【連載小説】僕のセイシュンの三、四日 #12
この物語はフィクションです。登場するあらゆる個人、団体、組織、事件、SNS等は全て架空のものであり、実在のものとは関係がありません。
また、この作品は2013年にKDP/Amazonにて発行された電子書籍版に加筆・修正をし、連載形式に分割して再発表するものです。
ここまでの話数は↓のマガジンに纏められています。
○
いずれにせよ、ひと月経って僕の役目は終わった。
僕を沢崎家に紹介した女の子が、加藤というんだが、戻って来ることになったんだ。
加藤は意味ありげに「お疲れ様」と言ったよ。僕も「君も大変だな」と応じた。
そこで、僕と沢崎家の縁は途切れる筈だったんだ。
途切れるべきだった。
ところが、そうはならなかった。鳴海の英語の成績が上がったと言うんだ。
「魔法でも使ったの?」と加藤には訊かれた。
何もしてない、と言っても信じて貰えなかった。
僕自身が誰よりも信じられなかった。
本当に何もしなかったんだから。
加藤に請われるまま、僕は鳴海の家庭教師を続ける事になった。
再び訪れた時の沢崎の両親の歓迎ぶりと言ったらなかったな。
夏休み明けの実力テストの答案を見せられ、「三十点もあがった」と父親に握手を求められた。
僕は不思議な気分だった。確かに僕が関係していたのかもしれないが、全く実感がなかった。フワフワと落ち着かなかった。
で、当の本人は、鳴海だけどね、その間もつまらなさそうに髪の毛をいじっていた。こちらを見もしない。挙げ句欠伸なんかしている。自分の成績に何の関心も無いと言った様子だった。
寧ろ泉の方が感心していた。
ニコニコと笑って、両親に、先生は教え方が上手なの、と言った。家庭教師にも色々あるなあ、と父親は言った後、加藤先生には今言った事は内緒で、と僕に笑いかけた。
僕は自分の笑顔が引きつっているのが気になってしょうがなかった。それじゃあ、勉強しましょうよ、先生、と鳴海が言った。
それを渡りに船と僕は立ち上がったが、冷静に考えれば、鳴海の授業態度が急に変わるわけがなかった。
部屋に入るなり、「上手くやったわね」と大して面白くも無さそうに鳴海は僕に言った。
僕は何を上手くやったのかが良く分からなかった。
「僕は何もしてない」と言った。「君も僕からは何も学んでないだろう?」と訊いた。
鳴海は「わかってるならいいわ」と皮肉っぽく笑った。
学校の教師はアホばかり、成績が上がれば全部自分のおかげだと思うわ、と鳴海は僕に背を向けた。
アタシは一回聞けば、何でも頭に入るの、だから勉強なんて本当はしなくても良いのよ、アナタも要らないの、本当は、と鳴海は言った。
僕はその時その事の意味が分からなかった。
鳴海が言った事が本当なら、それは自分が天才だと告白したのを僕は聞いた事になる。
その天才がそれ程偏差値の高くない高校で、赤点スレスレの点数を取り続けていたのは何故か、疑問に思ったのはその日寝る前だったよ。
もう一度、上手くやったわね、と鳴海は言った。泉を手懐けたもの、と続けた。
「泉が田宮先生、田宮先生、ってあまり言うもんだから、辞めさせるのはもったいないかも知れないと思ったの」と鳴海は言った。
三十点も上げる必要は無かったみたいだけど、と鳴海は振り向いた。
僕はその無表情に寒気のようなものを感じた。
鳴海は「泉はきっとアナタの事が好きよ」と言った。
僕は何をどう応えていいか分からなかった。
そして、泉に好かれると言う事はこの家の人間に好かれるということなのだというような趣旨の事を鳴海は言った。
君が何を言いたいのか分からない、と僕は言った。
「あの子だけが本当の子だから」と鳴海は言った。
それは答えではなかったよ。
鳴海は僕と会話するつもりはないようだった。
自分の言いたい事だけを喋っていた。
アタシ、本当の事言うとあの父親とはきょうだいなの、と鳴海は言った。どういうことかわかる? と鳴海は微笑した。
その目がまるでよく出来た義眼みたいに見えた。
泉にとってのおじいちゃんが、アタシにとっての本当の父親なの、あの父親とアタシは畑は違うの、で、おじいちゃんが種を蒔いた別の畑に今度は息子も種を蒔いたのよ、面白いでしょ? と鳴海は形ばかりの笑顔を浮かべて僕に訊いた。
魯鈍な僕はその間鳴海が自分にいつのまにか近づいていた事に気付かなかった。
次の瞬間、鳴海は僕の唇にキスをした。
たかがキスと言わないでくれ。
僕にとっては最初のキスだった。
僕は抵抗も出来なかった。
鳴海は「アナタは何もしなくていい。毎週ここに来て、適当に過ごしたらいい。成績なら、アタシが丁度よく調整してあげる」と言った。
でも、泉に教えるのは絶対にしないで、と零して乾いた墨汁みたいな色の目で鳴海は僕を睨んだ。
もし、アタシの居ないところで泉に教えたら、“アナタがアタシに手をつけたこと”をみんなに言いつける、そしたら、アナタ犯罪者よ、と鳴海は凄んだ。
僕は、訳も分からないまま頷いていた。
「世に於いては逃れ去ること能わず」鳴海はそう呟くと、瞳を一層暗くした。
その後、僕は鳴海の言いなりだったよ。
いや違うな、思うまま、だった。
鳴海はそれ以来授業でも多くを語らなかったし、理不尽な要求もしてこなかった。
寧ろ僕の方が勝手に鳴海の顔色を窺っていた。
泉との授業の前の授業は止めた。鳴海が早く帰って来るようになったせいでもある。
鳴海は僕の腕を取って泉に見せつけるように部屋へ向かうんだ。泉の落胆した顔を見るのが、とても嬉しそうだった。
そのくせ部屋に入るとまるで汚れた雑巾の様に僕を突き放した。
僕は部屋の机に一人で座った。
鳴海は雑誌か何かを読みながら時々、クスクスと笑ったりしていた。
何が可笑しいのか訊くと、うるさい、だまれ、と冷たく言い放たれた。
僕はいじめられっ子の気分はこういうものではないかと思った。
でも、僕は通ったよ。
それ程、鳴海の血筋の話とキスは重たかった。
いや、血筋の話は僕が黙っていればいいだけの話だった。面と向かって沢崎のお義母さんに訊ける勇気も無かったしね。
でもキスは怖かった。時間が経つ程、考える程、それを周囲にばらされた時に失うモノが大きいような気がした。
正式に付き合うとかそういう話でもなかった。好かれているとは到底思えなかったからだ。
この恐ろしい女子高生に僕の一番大事な部分を握られてしまった事は確かで、それは悔やんでも悔やみきれなかった。
僕は我慢した。一週、二週、ひと月、ふた月、そして受験まで、辞めるに辞められなかった。
鳴海がまるで嫌がらせみたいにじわじわと右肩上がりに成績を上げたから。
僕は一人座った机から、床に座って漫画を読んでいる鳴海に訊いたことがある。
そんなに上手く点数を調整できるくらい頭が良いんなら、東大とか京大でも目指せばいいじゃないか、と。
僕は鳴海が天才であることに関しては信じてなかったんだ。隠れて勉強してるに違いない、ちょっと挑発してやろうって思った。
今は女の人でも重要な仕事をする様になってきた、君もその頭脳をフルに活かせば良いじゃないか、と言った。
若さを無駄にするなよ、もったいない、とも言った。
だが、うるさい、も、だまれ、も無かった。
鳴海が息を呑んだのが背中で聞こえたような気がした。
僕は振り返って鳴海を見た。
何だか不思議な動きを鳴海の首がした。
表情が変わるでも無かった。
ただすぅっと、ふぅっと、艶めかしく顔が動いた。
僕は妙にその動きが気になって、鳴海が何を言ったのかを正確に思い出す事が出来ない。
「何のために」だったか、「無意味だ」だったか、そんな様な言葉だった。
僕は鳴海の目を見た。
宇宙に底があるとしたら、こんな色だと僕は思った。
僕は恐ろしいという感情以外の何かを、その時鳴海に対して持った事は間違い無い。
とにかく、鳴海は成績通り、勿論英語以外の成績も含めてだが、地元の短大に進む事になった。
四大にやりたかったな、と父親は言ったよ。僕は力及ばず申し訳ありません、と謝った。よく頑張ってくれました、と母親が僕に封筒を差し出して、最後のお給料です、と言った。
僕は中身も確認せずそれを鞄にしまった。
鳴海は何処かに行ってしまっていた。
そう言えば、泉もいなかった。泉はその頃から、コンビニでバイトを始めたらしかった。
寂しいもんだった。僕は本当に最後だと思って、沢崎の家を出た。
エントランスを出てマンションを見上げると何だか急に色んな事が馬鹿馬鹿しく思えて来た。
僕は一気に楽になるのを感じた。
改めて給料袋の中を見た。決まった給料より、三万も多く入っていた。
貰っちゃいけないような気がした。
と同時にそのくらい取って当然のような気もした。僕は、それを無駄に使ってやろうと思った。
まあ、察してくれ、僕は金で童貞を捨てた。
そして、一年後、僕が全て忘れて、就職の事も気に掛かるようになってきた頃、まさか、という依頼が来た。
<#12終 #13に続く>
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