードをグレースケールに経由させた上で、RGBへと変更した。
「昼の学生が使ったままになってたんでしょう。昼の学生は色々やりますから。でも、共用ですし、初期状態とは違うこともあります」
 マウスを動かし、その線を見た師匠は、ああ、これです、と嬉しそうな声をあげた。
「気付きづらいんですよ、慣れてると特に」と榛名先生は微笑んで言った。
「色も変えられる。ああ、ありがとう」と師匠はきつく見えない程度のほどよいつり目を嬉しそうに見開いて榛名先生に言った。
 そして、殊更の笑顔で、こっちの先生もありがとう、と僕の方にも言った。
 「お役に立てませんで……」と僕は曖昧に応えて、後ずさりながら、離れようとした。
 背を向けた時、後ろから、人は慣れるとよく見なくなるのよね、とウィスパーボイスがした。
 内臓を舐めるような声だった。
 振り向くと、師匠は笑いながら、二、三度小さく頷いてみせた。僕は、かあっと自分の顔が赤くなるのがわかった。それを見られるのが嫌で、慌ててまた背を向けた。
 すると、キーボードに突っ伏している君が目に入った。榛名先生が近づいて、どうしました、と訊くと、タカハルが、「ごめんなさい、彼女、身体の調子が良くなくて」と代わりに応えた。ああ、そうですか、無理しないでください、と榛名先生は言った。
 まったく夜のコースの生徒は待遇が良い、と不満に思ったのはずっと後だ。僕はそれどころじゃなかった。失敗した、失敗した、とそればかりが頭を占拠して渦巻いていた。
 だからその後の授業中自分が何をしていたのかなんて実は殆ど憶えていない。

 時間が来て、君はタカハルに抱きかかえられるようにして帰って行った。「間違えたの、間違えたの」と君は呂律の怪しい口調で言っていたような気がする。
 どう穏便に捉えようとしても、酩酊しているようにしか見えなかった。
 僕は、お大事に、も言えなかった。棒立ちになっていると、師匠が、「それじゃ先生、また」と僕の肩に触れていった。僕はごめんなさいと謝りたい衝動に駆られた。でも、ぐっと堪え、頭だけを下げて見送った。
 僕は一刻も早く部屋に帰って、布団に潜り込みたい気分だったけれど、生徒の帰った教室で榛名先生が僕を呼び止めた。
「よくやった。次も頼む」と榛名先生は言った。
 僕は榛名先生の言っている意味がわからなかった。
「失敗しました」と僕は言った。
「何が?」と榛名先生は訊いた。
「あの、二階調ってことに気付けなかったです」
 ああ、と榛名先生は教卓でテキストと書類をトントンとそろえ、脇に抱えて僕に近寄ってきた。僕は言った。
「あんな簡単なこと気付けないなんて、それに知ったかぶりして、マシンの再起動までして……恥ずかしいです」
 俯いた僕の目には自分の靴しか映ってなかった。どん、と背中に衝撃を感じた。顔を上げて振り返ると、榛名先生が真剣な目で僕を見ていた。
「相馬聡太、今まで気付かなかったけど、君の当たり判定は厳しいな」
「は? ゲームですか?」
「違うよ、心の話だ」
「いや、自分ではわかりませんが」
 僕を見据え、現に今、痛がってるじゃないか、と言った榛名先生は、何か我が子を想うような表情をしていた。
 ああ、何か「良いこと」を言いたいんだな、と僕にはわかった。
 この人は普段のクラスでもいつも「良いこと」を言おうとする。
 しかし、その声のせいで、途中で学生にちゃかされて、その試みは失敗するのが常だった。僕はそんなことしたことなかったが、笑いをとるなら、声色を真似て、言ったことを繰り返すだけでいい。
 だけど、そこには他の人間はいなかった。僕は黙って聞くことにした。榛名先生は言った。
「あたしはな、相馬、スカジーのことをずっとスクシーだと思っていた」
「はあ」
「それで、講義でもずっとスクシー、スクシーと言っていた」
「はあ」
「百回は言ったぞ。たくさんの生徒に、昼のクラスも、夜のクラスも、友達にも」
「はあ」
「それで、あたしのここに勤務した一年目の陰のあだ名はスクシーだった」
「はあ」
「スカジーだと知った時の気持ちときたら……」
 そう言うと榛名先生は口をひん曲げて、強く床を踏みつけた。一回踏みつけると勢いがついたみたいに、榛名先生は何度か右脚で地団駄を踏み、最後に特別に強く床を蹴りつけた。
 そして、息を整えると、僕の肩にそっと手を置いた。
「だから、お前も、百回失敗しろ」
「はあ?」
「そしたら、同情してやる」
 そう言い残すと、榛名先生は満足げに去って行った。
 きっと何か良いことを言ったつもりなのだろうと思った。どこかのマンガで見たような言葉だとも思った。
 とにかく、その時の僕には訳がわからなかった。ただ、何かはぐらかされたみたいな気がして少し呆然とした。
 けれど、すぐに自分の失敗を思い出して、身を捩りながら、僕は帰った。
 正直、君のことを思い返す余裕は無かった。勿論、「真田りんどう」のことも。
 でも、もし、人生に段落のようなものがあるなら、確かにあの時、改行はなされていたんだ。その時の僕は何も気付いてなかった。



 それから夜のコースのアシスタントとして残りの三ヶ月どうやって無難にやり過ごすかばかりを考えていた。
 それはうまくいったように思う。師匠は何故か僕ばかりを選んで質問をしてきたけれど、あれ以上の醜態をさらすこともなかったんじゃないだろうか。

 それというのも田沢さんという中年の男の生徒が明るくて分け隔て無く振る舞ったのが良かった。
 安田茜あたりの若い子を笑わせて仲良くなると、そこを中心に積極的に質問し合い、教え合う雰囲気が広がった。それでクラスは全体的に皆が仲良く、和やかに運ぶことができた。
 こんなに皆が仲良いことは滅多にないよ、とは榛名先生の弁だ。
 僕の余計な緊張が抜けたのもすぐだった。
 でも、そんな輪の中に君とタカハルはあまり積極的に加わろうとはしていなかった。耳打ちしあう君たちは二人だけの世界を作っているようだった。君は時々ここに心あらずと言った感じでもあった。
 さすがに「酩酊」しているように見えることはもう無かったけれど。

 そして、皆が自分で作ったロゴやイラストで飾ったウェブページを滞りなく完成させて、夜間コースは終わった。
 最後に皆で打ち上げをしましょうと田沢さんが音頭を取った。
 榛名先生や僕も誘われた。
 榛名先生は、あたしは申し訳無いですが残った仕事があるので、と断った。僕もそうしようと思った。けれど、先生は、君は行っておいで、と背中を押した。
 榛名先生の顔を窺ったが、他意はなさそうだった。
 田沢さんや安田茜が嬉しそうに、行こう行こう、と言ってくれた。
 僕は深く考えなかった。まさか、その夜のことで、僕が一年間苦しむことになろうなんて分かるはずもなかったんだ。


 飲み会は楽しいものだった。殆どの生徒が出席していた。師匠もいた。君はいたが、タカハルがいなかった。
 君はいつのまにか僕の隣に座っていた。君たちは分けがたいペアに見えていたから、少し違和感があった。会の途中、僕は訊いた。
「そういえば、カレシさんは?」
 君は僕に顔を向けずに、右の口角を上げた。
「カレシ?」
「ええ、いつも一緒にいる……近藤さん、でしたっけ?」
 君はあきれたように、はっ、と息を吐き出し、首を小さく振った。
「アレはカレシじゃないわ」
「ああ、それは失礼しました」
 それは意外だったけれど、僕は、君の態度から何だか拒絶されたと思い、話をするのをすぐにあきらめた。
 歓声の上がる方を見ると、田沢さんが自身の女性経験を上手いことオブラートに包みながら披露して場を盛り上げていた。
 自分の胸襟を適度に開いて見せ、相手にも口を出させ、周りの女性のガードを少しずつ下げては、きわどいところをかすめ、相手の胸元へいつのまにか入り込むような話しぶりに、ああいう話術は、どうしたら身につくのだろう、と僕は感心したものだった。
 大人になれば自然とそうなるのだろうか、とぼんやり考えていた。だとしても、自分の中にそこに連なっていく要素がまるで見つけられなかった。
 やはり、きっと天性の性格なんだろうな、と隣の硬い表情の君を見つつ、彼を羨ましく思った。
 僕たちは沈黙していた。
 僕はなんとなく気まずくて、目の前のコーラを一口飲み、グラスをテーブルに置いた。すると、君はすっとそのグラスの縁に指を伸ばした。
「お酒じゃないのね」と君は言った。
 僕はそれが気まずい感じを振り払うきっかけになれば良いと思い、上ずるような声で応えた。
「ええ、まあ」
「どうして?」
「はあ、まだ未成年ですし」
「あたしもよ」
 君の前には、ライムサワーがあった。僕はそれを横目で見ながら、はあ、と返事した。
「大学生とか、皆未成年で飲むじゃない。あたしも十六の時には外で飲んでたわ」
「僕も、友達とだったら、飲みます。でも一応今は立場的にも、スクールに迷惑かけられないし……」
 そう、と呟いた君の指は、僕のグラスの縁をねっとりとなぞり続けていた。
 その仕草は何だか自分がそうされているような錯覚を僕に引き起こした。視線が離せなかった。
 どのくらい経ったのか、わからない。君は訊いた。
「初恋、憶えてる?」
 僕は我に返った。粘りついたみたいにグラスから離れない視線を何とか君に向けて、は? と問い返した。あまりにも唐突な質問に、僕は聞き間違えたのかと思ったからだ。
「初恋、憶えてるのか、訊いたのよ」
 君は僕を見ていなかった。
 後々慣れることになるけれど、君の意図をその表情から読み取ることが出来なかった。
 僕は戸惑いながらも、初恋ですか、と応じた。
 心に思い浮かぶ顔があった。僕は、簡単にその名を口にするわけに行かなかった。
 いや、心の中で言葉にすることすら、してはいけなかった。
「さあ、憶えてないですね」と僕は言った。
 ふうん、と君はグラスから指を離し、顎へと持っていった。そして顎を引くと、独り言を呟くみたいに言った。
「“憶えてない”っておかしい」
「そうですか?」
「恋をしたことがあるなら、最初に好きになった人の事を忘れたりしない」
「そうですかね」
「そうよ、憶えてないなら、それは誰かを好きになったことがないということよ。それなら、“まだ誰かを好きになったことがない”と言えば良い。それで問題無いはずよ。でも、あなたは、“憶えてない”と言った。おかしい」
 君は僕の目を見た。
 君の瞳はやはり何か特徴的だった。
 濡れているでも、輝いているでもない。
 上手く言えないが、大きな黒目に心を不穏にする深みがある。
 その深みが融けて零れそうな気がする。
 きっと男の多くは衝動的に手を伸ばさずにいられないはずだ。僕だって、この女は自分に気があるのじゃないか、と思いかけて、その考えを振り払うのに苦労した。そして、僕は応えた。
「言葉のあやです。僕はそういうのに疎いので、そう、もしかしたら、恋はしたことないかも知れません」
 君は視線を戻し、ライムサワーのグラスを手に取ると、残念ね、と言った。ええ、まあ、と僕も相づちを打った。それっきり、僕たちは何も喋らなかった。

 そのうち、田沢さんが僕と君を座の中心に引っ張って行こうとした。でも、君はその席から動こうとしなかった。僕だけが話の輪に入った。調子を合わせて笑いながら、時折、君を見た。君はケースから「タブレット」を口に入れたりしていた。
 タカハルが傍にいない君は、どこまでも独りだったが、寂しそうだとは思えなかった。

 二次会はカラオケだった。君はいなかった。
 僕はその最中何人かと携帯の番号とメールアドレスを交換した。それ以外は取り立てて何も無く、打ち上げはお開きになった。
 僕はなんとなくしんみりとした気分で街を歩いた。帰りたくないように思った。
 でも、僕は繁華街に詳しくはなかった。意味も無く閉店したデパートの区画をぐるりと歩き、地下鉄の駅へと降りた。

 ホームで僕はぼんやり線路を見ていた。いつもそんなことを考えるわけではないけれど、ここに飛び込むのはどんな気持ちなんだろう、と想像した。
 もし、身体がバラバラになるとして、どれくらいの痛みが、いつまで続くのだろうとか、そういったことを。
 だから、背中を誰かが触った時、僕は少なからず驚いた。
 ふらりと線路の暗がりに吸い込まれそうに感じた。
 反射的に脚を踏ん張り、振り返ると、君がいた。また、僕は驚いた。
「そんなに驚くことないじゃない」と君は言った。
 僕はあわあわと言葉を探し、何とか、早田さん、と返した。
「あれ? 先にお帰りになられたんじゃ……」
「ちょっと用事があったから」
 それにカラオケって苦手なのよ、と君は呟いた。僕は、そうですか、と応えたが、まだ心臓は暴れていた。そこにチュインチュインという音が響き、地下鉄がホームへ滑り込んできた。
 扉が開くと、君は、ほら、と僕の背中を押した。僕たちは空いていた席に自然と二人で並んで座ることになった。
 君は、立っている人がいるわけでもないのに、腰を下ろしたところから、僕に身体を付けるように席を詰めた。
 その伝わってくる体温は僕に女の身体を想像させた。
「自由に生きろ。やれるときはやっておけ」そんな相馬ゆうきの言葉が何故か思い出された。
 早とちりするのにしてもまだ早すぎるような気がした。
 でも、君の柔らかさのせいで僕の心は沸き立った。
 沸き立ったと同時に、僕は疚しくなった。
 自分から言葉を発することができなかった。君は何も意識していないかのように、僕に呼びかけた。
「先生」
「はい」
「先生って言っても、昼のコースの学生なんだもんね」
「ええ、まあ、だからアシスタントなんですが……」
「じゃあ、いつまでも先生って呼ぶのも、アレね」
「はあ」
「相馬さん」
「はい」
「相馬君、がいいかしら」
「……お好きにどうぞ」
「じゃあ、聡太」
 僕は思わず君の顔を見た。君も僕に顔を向けた。君は右の口角を上げた。
「冗談よ、一応。相馬君」
 僕は、ははは、とぎこちなく笑った。君はどうでもよさそうに正面の暗闇の流れる窓に視線を戻した。そして、また君はケースを取り出し、「タブレット」を口に入れた。
「お好きなんですか?」
「何が?」
「それ、ミントか何かでしょう?」
 君は、ああ、これ、とケースを振ってみせた。
「別に好きでも無いんだけど、秘密なの」
 口臭が気になる人なんだな、と僕は単純に思い、なら深く訊くのも良くないだろうと、それ以上問うのを止めた。
 それっきり、二、三駅、僕たちは押し黙った。その沈黙を破ったのは、また君だった。
「あたしの部屋」
「はい」
「次の駅なんだけど」
「はい」
「お茶でも?」
「はい?」
「お酒でもいいけど。友達となら、飲むんでしょう?」
「はあ」
 駅への到着を告げるアナウンスが車内に流れた。君は立ち上がって、僕を見下ろした。
「遠回し過ぎるかしら?」
 君は僕を見詰めた。地下鉄のスピードが落ちて君は少しふらついた。僕は慌てて手を伸ばした。君はその手をつかみ取ると、僕をぐいと引き上げた。顔が近づいた。
 不思議な深みが僕を捉えていた。
 そして、首を僕の肩に伸ばすと、「降りましょうよ」と耳元で君は囁いた。扉が開いた。「やれるときはやっておけ」とまたゆうきの言葉が聞こえた気がした。足下から重力が消えた。
 そして、君が手を引くまま、降りる予定の無かったホームに僕は足を下ろした。



 君は「部屋」と言ったが、それは立派なマンションの一室で、ゆうきと暮らしていた頃を含めても、僕はそんなに部屋のある家に住んだことがなかった。
 僕は「ご家族は?」と訊いた。君は「家族なんていないわ。それとも、もう“ご挨拶”でもするつもりだったかしら?」と面白くも無さそうに応えた。
 シンプルに纏められた家具も、きっと金が掛かっていたんだろうが、僕には良く分からなかった。
 棚には主に現代の作家のハードカバーが数冊並んでいた。僕の目はその題名をすぐに捉えた。
 『花を散らす』
 僕はそれに指を掛けようとした。
「読んだことある?」
 コートを脱いで戻って来た君の声で、僕は指を引いた。
「いや、まだないですけど……面白い?」
「さあ? ま、あたしにとっては資料みたいなものよ」
 君の返答の意味が僕には良く分からなかった。
 少し気分がそがれたような気がした。
 僕はこれから起こることへの期待へフォーカスしなおそうと君を見詰めた。
 僕はその時はまだ、君の表情から何も読み取ることはできなかった。
 君は高そうな酒のボトルから、グラスに半分ほど注いで、僕に手渡した。僕はグラスと君とを交互に見てから、覚悟を決めて、それを飲み干した。そして、食道から鼻へと広がった熱を噛みしめ、やたらふわふわとした気持ちで何かを話さなければならないと言葉を探した。
「お金持ちなんですね、こんな広いマンション」と僕は言った。
「貧乏人の血と肉と怨嗟で出来ているの」と君は言った。
「は?」
「父が金貸しなのよ。そしてあたしはわがままなお嬢様なの。スケールは随分小さいけれど」
 はあ、と僕は応えた。
 君はダイニングから大きな画面のテレビの前に椅子を運んで来て僕に座るよう言った。僕は大して疑問もなくそれに腰を下ろした。
 君は話を続けた。
「父はね、昔は警官だったの。でもちょっとしたトラブルがあって、辞めざるを得なくなった。でもね、今はどうか知らないけれど、かつてそういう組織は辞めた人をただ放り出したりはしなかったの。ちゃんと面倒見たのよ。そのコネと某国のお金持ちの資金援助で、父は風俗業をやり始めたの。それはそれは儲かったらしいわよ。でも、ソレが何なのかあたしがわかる年齢になってきたのをきっかけに、悲しい女達が馬鹿な男達から搾り取った金を元手に金貸しに転業したというわけ。あのヒトはあたしに色々と負い目があると思いこんでいるもんだから、ねだられれば、こんなマンションまで買い与える、そういうこと」
 はあ、と相づちを打つより他に無い話だった。何だか君が吐きだした黒いものが、僕の喉を通っていったような気がした。
 このまま流れに任せて大丈夫なのだろうか? と思わないでも無かった。でも僕も馬鹿な男の一人だった。期待の方が大きかった。
 君は静かに近寄ると、僕の脚を押し広げて、その間に跪いた。
「気持ち良くしてあげるから、あたしのこと信じてね」と君は言った。
 はい、と頷くのが僕の精一杯だった。股の間から僕を女の子が見上げている。これから起こることの想像が爆発して、身体のあちこちが痺れていた。君は僕の膝を付け根へと向けて繰り返し撫でた。
「こういうの初めて?」と君は訊いた。
「ええ」と応えた声が掠れていた。
「それはよかった。じゃあ、ズボン下ろしてくれる?」
 僕はごくりと自分の喉が鳴るのを聞いた。空けたグラスを床に置いて、僕はベルトに手をやった。
 その手が震えて、中々外せなかった。
 僕は何故だか、ごめん、ごめんなさい、と口走っていた。
 何とかベルトを外し、ズボンを座ったまま不器用に腿まで下ろすと、当然下着も下ろすのよ、と君は言った。
 僕は少し戸惑っていた。君は「恥ずかしい?」と訊いた。僕は頷いた。君は、そうねえ、と指を顎に遣ると、それなら、と少し考えるように、視線を外した。
「あたしの裸、見たい?」と君は言った。
 僕は声にならない声を吐きながら、頷いた。
「相馬君がパンツを下ろしたら、あたしも、一枚脱ぐ。どう?」
 僕はまた頷いた。トランクスに手をかけ、えいや、とその部分を露出した。もう、固くなっていた。君はそれを見、少し顔をかしげて、「少し、皮が余ってるのね」と呟いた。
 そして、右の口角を上げると、君はタートルネックの薄手のセーターに手を掛けた。しかし、胸まで裾を上げると君の動きはぴたりと止まった。
「あのね」君は言った「あたし、こう見えて、男の人が怖いの。いきなり乱暴になる人もいるって言うでしょう? そういうの怖いの。だから約束してくれる? 乱暴にしないって」
 僕に頷く以外のどんな返事が出来たというのだろう。もちろん僕は犬みたいに頷いた。
 君はそれを見ると立ち上がり、どこかからひもを持って来て、僕の腕を取った。そして、両手首を椅子の背もたれ越しに合わせるとひもを掛けようとした。僕はちょっと驚いて、腕を引こうとした。でも、君はそれを抑えて、「約束したでしょう? 乱暴しないって。こうして置けば、あたし、安心できるの」と言った。
 僕は何処かで見たSMプレイ的なものを思い浮かべた。
 そして慌てて「痛いのは、僕だっていやだ」と口にした。
 君は手首に改めてひもを掛けながら、「だから、気持ち良くしてあげるって言ったじゃない」と小声で言った。
「信じて」とも。
 その言葉の真偽なんて、すでにチンチンに沸騰した頭で判断なんかできなかった。
 来たるべき快感の誘惑に勝てず、僕はそこで抵抗を諦めた。
 君にとっては簡単な男だったに違いない。君は僕の両手首を背もたれ越しの後ろ手に縛り終えると、僕の前に立った。
「ありがとう」と君は言った。
 どういたしまして、と僕は言ったつもりだったが、君に聞こえたかどうかは分からない。君は約束通りセーターを脱いで、床へ落とした。
「ね? 約束、守ったでしょう?」
 グラビアやアダルトビデオで見慣れている筈なのに、実際に見る女の下着姿は思った以上に扇情的だった。
 君の胸元には幾筋かの紅いかき傷があった。
 それが肌の白さを余計に強調しているようで、僕は息を呑んだ。
 下着まで黒だったな、と思うのは後のことだ。
 それより何よりブラに持ち上げられた、白い膨らみの、その先端を見たいという衝動が、僕を更に熱く、固くさせた。
「ねえ、また大きくなったんじゃない?」
 君は僕のその部分を見詰めていた。そして、近づいて僕の肩に手を置くと「あたしの秘密知りたい?」と訊いた。もう息が苦しくなるほど、僕は興奮していた。「秘密」なんて言葉はいやらしい意味にしか聞こえ無かった。僕は矢鱈目ったら頭を振った。
「それじゃあ」と君は言った「目隠しもしていい?」
 僕は君の裸を見られなくなるのが惜しいと思った。
 少し考える素振りをすると、君は、「そうしたら、きっと最後まで気持ち良くしてあげるから。約束だから」と唇を耳元に寄せた。僕がわかったと応えると、君は耳たぶに軽く歯を当ててから、どこかから取り出した鉢巻きのような長い布をしっかりと僕の目にかかるように巻いた。
 きついよ、と僕は言った。
 我慢してね、ちゃんとするからね、と君は優しげな声で応えた。
 君は僕の後ろに回ったようだった。そしてまた肩に手を置いた。
 君の意図はともかく、僕はその手がより強い刺激を与えてくれることだけを渇望していた。だけどその手はそこから動かなかった。やがて、あたしね、と君の声が響いた。

「あたしね、昔、色んな事がどうでもよくなったことがあったの。親のことも、学校も、将来も、何もかも。
 服装や言葉遣いなんかを派手にするタイプじゃなかったけど、おとなしく、静かに、ぐれたのよ。
 学校に行かないで、街をふらついてた。
 ある時ね、何気なくパチンコ屋ってのに、入ってみたの。訳も分からず奥まった所まで入って行って、スロット台に座ってサンドにお金突っ込んでね。まあ、案の定あっという間にコインが無くなった。
 千円くらい痛くも痒くも無かったし、リールも見えなくて、大して面白いとも思わなかったから、そのまま帰ろうとしたの。
 そしたら、隣に座ってた男がね、オネエチャン、それ入ってるよ、って、あたしを呼び止めた。男は自分のコインをあたしの台に入れると雑作も無く七をそろえてみせた。な? ってにっこり笑ってね。
 あたし、優しくされたと思った。それから、あたし、その男に会うためだけにその店に通うようになった。向こうはいたりいなかったり。
 でも会えた時は、特に打ちもせず、その男の隣に座って、ただ男が打っているのを見てた。
 一緒にご飯とか食べるようになって、その内、あたしは男の行くところなら、どこでもついて回るようになった。
 雀荘も、競馬場も、スナックやら居酒屋やら、パチンコ屋の新装オープンの徹夜待ちだって付き合うようになった。
 自分から、自分で望んで。
 あたしは恋人になったつもりだった。
 向こうもそう思ってると信じていた。
 恋愛なんだ、って。
 だから、あたしは誘った。抱いて欲しいと懇願した。その夜、すごくすごく幸せだった。相手が何度もしたがるのも、愛ゆえだと思った。色んなことをさせられるのも、全然苦じゃないし、嬉しいくらいだった。でも……」

 君はそこまで話すと、僕の頭を抱えるようにして、殊更強く自分の胸を押しつけた。柔らかかった。暖かかった。匂いが、上手く表現できないけれど、甘かった。
 君が結局何を伝えたいのか、僕には分からなかった。ただ、暗闇の中で、僕は焦らされて、どうしようもなくなっていた。でも、君はそんなことお構いなしに話し続けた。

「でも、その初めての次の朝、目が覚めると男はいなかった。
 そして、枕元に二万円が置いてあった。
 あたし、その意味がわからなかった。次に会った時に返そうと思った。
 だけど、男はもうどこにもいなかった。行きそうなところぐるぐるまわって、張り込みみたいなことまでした。共通の知り合いに訊いても、元々その場その場でのつきあいでしか無かったから、皆首を傾げるだけだった。
 男はもう、忽然と消えたとしかいいようが無かったの。
 そして、あたしは残された二万円の意味を考えた。考えまいとしても、考えてしまった。テレビでは援助交際なんて言葉がちらほら出て来た頃だった。
 そう、あの男はあたしを愛してなどいなかった。
 あたしは、あたしの恋は、二万円で買われる程度のものでしかなかった。
 悲しくて、寂しくて、感情があたしを振り回した。
 因果だと思えば楽になれそうな気がしたから、あんたが風俗なんかやってたからよ、って理由も言わず父親に八つ当たりもした。
 あの人はおろおろしてた。あたしに余計甘くするくらいしか思いつかないみたいだった。
 でも、そんな姿を見ていると、すぐに虚しくなった。全部自分の責任なんだもの。
 ココロが、嫌だった。
 あたしを振り回す感情というものをあたしは憎んだ。
 消えて無くなれ、と願い続けた。神様、仏様って祈った。死んだ母親に、こんな時くらい救いなさいよ、って念じてみたりもした。
 馬鹿馬鹿しいわね。
 でも、そしたらある朝突然、何の前触れも無く楽になっていたの。前の日までの嵐が嘘みたいに去っていた。
 それに嵐は色んなものを吹き飛ばしていったみたいだった。
 平坦だった。テレビを見ても、音楽を聴いても、父親を見ても、あの男の事を思い出しても、何も感じなくなった。
 これでいい、いや、これがいい、とその時は思ったわ。
 だけど、そう思えていたのはつかの間だった。
 変調が身体に現れたの。
 どこかが、カユイのよ。
 確かにカユイのに、どこがカユイか分からないの。
 あたしは全身を掻きむしった。血が滲むくらいに。手でも、脚でも、顔でも。でも爪がソコに届かないのよ。
 強く、弱く、常にどこか分からない、本当に自分の身体の中にあるのかさえも怪しい場所がカユイ。
 眠れないし、起きられない。傷だらけで憔悴仕切ったあたしの異常に気付いた父親が色んな病院に連れ回った。
 薬も色々飲んだ。でも治らなかった。
 その身体の変調が平坦なココロの代償かどうかは分からないわ。でも、結局、最後は精神科に辿り着いた。そこで出してもらった安定剤を飲むと、少しはましになったような気がした。
 掻きむしらずに我慢できるくらいにはね。睡眠導入剤を使えば何とか眠れるようにもなった。
 このカユミが在る限り、あたしはもう薬なしには生きていられないと言っていいわ。
 だから、あたしはケースを三つ持ち歩いているの。トランキライザー。睡眠導入剤。そして本当のミント。ミント程度のものだからか、見ると頂戴って言う人が多いから……」

 教室で君が酩酊したように見えたのは、薬のせいだったとその時僕は了解した。
 僕に偏見が無かったとは言えない。精神科に通い、安定剤を常用する女に今、手を縛られ、目隠しをされている。下半身は露出したままだ。
 劣情が消え失せたわけでは無かったけれど、砂時計の砂が落ちるように、興奮が零れ始めたのがわかった。
「とにかくあたしは、元に戻りたい。ずっと昔に。それが、秘密の一部」
 君の気配が僕の前方に移った。あら、少し元気が無くなったわ、と声がした。
 僕は、これを外して自由にしてください、と言った。
 声が震えるのを抑えられなかった。
 怖くなった? と君は訊いた。
 僕は何と応えていいのかわからなかった。
 大丈夫、約束は守るから、と君はまた僕の腿に手を掛けた。
 ふっと、その部分に風が掛かった。きっと君は口をすぼめて、息を吹き掛けたんだろう。欲しかった部分に、ようやく刺激があった。渺々たる刺激だったけれど、一度手を離れかけた「その先」を捨てるのを惜しいと思わせるには十分なものだった。
 あ、と声が出た。
 カワイイ、と君は言った。
 そして、ふっ、ふっと二、三度、同じように息を掛けた。何も見えないながら、君の顔がぼくのその部分に近づいていることは確かで、もしあと数センチ君が近づいて舌を伸ばしたなら、とイメージせずにはいられなくなった。
 僕は今もあの時のことを時々思い出す。
 そして、普段いくら自制していても、いざとなったら僕は欲情には決して勝てない人間だと自分に言い聞かせる。そのことが幾つかの大事な決断に影響を与えてきたのは確かだ。
 勿論、ずっと後の話だけれど。
「あなたの秘密を教えて」と君は言った。
「特に話す事はないよ。それより――」と僕は応えた。
「ご家族は?」
「……両親は、もういない」
 そう、と君は言った。特に感慨もなさそうな声だった。
 また、ふっと息が吹きかけられた。
 もっとだ、もっと強い快感が必要だ、僕はそう思った。
 早く、終わりに達したかった。切実だった。
 で? と君は問うた。
「叔母が、僕を育ててくれた」
 君は返事の代わりに僕を吹いた。じれったさに、声が漏れた。こんなことで感じるなんて敏感ね、と君は呟いた。
「今は、家を出て、独り暮らしで……ねえ、僕には秘密なんてないよ」
「あるはずよ」君は確信に満ちた声でそう言った「思い出して。あなたが言いたくない事を。例えば、両親が何故いないのか、とか。思い出せたら、そうねえ、今度は触ってあげる」
 僕の頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。
 その瞬間に限れば、僕が世界で一番欲しいものは、君の指になっていた。
 言いたくないこと。
 あの顔が、やはり、反射的に脳裏に浮かんだ。
 「僕は……」と声が出かかった。
 でも、僕はどうしてもその時、それを言うわけにはいかなかった。僕は出かかった言葉を呑み込んだ。
「『僕は』、何?」
「僕の家系は」僕は言い直した「というより、僕の家の男は早死になんだ」
「ふうん」と君は応えた。
「そろいもそろって、皆、三十前に、死んでる」
「遺伝の病気か何か?」
「違う。ひいじいさんという人は、台風の時、川を見に行って流されたらしい。じいさんは雪の日に凍った路面で滑って車道に飛び出して、車にひかれた。父さんも似たようなもんだ。武士を笑って無礼討ちにあったとか、戦争に行ったら戦う前に毒蛇に噛まれたとか、先祖代々そんな感じなんだ」
「マヌケね。本当なら立派な遺伝病だわ」
「本当だよ。とにかく相馬の家の男は早死にってことになってる。だから、僕はいつも怯えてる。死が怖い、本当に怖い」
 ふん、と君が鼻で言うのが聞こえた。
「でも、皆、ちゃんと子供は作ったのね。マヌケのサイアーラインってとこかしら」
「僕の秘密なんて、そのくらいだ。ねえ、頼むから――」
「わかったわ」
 僕の陰毛が二、三本軽く引っ張られ、すぐに恥骨に優しく指が置かれて、固くなった部分の周辺をねっとりとなぞっていった。
 僕は飲み会の時のあのグラスを思い出した。
 近づいては離れ、離れては近づくその動きは決してその切ない部分を掠めることをしなかった。
 もどかしいことこの上無かった。
 君はそんな風に僕を煽りながら、きっとあなたもマヌケの血筋を遺すと思うわ、と言った。遺させて欲しい、君とでも良い、と僕は心の中で叫んだ。
 そして、君は最後の提案を僕に投げかけた。
「ねえ、あたし、している最中に声を聞かれるの、嫌なのよ。恥ずかしいの。お願いだから、ヘッドホンしていてくれる?」
 僕がどう応えたかなんて、もう書く必要も無い。君は「従順で助かるわ」と僕を褒め、「今度こそ最後までしてあげるからね」と言って僕の耳にヘッドホンを掛けた。
 やがて、手が、ぼくのその部分をそっと掴んだ。
 耳にはちょっと昔のJポップのバラードが聞こえていた。
 僕はその声を良く知っていたが、曲名をとっさに思い出せなかった。
 そのくらい行き詰まっていた。ゆっくりと手が動いていた。
 僕はそこまで焦らされすぎて、一刻も早く、終わりに達したかった。
 ただ強い快感が欲しかった。
 どうしても、この訳の分からない、身体の中を暴れ回る切ない電流から自由になりたかった。
 もっと、と声が出た。
 もしかしたら、思ったより大きな声が出たのかもしれなかった。手がその部分を持ち替えたのがわかった。
 指の腹が僕が独りでする時いつも使う一番良いところを捉えた。
 ああ、と僕は泣きそうになった。
 動きが速くなった。
 君が好きだ、胸が痛いとピアノが鳴っていた。
 僕の孤独を君は知らないのだ、と。
 先端を、恐らく爪が、なぞってはじいた。もう堪えられなかった。血肉を絞るような射精が僕を震わせた。

 そして、君が、僕の耳に掛かったヘッドホンを外し、カーペットが汚れたわ、と言いながら目隠しを取った時、僕は容易には信じられないものを見る。
 タカハルがいた。
 少し苦い表情をしながら、視線を逸らし、タカハルは頭を掻いていた。君は言った。
「さて、あなたをイカせたのは、どっちだと思う?」
 
 それが、三月の末、十九歳最後のイベントになった。

<#1終わり、#2へ続く>



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