【連載小説】Words #20
この物語はフィクションです。
作中の人物・団体・学校・事件、及び各種名称、方言などあらゆるものは、創作であり、実在のものとは一切関係がありません。
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私立の合格発表は終わっていたが、公立の試験は、まだ終わっていなかった。塾の教室は、まだ緊張に満ちていた。
その街で最も偏差値の高い公立の東髙が大方の生徒の第一志望である。優秀な私立高が増えた今と違って、当時のその地方では私立と言えば、倫生など数少ない例外を除けば、成績の良い生徒にとってただの滑り止めにしか過ぎなかったのであって、第一志望に受かってしまった僕を除いたほとんど皆が、コトバ少なく硬い面持ちで、授業の終わった教室を去って行った。
でも、経堂は微笑っていた。
「大丈夫か?」僕は訊いた。
経堂は、少し肩を竦めてみせた。
「まあ、第一志望にはいけないけどさ」
「うん」
「東だって悪くないし、なんていうか、追い込まれて、逆に覚悟が決まったっていうかさ」
「……ああ」
「やるしかないから、やるしかないっていうか」
「……内申とか、問題ないんだろ?」
「ああ、幸い、それは問題無い。予想としては、受けさえすれば受かる」
「うん、そうか。僕とは違うもんな」
「お前はアブナイのか?」
「ん。まえも言ったけど、五教科以外がちょっと悪くてさ。ギリギリっていうか、かなり試験の点数は必要かも。公立を第二志望にするなら、ひとつ下げて英鳴にしとけって、最後まで担任に言われてたくらいで。母親が許してくれなかったんだけど。ここらあたりのひとたちには東に受かったってことの方が自慢しやすいからだと思うんだけどさ」
「ああ……おばさんな……まあ、でもお前は志望校受かってるからな」
「……」
「……」
「……ごめんな」
気まずく視線を下げた僕の頭を経堂が軽く殴る。
「なんでだよ。誇れよ」
「……ああ」
「風邪をひいたのは、自分のせいで、おまえのせいではまったくないだろ?」
「……うん」
「誇れよ。遠慮なんていらない」
「うん」
「俺は東を目指す」
「うん」
「二度も同じ失敗はしない。それに有り得ないだろ、二度も試験をうけられないなんて」
「うん、そうだな」
「今度は体調管理も気をつける」
「うん。頑張れ」
「ああ」
経堂は僕に向かって軽く拳を差し出す。僕もそれに拳を合わせる。ニッコリ笑った経堂は、気合いを入れるように立ち上がり、そして、軽く手を振って、教室を出て行った。
倫生の試験前の僕なら、トモダチと少しでも長く一緒にいたくて、それを追いかけて一緒に帰っただろうけれど、そんな会話をしつつも、やはり経堂と顔を合わせているのが気まずくて、わざとその場に残った。
誰もいない塾の教室。静けさが、僕の心に少し重く降りかかる。
気まずいのは倫生の件ばかりではない。品川の、あの態度。何度考えても、アレ、はまずい。どんなに客観的判断が自分がモテているなどという自惚れを否定したところで、それ以外にはどうにも説明できないことが、あの高級車の中で起きた。
何度、考えても!
倫生の問題どころではない難易度の課題が、ずっと心の中にある。それが、ずっと、品川からのもっとはっきりとした意図の説明を求め続けている。
だから、そうして誰もいなくなった教室に残っているのは、品川が戻ってきてくれるのではないか、とどこかで期待しているからでもあった。
でも、いくら待っても、彼女は戻ってこなかった。
当たり前だ。彼女だってこれから東を受ける。そんな余裕などあろう筈もない。
そうだ! 試験前だ。きっと、そういう緊張の中で、何かを間違えてしまっただけなのだ。あるいは、ちょっと僕をからかって、憂さ晴らしでもしたのかも知れない。そうだ。そうに違いない。
僕は、自分が改めて出したその結論に、少し物足りないものを感じながら、苦笑いして、ようやく立ち上がった。
そして、そのまま誰にも会わずに帰れたなら、僕のあの頃の心理は、もう少々シンプルだったかもしれないのに、階段を降りると、いつもの黒塗りの高級車を背景にして、品川が不満げに僕を眺めていた。
僕の方に訊きたい質問を口にする勇気はなかったけれど、品川は、今日は送らねーから、とその場での話を求めた。
「あのさ」
「……何?」
「東、受かれ」
「は?」
「絶対に受かれ」
「……でも、いかないよ。もう倫生に入学金やらなにやら入れちゃったし」
「そんなもん、捨てたっていいだろ」
「うちは、おまえんちとは違うの。わかってるだろ、そのくらい」
「世の中にはさ、カネにはかえられないものがある」
「何言いたいのかわかんないよ。こないだから、何? 一体」
品川は眉間に皺を寄せ、苛立たしげに頭を乱暴に振って、そして、無理矢理作ったような穏やかな声で言った。
「わたしはさ」
「うん」
「後悔させたくないんだ」
「は?」
「いつか、コレは、悔やんでも悔やみきれないキズになる」
「だからさ、わかりやすく言ってよ、お前こないだから変――」
「だから!」
「……」
「東の受験が終わったら、言う。あんたも受かったら」
「……」
「だから、受かれ」
「……」
「お願い」
そう言った品川の瞳が、すがるように潤んでいた。
あの品川が!
僕は、それに気付いて、コトバを失った。品川は、そんな自分に決まり悪くなったみたいに、おもむろに背中を向けた。控えていた運転手が車のドアを開け、そして品川はそこに滑り込んだ。とても静かで、やわらかな心地良いドアの音。運転手は僕に一礼して、運転席に乗り込み、車を発進させた。
あの横顔。どんなに金を掛けて着飾っても、隠せない「少女」が、そこにいて、幻みたいに夜の道に消えて行った。
そして、残された僕の方は、また「答」から遠ざかった。
品川に絶対に受かるように厳命されたからと言って、第一志望に受かってしまった自分を、しゃんとさせることなどできなかった。勉強しようと机に向かっても一向に手につかず、結局長い休憩の間に言い訳程度の勉強をしているみたいなことになった。
だからと言って「歌詞」を書こうとも思わなかった。コトバを書いていても、以前のような不思議な昂揚は訪れなかったし、そもそもの目的は失われたままだった。
つまり、かほ里に読んでもらうという目的が。いくら恥知らずな僕でも、あの遣り取りのあとに、無邪気にまとわりつくバカイヌではいたくなかった。いられなかった。
だが、僕は、本性において、どこかだらしないのだ。
教室にいれば、知らずにかほ里を追ってしまう視線を制御できなかった。視線の先にある孤高に近づきたい衝動を、ごまかせなかった。
だから、その日、僕はいつまでも教室に残った。でも、いつまでたっても、かほ里は現れなかった。
当然と言えば、当然。さすがのかほ里でも、受験前に悠長にオンガクなど聴いてられないだろうと考えた。
だといいな、と思った。自分を避けるためではないというコトを祈った。
でも、それも壁時計の秒針を目で追っている間に、どんどん不安が降り積もっていって、いつしか、僕はかほ里に嫌われた、という結論におちついた。
それが根拠のない思い込みだったとして、どちらにせよ、何かが失われてしまったことに間違いはなさそうだった。
僕は随分と落胆しながら立ち上がった。そして、まるでそれを待っていたかのように、教室の扉が開いた。
はっと沸き立つ心。期待通りに、そこに立つ少女。
変わらずの、枯れた笑顔。
僕は、やあ、と言った。震えて、掠れて、喉に引っかかるような声で。かほ里は鼻で笑って、それに応えた。僕はもう一度言った。
「やあ」
「……」
「もう、残らないのかと思った」
「……」
「待ってたんだ」
「……」
「あ、そうだ、光屋はどこ受けるの? 訊いたことなかったよね? 受験だろ? 光屋も受けるんだろ?」
「……」
枯れたように笑いながら、でも、彼女は何もコトバでは応えずに自分の席まで行き、そして、潰れた鞄を肩にかけて、そのまま教室を去ろうとした。
僕は、その手応えのなさに哀しくなった。だから、声は頼り無く、消え入りそうに彼女を呼んだ。
「光屋」
「……」
「光屋」
「……」
「光屋」
「……」
かほ里は、ひとつため息をつき、そして、僕をまっすぐと眺めた。
「……」
「わたしな」
「……うん」
「今日は、ちぃと機嫌わるいんやけ」
「……」
「そこらへん歩いてるイヌでも蹴り上げたいくらいなんやけ」
「……」
「だから、話かけてくんな」
「……うん」
「……」
「な、なら、今日じゃなきゃいい?」
一瞬その横顔に、何かの強ばりが雑じった。でも、それはすぐにいつものあの笑顔になった。
「……しらん」
そして、そのまま、彼女は本当に教室を去っていった。
僕は教室に残された。でも、嬉しかった。
僕は、そのかほ里の態度を、受容だと、解釈してしまったから。
そして、数日後、ロングホームルーム前の休み時間、僕はその噂話を、例の上位グループの連中のあけすけな、むしろ周りに聴かせることを目的としているかのような会話によって知る。
「えーマジ?」
「いや、ホント、聞いたんだって、光屋、ウリやってんだって!」
「バイシュンフかよ!」
「職員室に呼ばれて、そんで、学校来てないんだってさ!」
「マジダサ」
かほ里に聴かされた曲に、噂ってどうやってここまで届くんだろうと歌った歌詞があったけれど、こうやって届くのだ。
確かに、かほ里はその前日から欠席していた。そのせいで、周りでその会話を漏れ聞いている者たちには、それが十分に信憑性を持つ話に響いた。
だけど僕はおおいに憤慨した。噂を止める勇気には相変わらず欠けていたけれど。
あのかほ里がそんなことするものか!
確かに、オトナと付き合って、それが決して清らかなものではなかったとしても、決してバイシュンなんかじゃない。そう信じたい。
だけどそれを確信もできない。そんな風に軽く疑心暗鬼になりながら席で固まっていると、チャイムが鳴り、担任教師が教壇に立った。彼は、どこか緊張感のある、だけど柔らかな笑顔を作って、こう言った。
「えー、受験間近で、皆が大変なときだとは思うんだけど、ちょっと大事な話がある」
そこで教室を見渡した教師に、一見みんな無反応だったけれど、多くがきっとかほ里の話だと思ったに違いない。僕もそう思った。だけど違った。
「実はですね、昨日の放課後、このクラスのある生徒のお母さんが、僕を訪ねてきました。その生徒さんの貯金が、不自然に減っているそうなんですね」
僕は、ほっとした。とりあえず、それがかほ里のことではないとわかったから。
「でも、その子が、何か買い物をした様子もないそうなんです。で、お母さんがその子に問いただしても、何も答えてくれない。その子自身がゲームセンターとか飲食で使ったなら、まあ、無駄づかいは良くないけど、仕方無いんだそうです。だけど、もしかしたら、イジメなんじゃないか、だから、言えないんじゃないか、とお母さんは不安になったそうです」
教師はそこで、すっと、息をつき、教卓に両手をついて、身を乗り出した。
「受験の後に改めて調査したいと言ったんですが、そのお母さんは、ものすごく心配なさっていて、今すぐに、というご要望なので、みんなには悪いと思ったんだけど、今日、いま、みんなに質問します」
ふと、視線に気付く。顔を上げる。その感触の先に、遠藤。彼女は慌てて、担任へと視線を戻す。なんとなくイヤな予感がした。
「ここ最近、このクラスに、イジメはありませんか?」
肩を竦めたり、首をふったり、顔を見合わせたり、興味なさそうにそっぽむいたり、クラスのそれぞれが心当たりがないことを微かにアピールする。
いや、確かに、ハダカに剥いたりする「遊び」が流行ったことはあったし、それが原因で派閥間の冷戦が継続中ではあったけれど、ある特定の個人をクラス全体でいたぶり続けるタイプの「イジメ」は無かったように当時の僕も認識していた
「例えば、お金やものを要求したりとか。暴力とか」
やはり、皆が自分は知らないと微かにアピールし続ける。僕もそうした。
「なら、こんなのはどうかな? ちょっと貯金がたまって大盤振る舞いをしたくなったその子に皆でごちそうになったりとか。僕の以前の担任したクラスにそういうことがあったんだけど」
イヤな予感が、担任が言葉を積むたびに、どこかリアリティを帯びてくる。
僕は遠藤を見る。遠藤は俯いている。
「イジメでもなんでもなくて、ちょっとお金を借りた、なんてことはなかったかな?」
静まったままの教室。僕は、そこにいたって、それが自分のことであると直感した。突然、鼓動が暴れる。どうすればいい?
「借りたものなら、返さなくちゃならない」
どうすればいい? 返すあてなんかないけど?
「とにかく、お母さんは、そのお金がいったいどこに行ってしまったのか、その子に何かおかしなことが起きてないかが、どうしても気になるって言うんだ」
クラスのひとりが手を上げる。
「だから、そいつに直接聞けばいいじゃないですか。僕たちを巻き込まずに。僕ら、もうすぐ試験ですよ?」
「うん、そうだね。悪いとは思ってる。でも、その子が決して言わないそうなんだ。だからこそ、お母さんとしては、尚更心配になるんだね」
質問した生徒が、舌打ちをして、「誰だよー! 自首しろよ!」と吐き捨てる。
その口調の鋭さと苛立ちに僕はかえって縮こまる。その場で言い出せるきっかけを僕は失ってしまった。
担任教師はまたクラスを見渡して、うん、と何かに納得したように頷いた。
「わかった。とりあえず、今日はここまでにしよう。皆の前で言いだしづらい事情もあるかもしれない。心当たりのあるひとは、あとで職員室にでもきて打ち明けて欲しい。僕は、秘密を守る。約束する」
そう言った担任は、後は何事もなかったかのように、卒業に向けての諸行事について説明を始めた。
僕は、じんわりと汗の滲む掌を握り絞めて、その後を固まり続けることになった。
時折、遠藤を見た。遠藤は、こちらを決して見なかった。だから、僕の胸は騒ぎ続けた。
僕はその日の放課後、注意深く遠藤の後を追った。そして、遠藤が帰り道、人気の無い道で一人になったのを見計らって声を掛けた。
遠藤は、僕を見て、少し、表情を強ばらせた。隣に並んで歩き出したものの、僕は、その硬さに、声が出しづらくなった。そんな僕に遠藤が言った。
「おととい」
「……」
「わたし、普段、親に通帳とかカードとか預けてたんだけど」
「……」
「っていうか、無駄づかいしないように管理されてるっていうか」
「……」
「それをこっそり持ち出してたんだ」
「……」
「おととい、それがバレて」
「……」
「通帳記帳したら十万減ってて」
「……え? 僕、そんなには――」
「だから、これからも貸すかもしれないから、あらかじめおろしておいたっていうか」
「……」
「そしたら、大騒ぎになっちゃって」
「……」
「殴られて」
「……」
「問い詰められて」
「……」
「それで昨日、親が学校に怒鳴り込んで」
「……」
「で、それで、さっきの話」
「……うん」
遠藤が、す、と立ち止まった。僕も、そうした。向かい合うと、遠藤の顔に、うっすらと痣が残っていて、何か哀しげな瞳が潤んで零れそうになっていた。
僕に、コトバはない。してやれそうなことがないから。だからおざなりに訊く。
「どうすれば……いい?」
遠藤が、微苦笑する。
「どうって、何もできないでしょ?」
「……」
「返せないでしょうよ」
「……うん、ごめん」
「……返すつもりだってなかったでしょ」
「……いや……それは、いつか」
「いつか、っていつ?」
遠藤が、一歩僕に踏み込む。僕は、適当な相づちでは誤魔化しようのないその真剣さに怯んで後じさった。
「あの様子だったら、あんたの名前出したら、うちの親、あんたのうちにも怒鳴り込むよ」
「え?」
反射的に血の気がひく。
それはまずい。他の家庭ならどうかしらないが、うちのあの母親にそんなことをされたら、何が起きるかわからない。何かが起きる。何かはわからないが、とんでもなくイヤなことが。
遠藤が、そんな僕の情けなく怯えた顔を見て、鼻で笑う。
「なんか情けないよね」
「……」
「ひどいやつ」
「……」
「最低」
「……」
「なんで佳織、こんなやつがよかったんだろう」
「……」
「ま、だからフッたんだね」
「……」
「ワラウ」
「……」
「ワラウ」
「……」
「ワラウ」
そんなコトバを繰り返しながら、ちっとも笑ってなどいない遠藤が僕のコートの端を、そっと掴んだ。
僕の脳はもうイヤな予感と自己保身と逃避願望でとっくにオーバーフローしていた。
だから、棒立ちのまま、ワラワレテいるしかなかった。遠藤が、一度、ニヤリと笑って、そして、すっと顔を上げた。
「わたしと付き合って」
「……」
言い訳するつもりは、ない。でも、僕は、オーバーフローしていた。なんの判断力も無かった。心神喪失状態だった。遠藤はもう一度繰り返した。
「わたしと付き合って」
「……」
「そしたら、黙っててあげる」
「……」
「お金も、待ってあげる」
「……」
「もっと貸してあげる」
「……」
「うちの親がどんなにわたしを殴っても」
「……」
「問い詰めても」
「……」
「何を訊かれても、黙り通してあげる」
「……」
「カレシなら」
「……」
「カレシなら、守ってあげる」
「……」
「だから、わたしと」
繰り返す、オーバーフローしていた。
そして、その瞬間の僕の目に、選択肢はそれしかうつらなかった。
自分の気持ちなど、どうでも良かった。本当は誰が好きかなんて、この問題に比べたら、些細なことだった。
僕が自分の創作してきたものの中で、何を歌ってきたかなんて。
「キスして」
僕の気持ちなんて、踏みにじられ慣れていた。だから自分自身でそうすることに、躊躇もなかった。
感覚が遠かった。ただ感覚が遠くて、その初めての唇に、味も、柔らかさも感じなかった。目の前の少女が、何故か涙を流した理由を、僕は理解できなかった。
理解できないままに、僕は貴重な少年時代を、また汚した。
<#20終わり、#21に続く>
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