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【連載小説】転送少女症候群、もしくは黍島柘十武の長い回想 #06





 その日、大学の授業はまるで耳に入りませんでした。
 志伊理美の頼み事など、忘れていました。ノートなんて、どうでも良かった。
 まるで放心したかのように、ただ席に座っていました。だから、そこにその依頼主が現れても、気付きませんでした。
 蕩けそうなあの笑顔で、また見つけちゃった、と志伊理美は言いました。
 僕は、何を言ってるんだ? と思いました。
 彼女は僕の白紙のノートを見て、そして、まるでとがめる風でもなく、あれ? どうしたの? ノート取ってないの? と訊きました。僕は、再び、何を言ってるんだ? としか思いませんでした。
 もしかしたら、具合悪い? 大丈夫? 仕方無いよね、そういうことあるよね、わたしもあるんだ、そういうこと、でも、次はちゃんと取れるよね、わたし、黍島くんには期待してるんだあ……そういう音がどこか遠くで反響しているみたいに聞こえました。
 僕は何も言わずに席を立ちました。彼女の顔も見ず、返答もしないで。置き去りにした僕の背中で、彼女はどんな顔してたんでしょうね。
 僕が教室を出ると今度は、例の男が僕に並んで歩き始めました。彼は、やるね、と言いました。彼が何を言っているのかわかりませんでした。
 問い直そうとも思いませんでした。
 ああいう女はさ、空気みたいに扱ってやるのが一番良い、相手にしないのが一番良いんだ、嫌悪感なんか見せてみろ、あいつはそれだって喜んでエサにするよ、それを利用して、今度は次の男ってなもんさ――。
 まったく、本当に、何を言ってるんだか、わかりませんでした。そんな風に、一見普通に振る舞っているようで、身体の芯が呆けたような僕を、彼は少し訝しげに見詰めました。
 そして、ま、いいや、さっきの君の態度で、あの女も君の利用価値に見切りをつけたはずだ、君の護衛はここまでにしとく、と彼はまただるそうに離れて行こうとしました。
 その去って行くシャツの裾を掴んでしまったのは、何故でしょう? そしてこんな言葉が出て行ったのは何故でしょう?
「もう少し、護衛してくれませんか?」 
 今となると、わかります。それは僕が最初感じた劣等感の裏返しでした。
 まったく情けないと思いますよ。彼が敵わないほど上だということを判った上で、だからこそ、不安な自分を強く守ってくれるかもしれない、と劣等感を依存心にすり変えたわけです。
 だけど、僕は、あんな状況でひとりで立っていられなかった。眉をしかめて、けだるそうな瞳を僕に向け続けた彼に、僕は縋るような視線を返しました。そういうコドモだった。……いえ、今でもそうかもしれません。

 部屋には、遊はいませんでした。
 それを理解するかしないかの瞬間に、僕は閉じた扉を背中に、彼に抑えつけられました。
 左手を扉についた彼は、僕に考える時間などくれませんでした。電光石火の唇が、僕の少し開いた唇に重なりました。
 僕は本当に鈍い。それが何を意味することなのかわかりませんでした。
 僕は、一連の遊の文脈の中にいて、その事象を直ちに理解することができなかったんです。二秒? 十秒? わかりませんが、彼の舌が僕の舌を求めて蠢いていました。その少ししょっぱい人の味が僕を、正気に戻らせました。
 僕は悶えるように身を捩り、彼の胸板をつき押しました。それでも彼は簡単にはやめてくれませんでした。彼にとって、僕の力など大したものじゃなかったんでしょう。僕は窒息しそうになりながら、今度は渾身の力で彼の顔を掴み、引き離しました。彼は、ふ、と鼻で笑い、震えだしそうな僕を余裕ありげに眺めました。僕は、それを見詰め返すことも、いきなりの仕打ちに怒り出すこともできませんでした。
 彼は、だって、そういうことだろ? と問い、今度は、僕の首筋にその唇を寄せました。僕は、この時は、それを拒むことができました。
 彼は少し呆れたように笑みを作ると、僕の顎に指を差しのべました。
「初めて?」彼は訊きました。
「な、何が?」僕の声は、掠れた上に裏返りました。
「こういうこと」
「こ、こういう……こと?」
「して欲しいんだろ?」
「……な、何を?」
「部屋に誘ったじゃん」
「……い、い、いやいやいや、そ、そういうことじゃなくて」
「女の子としたことは?」
「……」
「……そう、それじゃ、俺が全ての始まりか」
「いや、ちょっと、待って……」
 ようやくあたふたと慌てることのできた滑稽な僕のしぐさに、彼は少し首を傾げました。
「違うの? 護衛ってこういうことだろ?」
「護衛って、護衛は護衛で、そ、そういう意味じゃなくて」
「……なんだ、遠回しなお誘いかと思ったよ」
 彼はすっと身体を離しました。彼のある種の攻撃性がぱっと消えて、僕はようやく呼吸できたような気がしました。
 どきどきしました。
 でも、そのどきどきが一体何のせいなのかはわかりませんでした。僕は突き動かされるように言いました。
「そういう趣味は、ないんです。ごめんなさい」
 彼は皮肉っぽく右の口角を上げると、まあ、俺も元々君とそれ以上はするつもりなかったけどね、と背中を向けました。
「で? 何から“護衛”して欲しいわけ?」
 誰も居ない部屋を見回して、彼はちょっと僕に振り向きました。
 僕は応えに窮しました。遊がいなくなった以上、彼をここに引き連れて来た理由も、もうありませんでした。
 僕は言葉に困って、結局、お茶でもいかがですか? などと言ってしまいました。彼は眉をしかめて、やっぱり、誘ってるよな? と言いました。僕は慌てて首を振り、両手を突き出しました。
 その様子を見て、彼は、冗談だよ、と笑い、用が無いなら帰るぜ、と僕を押しのけて、部屋を出て行こうとしました。僕はその背中に、ごめんなさい、と呟きました。
「あのさ」彼は言いました。
「はい?」
「男はさ」
「……はい」
「女の子が気持ち良いって習って育つよな」
「……はぁ?」
「女が男の快楽の全てを握ってるって思い込まされて俺たちは大きくなる」
「はあ、まあ……」
「だから、大抵の男は、女を手に入れるために血眼になる。傷だらけになる。女の思い通りに操られる」
「はあ」
「でもさ」
「はい」
「気持ち良いのは女だけじゃないんだぜ?」
「は?」
「それを知ることは、きっと君だけじゃない、男たち皆を楽にするよ。少なくとも志伊みたいな女に対する護符になってくれる」
「……はぁ」
「ま、俺は元々男にしか興味無いけどね。だからあの女の正体が“見える”んだけどさ。言っとくぞ、甘いものには気を付けろ」
「……そうですか」
 彼が何を言ってるのか、僕には、まだ理解できませんでした。でも、最後に彼は真顔で僕を見詰めました。そして、こんなことを言い残して去って行きました。
「君、立ってるだろ?」
 彼が閉じていった扉からしばらく目を離せませんでした。
 僕は恐る恐るそこに触れました。いや、触れなくたってわかっていました。
 そこは、彼の言う通り、知らぬ内に、硬く、痛いほど硬くなっていました。

 嬉しいよ、と声がしました。僕は、彼が帰ってからずっと床にへたりこんで呆けていました。でも、そんな僕に電源を入れる声でした。顔を上げると、遊がいました。
 どこへ行ってた? と僕は訊きました。遊はそれには直接には応えず、また、嬉しいよ、と僕の隣に腰を下ろしました。
「ツトムは通報しなかった」
「……ああ」
「友情だ」
「……違うんだ」
「ん?」
「違う」
「……でも、通報しなかった」
 遊は肩を僕に寄せ、頭を僕の横顔につけました。
「……そういうことじゃないんだ。僕は……僕は……」
「いや、ツトムが色々考えたことはわかる。内容まではわからないけど、そこに何かしらの葛藤があったことはね。でも、そんな葛藤の末、ツトムは通報しなかった」
「いや、だから――」
「友情だろ?」
「いや、そんな……だから」
「そういうことにしときなよ。男前が上がるぜ」
 言葉を失った僕に、くく、と遊は楽しそうに笑いかけると、それに――と人差し指を立てました。
「ツトムは、正しい選択をした。単なる偶然かもしれないけどね。
 うん、正しいよ。君は。もし、通報したとしたら、警察より恐ろしいものがここに来たはずだ。わたしひとりなら簡単にはそうされないだろうけど、ツトムはどうなっていたかわからない。ある日理由もなく自殺したことにされるならまだ良い方で、生きながらこの世の地獄ってやつに落とされたかもしれない。
 だから、ツトムは、結果的に自分のためにも正しいことをした」
「お前が何を言ってるのか、わからないよ」
 すっと遊は自分の手を、僕の目の前に差し出しました。焦げ痕を見せつけるように。
 でも、僕が単なる焦げ痕だと思っていたその上には、割と新しい一本の傷跡が走っていました。僕はそれを凝視しながら、コレが何? と問いました。遊はその腕を引こうともせず、応えました。
「ここにはさ、チップが埋め込まれてたんだ。やつらがわたしたちを識別できるように。探しやすいように。SFの世界じゃないから、これで衛星から監視されるってわけじゃないけど、わたしたちがやつらのテリトリーに近づけばわかるってシロモノだった。
 ほら、医者に恋をしたって言ったろ? その時にちょっとした手術で取り出して貰った。それで、あのひとも信じてくれたんだけどさ。
……信じて、というか、半信半疑が七信三疑くらいになったって感じだったけど。
 やつらはわたしがチップを取り出したことを知らない。多分。だから、上手く殺せた。隙をついてね」
 ようやく腕を戻すと、遊は視線を宙に遊ばせて、ひとつ、息をつき、立ち上がりました。
「ツトムの“友情”に応えて、わたしはここを出ていかなきゃならないな」
「え?」
「いや、さよならをするときだ。わたしは、わたしのケンカにツトムを巻き込むわけにいかないと思うんだ」
「そうかよ」
「ほんとは、黙って出ていこうと思ったんだ」
「……」
「でも、なんていうか、ちゃんとお別れしたい、と思ったんだよ」
「うん」
「ほら、いつもは恋をして、気付いたら違うとこにいる、って感じだったからさ。ちゃんと別れの言葉も言えずに」
「うん」
「好きになる一歩手前だから、できることをしたい」
「うん」
「短い間だったけど、ありがとね」
「うん」
「ツトムのことも、好きになりたかったよ」
「うん」
「さよなら」
「うん」
 僕は、ほっとしました。
 なのに、胸が絞られ、身体が痺れるような虚しさに同時に支配されました。
 あの相反する感覚が、遊に対する僕の本当の気持ちを教えてくれました。失われようとした時になって初めて。
 僕は、何も、彼女にしてやれませんでした。
 いや、そんな格好良い言葉じゃなかった。
 僕は、満足できるものを何も、彼女から得ていませんでした。身体もそうだったし、恋する甘い気持ちもそうだったかもしれないし、何より、あの昔話だってまだ途中でした。その先にあるものも。
 僕は、何一つ真実と呼べるものを掴んでいなかった。
 まるっきり僕は中途半端だったことにその時気付きました。僕が顔を上げると、もう遊はいませんでした。
 ああ、本当に、いなくなった、と思った瞬間、衝動的に身体が動いて、僕は部屋を飛び出しました。
 部屋の前の坂を下っていく遊の背中が見えました。僕は、彼女の名前を叫びました。ぴた、と彼女は止まりました。でも、すぐにまた歩き出しました。
 僕は駆けた。朝、転げ落ちるように走ったのより、ずっと真剣に。
 追いついて、僕は振り向きもしない遊の手首を掴みました。それでも、遊は歩いて行こうとしました。遊、と僕はまた呼びかけました。ダメだよ、ツトム、と遊は呟きました。振り払おうとする遊の手を、引っ張るように、部屋へと歩き出しました。
 ダメだよ、ダメだよって、何度も遊は言いましたが、僕は応えずに歩きました。
 遊の本当の気持ちはわかりませんけど、でも、ひとを容易く殺せるくらいの遊が、言葉とは裏腹に、僕に引かれるままついてきたことが、僕に少々の勇気と大胆さを与えてくれました。
 部屋に入り、押さえ込むようにベッドに座らせ、僕は床に乱暴に腰を降ろしました。俯いたまま、また、遊は、ダメだよ、と呟きました。
 でも僕はそんな言葉には応えず、ただ遊を見詰め、そして、昨日の続きを聞かせろ、と言いました。
 遊は少し唇を噛み、首を振りました。いいから、と僕が促しても、遊は、また首を振りました。僕は、本当のことを話せ、と迫りました。本当に、本当のことを、と繰り返しました。遊が僕を見詰めました。
「ツトム」
「うん」
「わたしは、本当のことしか喋ってないよ」
「そうかよ」
「一昨日の話も、今朝のことも、本当のことだ。ツトムが危険になるかもしれないってのも」
「そうかよ」
「わたしはそれ以外のことを話せないよ」
「そうかよ」
「それでもいい?」
「……ああ」
「本当に信じてくれる?」
 遊の視線が僕を抉るように注がれていました。
 信じられそうにない。そんな自信はやっぱりない。
 でも、知りたい。この先、遊が何を話すのか、それを知りたい。
 いや、違うな……もっと、単純な……何を話しても、それが嘘でも、もっと遊の声を聴いていたい、そんな衝動でした。僕は、そんな衝動を誤魔化すように、笑いました。
「恩返しをしろ」
「ん?」
「最初会った時、助けてやったんだから、その先を話せ。それが僕の望む恩返しだ。全部話すまで、僕はお前が機を織ってるところを覗かない。だから、お前も消えるな」
 そのうまくない冗談雑じりの言葉を聞いて、いつものように、少し哀しげに笑うと、遊は、わかった、じゃあ、続きを話そう、と、狭い部屋の壁に遠い視線を向けました。

「どこまで話したっけ。
……そうだ、閉じ込められたところまでだ。
 どうやって、その檻を出たか? 
 簡単なことさ。恋をした。誰に? 決まってるだろ? その牢にいるわたしに会いに来るのは、ミツウラだけだった。
 難しかったよ。わたしは意図的に恋をするのにまだ慣れていなかったし、何より相手は女だった。でも、そうするより他に無いってわかったから、必死で好きになろうとした。
 まあ、内心は何を企んでいるのかわからなかったけど、少なくとも鉄格子越しに会話する分には、ミツウラは優しかった。
 だから、わたしはそれを無理矢理信じた。
 一生懸命、ミツウラのことを考えた。……その……まあ、なんていうか、ミツウラに触れられることを妄想してえっちなことをひとりでしたりもした。カメラがあった以上監視してたひともいるんだろうけどね。まあ、常に監視されてると、それが当たり前になって、どうでも良くなるもんだよ。
 それでも、時間はかかったよ。三ヶ月くらいかかったかもしれない。
 でも、段々ミツウラがわたしに会いに来るのが待ち遠しくなって、顔を見ると嬉しくなって、去って行くときには悲しくなって……それが意図的に恋をしようとした努力のせいなのか、ただ閉じ込められていることによる特殊な効果なのかは今でもわからないけどね。
 でも、随分気持ちが高まって来たある日、いつものようにミツウラがやって来て、早くあなたとお茶がしたいわ、と言った時、わたしは、お茶なんていりません、と応えた。
 少し首を傾げてわたしを覗き込むと、あら、わたしは楽しみにしてるのよ、とミツウラは微笑んだ。
 わたしは、随分と躊躇ったけど、そんなのいりません、わたしがここを出たら、ごほうびをください、と言った。
 相変わらず微笑みながら、ミツウラは、いいわよ、何でもあげる、何が欲しいの? と問うた。
 わたしは、本当に勇気を振り絞って、キスしてください、と応えた。
 本当に震えるような小さな声で。
 ミツウラは少し驚いたように、眉を上げた。わたしは、今度ははっきりと、お茶じゃなくて、キスをください、と叫んだ。
 まだわたしは女の子とキスしたことないわね、と楽しそうに応じると、ミツウラは小さな手招きでわたしを傍に呼んで、太い鉄格子の間から、わたしの手をとった。そして、その手の甲に軽くキスをした。
 わたしの焦げ痕に。
 その時は意識していなかったけれど、それはわたしがそこに閉じ込められる以前からずいぶんの間触れられなかったひとの感触だった。
 あ、と思った。
 あ、としか言いようがないの。その感じ。
 そして、何の動揺も葛藤もない平然とした様子で、もしかしてこの続きもしたい? とミツウラは訊いた。
 わたしは、あ、としか言いようのない感覚が、爆発しそうな小さな密度の濃い塊になったのを感じた。
 ミツウラは、そして、意味ありげにわたしを見詰めると、何でもあげる、約束するわ、と今度は舌を伸ばして、その先端で、痕を優しくなぞった。そして、ぱっと何事も無かったかのように、背を向けた。
 もっと、と思った瞬間だった。わたしはもうそこにいなかった。
 ただ、塊がはじけた余韻だけがあって、わたしは知らない場所にいた」

 遊はそこまで話すと、深く息を吐きました。僕は立ち上がり、冷蔵庫から、お茶のペットボトルを取り出して、遊に渡しました。遊はそれを受け取らず、やり場のないそれを、僕がごくごくと半分ほど飲むのを見て、また笑みを浮かべました。僕は、自然と遊の隣に座りました。
「逃げ出せたんだ?」と僕は訊きました。
「うん」と遊は応えました。
「なら、そのまま逃げられたよな?」
「うん。そうだったんだ。後になって考えればね。でも、わたしは自分の『転送』にまだそれ程自信が無かったから逃げおおせる自信が無かったし、それに何も持たずに生きていく術も知らなかった。
 ついでに、本来ならわたしをかくまってくれる筈の『親』とか『家』というものも信じられなかった。話したろ? わたしの『家』がどんなものだったか」
「うん」
「だから、戻るしかなかったんだよ。『檻』の中に。少なくともその時のわたしにはそれ以外に思い浮かばなかった」
「うん」
「憶えさせられていた電話番号に連絡したら、すぐにお迎えがやって来て、わたしは『回収』された」
「……でも、ミツウラってひとに恋をしたわけだから、戻ってもいつでも転送されちゃうだろ? 会うたびに」
「うん、でも、一回でも自由になったせいか、そっちの方がすごく嬉しくて、切羽詰まって切実にミツウラを想う感じは吹き飛んだ。もともと無理して人工的にそう思おうとしてただけなんだし。でも、公園の男の子の時もそうだったけど、わたしはどちらかというと薄情なのかもしれない」
「……ふうん」
「でも、帰ったら、ミツウラは嬉しそうにわたしを抱き締めた。
 あなたすごいわ、あなたの飛んだ先は、ここから五キロメートルも先よ、って。
 うん、恋は終わっていたかもしれないけど、悪い気分じゃなかった。嬉しかった……んだろうと思う。
 わたしは自分の“本当”を褒められたんだ。生まれて初めてと言って良いくらいに。
 だから、ミツウラが『約束』を果たそうとしたときも、わたしは拒まなかった。わたしを、わたしの初めてを破ったのは、指とプラスチックの棒だったよ。
 それに特別な感慨も無かったけど。
……その最中、ミツウラはわたしの体中にある痕にひとつひとつ舌をなぞらせた。そして、自分の指から指輪を外すと、私の薬指にそれをはめて、これ、プラチナ、わたしにとって特別なものよ、あなたは特別だから、あげる、そう言った。
 でも、最後に手の甲の痕にキスをすると、わたしをまじまじと見て、これが『スイッチ』なわけじゃないのね、と残念そうに呟いた。わたしが『鍵』だったら良かったのに、って。
 わたしは転送の秘密を話していいものかどうか迷った。
 恋が鍵だってことを。
 でも、直感的に、話しちゃいけないような気がした。ミツウラがなんだかんだで、わたしを利用しようとしていると思ったからかもしれないし、元々大人というものを信じてなかったからかもしれない。
 でも、確かに直感としか言えないものがわたしの言葉を呑み込ませた」
「それから?」
「うん、約束は守られた。わたしは自由になった。
 比較的。牢の中に比べればね。
 わたしが閉じ込められていたのは、郊外にある廃院になった精神病院を改修した建物で、わたしは、自分の部屋を貰って、その建物の中なら、殆どの場所に自由に出入りすることを許されたんだ。
 まあ、わたしの能力を信じている連中が、わたしに出入り禁止の場所を作ることの意味の無さくらいわかってたってことだろう。
 たくさんの可愛い服が与えられたし、食事も美味しかった。テレビも映画も好きなものを見れた。リクエストすれば、どんな音楽もゲームも手に入った。そこから出ることを望みさえしなければ、実に快適だったよ。
……なにより、そこにはもうわたしを嫌っていたわたしが嫌いだったひとたちはいなかった。
 天国だと思った。
 じゃなきゃ自分は本当はお姫様だったんだとさえ感じた。
 指には特別な指輪が光ってた。
 そして、永遠にこうでありたい、とすら思った。
 でもね、わたしは自分がかごの鳥として肥え太らされてることに気付いていなかったんだ。精神的に。餌付けされてたんだよ、要は。
 人間、口の中に入った苦いものははき出せても、甘いものは、呑み込んでしまうようにできてるんだ。どんなに遠くへ行っても、そこに自発的に戻りたくなるように仕組まれていたんだと、後になって気付いたけど、その時は、とにかく浮かれていたと言っても良い。
 わたしは、芯まで甘やかされた。
 ツトムも気をつけた方がいい。甘やかされたことのない人間は、当たり前だけど、甘やかされることが上手くない。甘いものに、逆らえなくなる。過剰に喜んでしまうんだよ。もしくは、過剰に拒むか、どっちかだ。
 まあ、わたしは溺れたんだけどね。
……でも、少し寂しいのは、確かだった。というか、ミツウラと同じ雰囲気の大人が数人いただけで、聞いていた他の同じ能力の子もいなかった。ミツウラは、まだ、彼女たちは保護されたままよ、早く出てくると良いと思わない? どうすればいいか教えてあげることはできないかしら、早くお茶会がしたいわ、って微笑してた。
 ベッドの上でね。
 わたしは、わたしもどうしてかわかりません、って応えたけど」
 そこまで話して、遊は、少し沈黙しました。僕は、続きを、と急かしました。でも、遊は首を振りました。
「今日はここまでにしとこう」
「どうして?」
「うん、今日はここまで、って感じがする」
「なんだそりゃ」
「心配しなくていいよ。わたしはまだ、ツトムを好きになるのを我慢できる。だから、明日もここにいる」
「……あ、そう」
「うん」
 まだ、寝るには少し早い時間でした。でも、僕は、そんな話の後で、何を話せばいいのかわからずに、寝ようか、と言ってみるしかありませんでした。遊は、そうだね、と応えて、床に降りようとしました。僕はその肩をぐっと抑えて、自分が代わりに床に降りました。
 遊は、く、と笑うと、あまりわたしを甘やかすな、と呟きました。
「ずっといたくなるだろ、ここに」
 僕は、遊がするみたいに戯けて首を左右にふり、そのまま床に横になりました。遊がベッドにそっと横たわる衣擦れの音を聞いて、僕も目を瞑りました。
 眠れませんでしたよ。まとまらない思考が、頭の中でぶつかり合っていました。
 でも僕はそんな自分の頭の中で、常識的で論理的で現実的な考えが、何一つ、心にわき起こる衝動に勝てないことを、朝まで掛かっても、認めざるを得ませんでした。
 それをよく言う恋だとは思いません。
 でも、僕はどうしても、遊の本当を、知りたくなってしまっていたんです。その時の僕の中のぐちゃぐちゃな心とその不可解な動きを一言で言い表せる言葉に、僕はまだ出会っていません。

<#06終わり、#07に続く


 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2016年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版と大筋において変更はありません。

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