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僕はハタチだったことがある #05【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2014年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)から最新話までをまとめたマガジンはこちら↓です。


 


 月が変わって、一学期も中盤に入った。榛名先生は、今学期でソフトウェアの講義は終わりで、二学期からは卒業制作のための実習になります、と言った。
 それは、就職の準備のための時間を作るということでもあった。
 何を目指すにせよ、動きださなければならない時が早くも来ていた。
 それまで習ったどのソフトウェアを使っても良いから、一つ作品を作りなさい、まったく自由に作れることなんてこの先滅多に無いのだから、後悔しないように、とも先生は言った。
 喜ぶ学生もいた。だけど、僕は頭が痛かった。
 習ったことを着実に習得していくことにはそれなりの自信があったが、創造性を発揮しろと言われるととたんに何をしていいのだかわからなくなった。
 僕は榛名先生に訊いた。
「僕、何を作ればいいですかね?」
 榛名先生は目を丸くした。
「珍しいヤツだな」
「何がですか?」
「普通、こういうコースの学生は、『自由』と言われると喜ぶもんだ」
「はあ」
 まあ、相馬は就職も決まってるようなもんだしな、と先生は言い、肩をぽんぽんと叩いて、去って行った。答は無かった。結果的に、余計気が重くなった。



 君は、あの日の宣言通り、桂木と付き合っていた。
 少なくともクラスの連中はそう思っていた。
 桂木は信じられないほど穏やかに君に接していたし、君もそれを受け入れていた。二人は昼休みには連れだって食事に出掛けた。教室で君が脅してくることもなかった。概ね平穏だった。
 なのに、何かが引っ掛かってしまう自分が苛立たしかった。僕を好きだと言った、僕には嘘をついてないと言った、君が平然と違う男に寄り添っている。
 好きじゃなくても付き合えると君に言ったのは僕だった。厄介ごとから解放されたのだから、僕は諸手を挙げて喜ぶべきだった。なのに、違和感としか言いようのないものが僕の心の中にあった。
 男は昔の女をいつまでも自分のものだと思っていると言うけれど、もしかしたら、それに近い感情を僕は抱いていたのかも知れない。
 僕だけが君と秘密を共有しているという優越感と、それが僕たちだけのものじゃなくなってしまうかも知れないという焦りや嫉妬と。
 君が計算していたとするなら、僕はしっかりその「罠」にかかっていて、何かと君を目で追うことが多くなった。君はそんなこと気にもしていない風だった。
 僕は自分の割り切れない思いに戸惑っていた。貴句との進展もあれ以来なかった。貴句からの誘いも無かったし、あったとしても僕は「そういうこと」へ対する自信をすっかり失っていて、チャレンジしようという気すら起きなかった。
 僕は精神的に貴句を遠ざけようとしていた。一時期は放課後も貴句と一緒にいることが多かったけれど、何かと言い訳をして一人で帰るようになった。



 僕は、ある放課後、駅前通を一人で歩いていた。大型家電店の書籍コーナーで卒業制作のヒントになりそうな参考書を見つけようと思っていた。
 赤信号で止まっていると、君が僕の隣に立った。
 僕は声を掛けなかった。君も何も言わなかった。
 僕たちは無言で店まで歩いた。
 書棚の前に立った時、僕は自分の中で渦巻いている言葉をほぐすように訊いた。
「桂木のこと好きなのかよ?」
 君は、整然と並ぶ本の背表紙に指を滑らせながら、でも僕を見ずに応えた。
「どう思う?」
 僕には、それが僕の望んでいる意味に聞こえた。あなたは? と君は言った。
「あなたは? 山田さんが好き?」
 僕は君を見た。横顔が、動くことは無かった。僕は最も正しい答を探した。
 そして、口を開こうとした時、あら、先生? と若い女の声がそれを止めた。振り向くと、知った顔がいた。安田茜だった。
「ああ、やっぱり先生だ。あ、早田さんも」
 僕は、安田さん、と応じながら、一体自分が君に何を言おうとしていたのか、に少し驚いていた。
 安田茜が現れて、言葉が止まったことに、安堵と欲求不満が同時にわき起こった。
 安田茜は、なんで嫌そうな顔するんですかあ、と軽く僕の肩を叩いた。いやいや、お久しぶりです、と僕は言った。君も軽く頭を下げた。
 安田茜は僕と君の顔を見比べて、あれあれえ? と言った。
「もしかして、二人は付き合っちゃってるんですかあ?」
「いや、まさか」
 僕は君が昼のコースに編入したことを説明した。今は、たまたま一緒になったのだと言い訳を重ねて。安田茜は、なあんだ、それならそれで面白かったのに、と笑った。僕は、安田さんは? と訊いた。
「ちょっと約束があるんですけど、ちょっと早く出て来ちゃったんで。あれ以来、ちゃんと勉強しようと思ってパソコンもソフトも買ったんで、参考書は何がいいかな、なんて」
 どれが良いと思います? と安田茜は訊いた。僕は自分が持っている数冊を指し示しながら、でも中身を見て自分に合ったのが良いですよ、とアドバイスした。
 安田茜は中身を見ずに値段を確認して、高いなー高いなー、と眉をひそめた。
 コンピューターを買えて、本を高いという感覚が僕には不思議だった。
 彼女は、本を棚に戻すと、あ、そうだ、と思いついたように言った。
「あたし、これから、志のぶさんのお店にお呼ばれしてるんです。もし良かったら、一緒に行きません? 憶えてます? 外永さん」
 忘れるはずが無かった。背中がこそばゆい感じがした。
 どうします? もし行くなら、これから確認しますけど、行きましょうよ、ね? と安田茜は携帯電話を取りだした。

 店は中心地から少し離れたビルの地下にあった。
 階段を降りるとそのまま小さめのテーブルがとても離れた間隔に三つ置かれたフロアになっていた。
 長いカウンターの向こうから、師匠が、いらっしゃい、と例の声で、僕たちを迎えてくれた。
 師匠は僕を見ると、嬉しそうに目を細くした。僕はその笑顔を見ながら、自分がわざわざかつての失態を反芻するようなまねをしに来た理由がわからずにいた。
 ただ僕はとても閉塞したような気分でいて、何処でも良いから飛び出したかったのかも知れない。きっかけが欲しかったんだろう。
 君は特に何も言わず、僕についてきていた。
 道すがら僕は君の無表情を時折見た。何か不満に思っている気がした。
 僕たちは促されるまま、テーブルの一つに席を取った。
 メニューには、コーヒーと紅茶のホットとアイス、それと本日のケーキとクロックムッシュしか書かれていなかった。僕はアイスコーヒーを注文した。君は師匠の顔も見ず、同じ物をと言った。
 君が不愉快なのが間違っていないことを僕は確信した。
 紅茶を注文すると、安田茜は店を見回して、なんか隠れ家みたい、すごく良い感じ、と言った。気に入って貰えたなら嬉しいわ、と師匠は言った。
 注文したものを師匠が運んできて、もう夜のコースのアシスタントはしないの? と僕に訊いた。僕は、なんかむいてないような気がして、と応えた。そうかしらねえ、先生がいれば、また通うのに、と師匠は冗談を言った。
 そのまま僕たちはあの講義の思い出話や、その後のことなんかを話した。
 驚いたのは、安田茜が田沢さんとあの打ち上げの二次会の後セックスしたと告白したことだった。
「あの人、すごく上手くて、あたし、おもらししたみたいに、噴いちゃったの」
 あんなになるなんて、あたし、知らなかった、と顔を紅潮させる安田茜に、僕はどう返して良いものかわからなかった。君は顔をそむけ、壁の方に目をやったまま、何の反応もしなかった。
 確かあの人、妻子持ちだったわよねえ、と師匠は言った。安田茜は、そうなの、だから付き合ってはいないの、と大して悪気もなさそうに応えた。
 安田茜がトイレに立った時、師匠は、呆れたような顔をして僕に言った。
「あの子、きっとヤれるわ」
「はあ?」
「今アレが楽しくてしょうがないって感じ。色々試したくてうずうずしてる」
 僕は、君の顔を見た。君は彫像になったみたいに動かなかった。
 師匠は君を見ると、にやりと笑った。
「あら? 付き合ってないんでしょ?」
「ええ」と君は応えた。
「なら、いいわよね?」
「ええ、聡太の勝手だわ」
「先生、誘ってみたらいいわよ。きっと簡単よ」
「いや、遠慮しておきます」と僕は応えた。
 僕は女というものがそんな簡単だと信じたくなかったし、そんなに上手い人の後で惨めな思いをするのも嫌だった。
 じゃあ、あたしが誘ってみようかしら、と師匠は独特のイントネーションで言って、また僕に笑いかけた。はは、と僕は力無く応えることしかできなかった。
 トイレから戻った安田茜が、改めて店内を見回して、壁の額装された作品を指さし、この絵って、志のぶさんが描いたんですかあ、と訊いた。ええ、と師匠は応えた。
「昔、芸術のまねごとしてた時のよ」
 僕もそれらを見た。風景や静物が描かれていた。
 僕にはそれが自分には描けないレベルのものであることはわかっても、それ以上の価値云々については見当がつかなかった。
 僕はデザイン芸術コースに通いながら、別にデザインにも、芸術にも、深い興味を持ったことがなかったからだ。
 それがかえってあのスクールでは良かったとは今になって言えることだけれど、その時はそれなりにコンプレックスだったことは否めない。
 知ってか知らずか、師匠は僕に訊いた。
「先生、どう思う?」
「いや、上手いと思います」
「あら、嬉しいわ」
「ええ、まあ、あの、僕には描けません」
 師匠は僕をじっと見た。僕は思わず目を逸らした。
「先生はパソコンで絵を描くんでしょ? 見たいわ」と師匠は言った。
「いや、僕は絵が描けません」と僕は応えた。
「あら、『先生』なのに?」
「他のクラスメートは描きます。でも、僕はまあ、何となくいるというか、描けないから、操作方法くらいはちゃんと覚えようとしているというか、そういうレベルです」
 師匠は顔を傾げ、口元を笑った形にして言った。
「『そういうレベル』なんて、自分を卑下しちゃだめよ。先生が自分を卑下すれば、先生の褒めたものまで、価値が無くなってしまう」
 僕は慌てて師匠を見た。師匠の目は鋭かった。そういうつもりじゃないです、外永さんの絵は上手いと思います、と打ち消した言葉は強い口調になった。師匠は少し手を振って、いやいや、あたしの絵も、『そういうレベル』なのは同じなのよ、と笑ってみせた。
 安田茜が、わあ、じゃあ、あたしどういうレベルなんだろう、と悲鳴を上げて、話題は移ったけれど、僕はとたんに恥ずかしくて、居づらい気持ちになった。
 ふと君を見ると、その目は師匠を睨んでいた。ずっと店を出るまで睨んでいた。支払いは僕がした。
 帰り際、師匠は僕の耳元でこう囁いた。
「もし、絵が描きたいなら、”いろはのい”くらいなら教えてあげる。いつでも、いらっしゃい。日が暮れた後がいいわ。あの怖い女の子とじゃなくて、一人で」
 別にやましい想像をしたわけでもないのに、僕の身体には、その声のせいで、鳥肌が立った。
 じゃあ、また今度連絡しますね、と安田茜は帰って行った。君は、見送りもせず、身を翻して、つかつかと歩いていった。
「あの女、あたし、嫌いよ」と君は言った。
「安田さん?」と僕は訊いた。
「違うわ、あのオバサン」
「外永さん? どうして?」
「どうしてって……」
 君は、立ち止まり、振り返った。そして、頭でも突っ込んでくるんじゃないかと思うほど僕を見詰めて言った。
「あなたを誘ったわ」
「誘ったって……絵を教えてくれるって言っただけだよ」
「言っとくけど、あんな客のいない、もうける気の全く無いような店をやってられるってのは、何かあるわよ」
「だから、なんだよ?」
「教えて貰うの?」
 僕は君の目を見た。君が、怒っているような気がした。それだけじゃない、何か不安げな揺らぎがあった。僕の中のあまのじゃくが応えた。
「それもいいね。この際、絵を描けるようになった方がいいかもしれない」
「マヌケ」
「なんだよそれ?」
「酷い目にあえばいいんだわ」
「もう、君にあわされているけどな、自分のこと棚にあげるなよ」
「黙りなさいよ」
「なんだ、それ? 君に指図される理由なんてないね。習いに行くさ」
「やめて」
「やだね」
「やめなさいよ」
「どうして?」
「どうしてもよ。このマヌケ」
 君は全身から冷たい硬質な雰囲気を発しながら、去って行った。
 やっぱり、僕には君が怒っているように感じられた。
 そして、それが何故なのかをわからずに暫くの間立ち尽くしていた。

 その夜、水谷から電話があった。また、僕は君と二人でいるところを見られていたのだ。
「なんでお前にばかり見つかるわけ?」と僕は訊いた。
「うかつなんだよ、お前」と水谷は言った「お前が山田を大事にしないんなら、本当にもらうぜ?」
 僕は黙り込むしか無かった。それでもいい、とはその時の水谷にだけは言えなかった。



 僕は二つに裂けたような気分で、教室で過ごした。少なくとも裸に触れあった間柄の貴句は以前より親しげに僕に接するようになっていた。
 僕は君が桂木と同じように親密になっていくのを見て、ちりちりとこめかみのあたりが疼くのを止められなかった。
 僕はそれを誤魔化したい一心で、貴句や水谷とはしゃいだ。はしゃいでも、文句を言う人間は、今はいなかった。桂木は君に夢中だった。
 僕は時折君を見た。君もあの時、僕をみていたんだろうか? と時々思う。

 君が桂木と行動を共にすることになって、タカハルは一人になった。はじめ、教室の様子を注意深く探っていたようだったけれど、そのうちタカハルは皆に声を掛けるようになった。彼は割と人なつっこかったし、上手な聞き役でもあった。
「あの作品、まだ見た事ないの」と貴句は言った。
「僕は見た」とタカハルは自慢げに応えた。
「本当?」
 目を輝かせて、貴句はタカハルを見た。タカハルは、ああ、でも、いや……と少し考えるように首を傾げた。
「いや、正確には最初の二十分だけだね。何度トライしても、寝ちゃうんだ」
「ええ? やっぱり? 噂通りなんだ?」と水谷が訊いた。
「そうそう、眠れない人は是非見た方が良い」とタカハルは真顔で応えた。
 それってつまらないって言ってるのと同じだよ、と貴句は楽しそうにタカハルの肩を叩いて笑った。いやいや本当に名作だから、とタカハルも笑った。
 そんな感じで、タカハルは貴句や水谷とも仲良くなった。
 彼はいつのまにか僕たちの傍にいることが多くなった。僕は最初警戒していたけれど、タカハルは、アレをほのめかすことも、僕を脅すような素振りも見せなかった。その内、僕も他のクラスメートと何の変わりも無く接することが出来るようになっていた。



 ある日の昼休み、僕はひとりで教室を出た。ちょっと前の様に、もう教室での君たちを警戒する必要が無くなったし、僕なりの複雑な気分のせいで、貴句と一緒にいることになんとなく気が乗らなくなっていたからだ。
 僕は地下街に降り、何とは無しに、歩いた。ぽん、と肩を叩かれた。振り向くと、タカハルがいた。彼はにっこりと笑って、そして僕の横に並んだ。
「山田さんが、探していたよ」タカハルは言った。
「ああ」と僕は応えた。
「良いコだよね。普通のコだ」
「ああ」
「僕でも、結婚するなら、リンより、山田さんを選ぶな」
「ああ」
「親友と見込んで、訊きたいことがあるんだけど」
 僕はタカハルの顔を見た。いつから親友に格上げされたのか、問い質したかったけれど、面倒くさくて言葉にしなかった。
 タカハルは真面目な顔で訊いた。
「僕は普通かな?」
 普通じゃないと言って欲しい人間もたくさんいる。僕は応えに迷った。
 すると、タカハルは、もう一度、今度は少し言葉を足して、訊いた。
「僕は、ちゃんと普通に見えているかな?」
 タカハルは普通過ぎる程普通に見えた。
 貧乏揺すりをすること以外は、むしろ好ましいくらいだった。だから、以前トイレで彼が明かした「弱み」について、僕は殆ど意識することがなかった。その意味も判っていなかった。
 僕はとても軽い気持ちで応えた。
「普通に見えるけど?」
 タカハルは、僕の横顔を凝視していた。
 僕は少し訝しげに視線を合わせた。
 ちょっとの間そうしていると、タカハルはすっと息を抜き、安心したように微笑んだ。
「ああ、良かった。君を信じるよ」
 そりゃどうも、と僕は返した。僕の病気には、とタカハルは言った。
「僕の病気には色んなタイプがあってひとくくりにはできないんだけど、僕の場合は声が聞こえて、感覚が支配されちゃう感じになるんだ。そのせいで、君たちの見ている世界と違った世界にいたことがある。
 同じものを見ながら、違う意味の体系に囚われちゃうんだね。
 それはそれで面白い時もあるんだけど、そういうのって普通の人には迷惑で危険なものだよ。
 だから、入院させられたりする。そして、薬を飲まされる。今は良い薬ができたからね。大抵はそれで、元の世界に引き戻される。元の世界に戻って、そのまま問題ない患者もいる。
 でも、僕は違う世界にいた頃の感覚があまりにリアルだったから、なかなか忘れることができない。いつまた世界がひっくり返るかわからない恐怖がある。
 突拍子の無い妄想は言葉遊びじゃない。単なるイメージじゃないんだ。それを信じるようになるのは、感覚が、裏付けするからなんだ。それはバーチャルリアリティなんてレベルじゃないよ。感覚が全部真実だと言っているのに、それは実際には本当じゃないんだ。
 まあ、今は君たちと同じ世界を見ていると思う。でも、それも思うってだけで本当にそうかは自信がない。まだ自分の感覚がいまいち信用できないんだ」
 だから、こんなことを訊いてしまう、とタカハルは俯いた。
 僕は、そこまで聞いても、タカハルが何を言っているのかの本当のところをわかっていなかった。タカハルが以前言った「わかりやすい言葉」とタカハル本人を結びつけることさえできていなかった。ただ、ふうん、と相づちを打って、歩いた。
 僕は今天涯孤独なんだ、とタカハルは続けた。
「親にも縁を切られ、働くこともできない、他に行くところのない僕をリンは拾い上げてくれた。病院の待合室で震えていた僕に、聞こえ無くなった声の代わりにあたしがあなたの生き方を決めてあげるって言ったよ。
 そして、いつ自分が危険な状態に陥るかもしれないのに、僕に部屋を与えて暮らしている。
 ねえ、相馬君、リンの優しさは本物だ。筋金入りだよ」
 僕は、君の名前が出たことで、少し身構えていた。タカハルが君と僕とを結びつけようと画策してそんな話をしていると思った。
 僕はうんざりしたような気分になった。もう、戻るよ、と僕は言った。
「頼むよ」とタカハルは言った「何度でもお願いするよ。あのコを救ってやってくれ」
 僕が返答せずにいると、もう少し歩いて帰るよ、とタカハルは言い残し、雑踏へ消えていった。
 僕は、救うって、何を、一体どうやってだよ、と心の中で文句を言った。

 スクールの入ったビルのエレベーターの前に君が一人でいた。
 やっぱり仕組まれてるんじゃないかと疑心暗鬼になりながら、僕は君の隣に立った。
 桂木は? と訊いた。君は応えなかった。
 代わりに、君は指を伸ばし、僕の頬を引っ掻こうとした。僕は反射的に避けた。
「なんだよ?」
「掻かせて」
「はあ?」
 君は再び僕の頬へと手をやり、爪を立てて頬を掻いた。
 僕の方が奇妙に感じるべきだったけれど、君の方がよっぽど不思議そうな目をしていた。僕が手を払うまで、君はそうしていた。
 僕は何となく君に意地悪を言いたくなった。
「やっぱり、絵、習いに行こうと思ってる」
「勝手に、すれば」
「本当に、行くよ?」
「うるさい、マヌケ」
 エレベーターの扉が開き、僕たちは乗り込んだ。
 パネルの前で僕はわざと、何階ですか、と言った。バカじゃないの? と君は応えた。
 上昇し始めたエレベーターの中で、君は言った。
「セックス、するわ」
「そう」
「今夜。桂木と。何度も」
「そう」
「想像した?」
「するわけないだろ」
 君は僕のその言葉を最後まで言わせなかった。
 エレベーターの扉がスクールの階で開き、僕たちは別々の方向に歩き出した。
 教室に入ると貴句が、探したよ、と嬉しそうに近寄って来た。
 僕は笑った。
 笑ったけれど、唇に残った君の唇と思わず抱き締めてしまった細い背中の感触が、意に反していつまでも消えないことを忌々しく思っていた。

 もやもやしていた。もやもやしている間に、試験も終わり、七月が過ぎた。

<#5終わり、#6へ続く>



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