【連載小説】僕のセイシュンの三、四日 #10
この物語はフィクションです。登場するあらゆる個人、団体、組織、事件、SNS等は全て架空のものであり、実在のものとは関係がありません。
また、この作品は2013年にKDP/Amazonにて発行された電子書籍版に加筆・修正をし、連載形式に分割して再発表するものです。
ここまでの話数は↓のマガジンに纏められています。
○
僕たち三人は帰りのバスの中で何も話さなかった。
最後尾の席で、砂羽を挟んで僕と泉は座っていた。バスには他に乗客はいなかった。
僕は車窓から外を眺める事も出来ずに、前の席の背を見つめていた。泉が静かに怒っているのが感じられたのだ。
結局、僕一人では誤解を解くことが出来なかった。
砂羽が反応に乏しい子だったのも、彼らの追求に拍車をかけさせた。怯えて話さないのだと思ったらしい。
仕方無く僕は書店の電話番号を職員に告げた。
泉がバイトを途中で抜け、僕たちを迎えに来て、ようやく職員達は僕を解放するのに同意した。
何の謝罪も無かった。
警察呼ばなくて良かったなあ、と禿げたほうが言った。
今後は気をつけるように、と背の低いほうが言った。
泉がそれを聞いて、何か言おうとしたが僕がそれを遮った。面倒くさくなってつまらない嘘をついてしまったのが原因の様に思われたからだ。
こうなって初めて、大学で子供を連れ歩くことが不審な行為なのだとも気付いた。
バスから降りると、雨は一層冷たく降り続いていた。
僕はまた砂羽を抱き上げて歩こうとした。泉は呆れた顔をした。
「歩かせなさいよ」
「いいんだ」と僕は応えた。
泉は押し黙って先を歩いて行った。
僕はその一メートル後をついて行った。
辺りは暗くなり始めていた。
僕の目には景色がやけに平らに見えた。
傘を差して目の前を歩く泉の背中も、腕にかかる砂羽の重さも、どこか作り物の様に感じた。僕は自分がちゃんとこの世界にいるという事を確かめくて、どうしていいかわからなかった。
不意にあの返品女の事が頭をよぎった。
「ごめん」と僕は言った。
泉は立ち止まり振り返った。その表情は暗くて見えなかった。僕も止まった。
「何が?」と泉の影は言った。
「いや、ただ何となく」
「『何となく謝る』なんておかしい」
「そうかも知れない」
「それとも何か悪いことでもした?」
「それは……この子を連れ出したり、君を呼び出したり……」
泉は何も言わず、また歩き始めた。ねぇ、と僕は言った。
「どうして僕を責めないんだよ」
泉の背中は無言だった。その歩く速度が上がった。僕は急ぎ足で、泉の後を追いかけた。顔が見たかった。
しかし、傘を差し砂羽を抱えた僕は、泉の横に並ぶことさえ出来なかった。
「何か言えば良いじゃないか」と僕は言った。
「何を言えば良いっていうのよ」と疲れた声がした。
「何でも良いさ、君の思うことを言えば良い」
泉は何かを呟いた。僕には聞こえなかった。
「え?」と僕は訊き直した。
「……わよ」と泉はまた何か言った。
「聞こえないよ」と僕は大声で言った。
「だから」泉は言った「その子が叩かれる事には怒ったのに、自分がひどい目にあったら逆に謝るなんて、悲しくなるって言ったのよ」
泉は歩を緩めなかった。
「だって今回は僕に責任がある」と僕は言った。
「責任?」
「そう」
「こんな時、責任なんて言葉、振り回さない方がいい」
「どうしてさ、現に僕は……」
「じゃあ、その子がケガでもしたらどうしたの? 外へ出なくても、そういう可能性はあったのよ。もしそれが一生治らなかったら? アンタ一生その子の面倒見た? その覚悟はあった?」
僕は言葉を失って、砂羽を見た。
とんでもなく重いものを抱えているような気がした。
でもね、と泉は続けた。
「アンタを責めるつもりは全くないの。そんな事言ったら、子供を他人に預けてバイトに行ったアタシの責任はどうなるの? その子を置いていった女の責任は? アンタを責めるような事をすれば、自分を棚に上げたも同然でしょ?」
「そう、かも知れない」と僕は応えた。
「男の子は簡単に“責任”って言いたがるけど、例えばお金とか地位とか時間とか、代償として差し出せる何か大事な物を持ってなければ、ただの言葉遊びにしかならないわ」
泉の部屋はもうすぐだった。立ち止まって、泉は言った。
「アンタ、まだ何も持ってないでしょう?」
僕は頷いた。
そうするより他に無かった。
街灯が泉の微笑みを照らし出していた。
僕の言葉には何の力も無い、とふと思った。
僕の胸はハリネズミが集団ででんぐり返しでもしてるみたいに痛んだ。
泉がその「何も持ってない」僕の何が良くて一緒にいるのか、訊いてみたくなった。
しかしそれを制するように、それより、と泉が言った。
「早合点してアンタを不審者扱いした挙げ句、謝りもしない連中に腹が立ってるだけ。アンタがいつか戻らなきゃならない場所だから我慢したけど、本当は土下座させてやりたかった。どこかの野球部員みたいに」
さ、いこ、と泉は僕の背を軽く押した。僕は不意にまなこが潤むのを感じた。
砂羽はいつのまにか寝息を立てていた。先を歩いて行く泉を追うのを止めて、僕は砂羽を起こさないようにゆっくりと歩くことにした。
何故だか分からないが、僕は泉との平穏がきっともうすぐ戻ってくると思った。
しかし、それは間違いだった。
○
二つの傘が泉の部屋の前で僕たちを待っていた。
一つは、鳴海さんだった。僕たちが目に入ると、「砂羽ぁ」と傘を放り出し、僕のところまで駆け寄って、砂羽を奪い取るようにして抱きかかえた。
鳴海さんは寝ぼけ眼の砂羽の髪を掻きやって、「ごめんねぇ、ごめんねぇ」と泣き声で繰り返した。
もう一つの傘を差していたのは知らない男だった。
地味なダークグレーの背広を着て、銀縁の眼鏡を掛けていた。どこかの真面目なサラリーマンといった風貌だった。
きっと砂羽の父親なのだ、と僕は思った。
僕は泉の肩を叩き声を掛けた。
「ほら、お姉さん戻ってきたじゃないか」
だが、応えが無かった。
僕は泉の顔を覗いた。
泉は目を見開き、男を見詰めたまま固まっていた。
男は泉を優しげに見詰め返した。
「久しぶり」と男は言った。
泉は何か言おうとした。が、何も言わずに目を逸らした。
男も視線を落として、力無く笑った。
鳴海さんが砂羽を抱き締め嗚咽する声が響いていた。
僕は鳴海さんに言った。
「すいません、ご近所に……」
鳴海さんは涙を袖で拭いながら、そうね、そうよね、近所に迷惑よね、と応えた。だが、小さな声で、砂羽、砂羽と言うのを止めなかった。
僕はみんなに言った。
「雨も降ってますし、中に入りましょう」
僕はコートのポケットから鍵を取り出そうとした。すると、泉がその腕を掴んだ。
「アタシが開ける」と泉は言った。
泉はバッグから鍵を出し、ゆっくりと錠を開けた。開けて、僕に振り向くと、ごめんなさい、と言った。
ん? と思った時には遅かった。泉は素早く中に入ると、ドアを閉めた。鍵を掛ける音がした。
僕は何が起こっているのか分からなかった。チャイムを鳴らし、ドアを叩いた。
僕は合い鍵を使ったが、チェーンが掛けられていて、開けられなかった。何度も名前を呼んだ。返答は無かった。
男が僕の肩に手を置いた。
「仕方無いんだ。僕たちは憎まれている」と男は言った。
「僕もですか?」と僕は訊いた。
「君が泉の恋人?」と男は逆に訊いてきた。
僕は鳴海さんを見た。
「そうよ」と鳴海さんが応えた。
「そうか」と男は言い、僕を見詰めた。
その目が何か言い様の無い感情でくすんでいる様に僕には見えた。僕は訊いた。
「砂羽ちゃんのお父さんですか?」
男は少し答えに迷った様子だった。鳴海さんが横から「そうよ」と言った。男はそれを聞いて、「そうだな」とぽつりと言った。
「このコ、何も知らないんだってさ」と鳴海さんが言った。
男は僕を見詰め続けていた。僕はその眼差しに負けて、視線を逸らした。
どこか、と男は言った。
「どこか、落ち着いて話せる場所は無いだろうか? 君の部屋は?」
「僕の部屋なら、ここから歩いて三十分くらいですが」と僕は応えた「でも泉が憎んでる人達と僕が話す理由がありません」
男は目を閉じ、少し微笑んで、「あるんだよ、理由が」と言った。
「なんですか?」
「高橋君と言ったっけ?」
「高橋祐介君」と鳴海さんが言った。
「フリーターだっけ?」と男は訊いた。
「いえ、大学生です。休学中ですが」と僕は言った。
「君は泉の名字を知ってる?」
「沢崎、でしょう?」
「違うのよ、アタシはまだ沢崎だけどね」と鳴海さんが言った。
「自己紹介が遅れた。僕は田宮陸」
田宮という名前を鳴海さんが言っていたのを僕は思い出した。
何か嫌な予感がした。
男は一つ咳払いして言った。
「そして、田宮泉は僕の妻だ」
意味もワケも分からなかった。ただ後頭部をバールで殴られたらこんな気分かも知れないと思った。
君の部屋は三十分くらいと言ったね、じゃあタクシーを拾おう、と泉の夫は言った。
僕はもう何も応えられなくなった。
<#10終 #11に続く>
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