B’z_奇跡のコメント欄 #2。老若男女が哀楽を共有したひととき。5月の夢。
____#1 からの続きです。
32年間のどこかでB’zの曲と触れ合った人、反対にB’zを全く知らない人、さまざまな人々が集った期間限定のコメント欄。
32年という時間は、コメントする皆さんの人生の有り様も、当然のことながら変えていきます。
👇 #1 は、こちらです。👇
曲に励まされながら、幼稚園や小学校などの教諭の夢を叶えた人。
小学生の頃、欲しいものをぜんぶ我慢して貯めたおこづかいでLIVEに行き、その日から現在も、曲に励まされながら仕事をしていますというサラリーマン。
結婚や子育てにまつわることは、全く同じ経験に対する驚きと歓声のような共感コメントがあちらこちらで発生していました。
たとえば、妊娠中、お腹の子供にどこどこのLIVEで何の曲を聴かせて、いまはその子も中学生、とか、別の学生は、自分もお腹にいる時に母親に連れていかれたらしい、そして今は自分が家族中で一番のファンだ、という子もいました。
幼い彼らや彼女らがコメントしていた、ファンとしての悩みの多くは、小学校や中学校で自分のまわりにB’zファンがあまりいないこと。まわりの子は皆、自分たちと年齢が近かったり、メディアに露出の多いアイドルのファンばかり。
ある女の子はクラスの友達に、どんなにLIVEが凄いかを一生懸命伝えても、「〇〇ちゃんマジ?だって、おじさんでしょ?」の一言で終わってしまうと嘆いていたり。
でも今回の企画で、軽いきっかけでのぞきに来た高校生くらいの子たちも何人もいました。彼らは若い世代のアーティストのライブパフォーマンスを生で観ていたりもしてLIVEってどんなものかをすでに大体知っていたりします。
ところが、確かに50代の「おじさんたち」のその圧倒的なパフォーマンスに、大きな衝撃を受けて、興奮してファンの人たちに質問攻めという場面も、毎日のように散見されました。
大人の私たちも嬉しいけれど、彼らと同世代の学生や小さな子供たちのファンは、どんなにか嬉しく誇らしかったでしょう。
そうなんです。会場に行くとわかりますが、お父さんやお母さん、お兄ちゃんお姉ちゃんに連れられた子供たちも所々にいて、ジャンプしたり、踊ったり、稲葉さんのコールに答えて叫んだりしています。
そんな子供たちに向けたコメントの中で目立ったのは、あるLIVEで一瞬しか映らない観客のある小学生くらいの男の子が、あまり知られていないけれど昔からファンにはとても愛されている曲、「あいかわらずなボクら」を、楽しそうに歌っている姿に対してのものです。
歌っているその歌詞は、これから人生を生きていく、彼らにとってはちょっと先の内容、つまり大人の私たちのための応援歌として書かれたんだろうと思います。ただ、そのストレートな言葉が、どこか今の子供たちが置かれている状況を見事に表しているようにもとれて、それを多くのファンの方が、涙して観ているようでした。
それらのコメントの多くが、その男の子を通して、今の子供たち全員に「気負わずがんばれ」と声をかけているようにもとれました。
また,、同じような どの場面も、すでに多くの方は、この企画の前から知っていて、そういった次の世代が受け継いでくれている姿に、心から喜んでいるコメントがあちこちにありました。
いつもそういうショット(それぞれがほんの一瞬にもかかわらず)のところで涙が零れてしまうという人さえいました。
そうです。
サイトに観に来ているファンの方の多くは、配信されているLIVEを、すでにDVDなどのソフトで持っている人たちなのです。
ところが「自分はお金を払って買ったのに。いまさら無料で観れるなんて」というような恨み節な発言をする人がまったくいない。あんまりいないではなく、私が読んだかぎりただの1人もです。
それを不思議がって質問をした、ある他のアーチストのファンで覗きに来たらしき方がいました。
それへの皆さんの答えは、2つしかありませんでした。新しい人たちに知ってもらえる喜びと、カタチを変えてここでも観られるという主催者への感謝の言葉でした。多くの方は、その感謝の返礼として、まだ持っていないソフトを注文するつもりだと上機嫌でコメントしたりして、実際にその通りのことがなされたので、一時品薄状態になったそうです。
似たようなやりとりが、各コメント欄にありましたが、どこも気持ちは一緒のようでした。
不思議がる質問はまだありました。
なぜ、ソフトを持っているのに、またわざわざここで小さい画面で観るの?という疑問です。
その答えは、これまで私が述べてきたことと、皆さんの答えも同じでした。
コメント欄が素敵だから。
確かに持っているソフトには特典映像もあるし、いつでも大画面で観れるのだけれど、素敵な人たちと一緒に観ている感じがするからと答える人がとても多くて、あぁ、みんなそうなんだなぁ、と嬉しくなりました。
中には、仕事から帰ってきて、お酒を嗜みながらコメントを1つずつ読むのが日課になっている人もいました。
ただその一方で、32年という時間は、コメント欄を通じて、おのずと
哀しみも共有させることになります。
恋人を失った人。
お子さんを失った人。
B’zが好きだった、あるいは教えてくれた家族を失った人。
そのほか、この32年に、さまざまな大切な人を失った人がいました。
曲の歌詞にすがるように頑張り続け、ガンを克服した人、
まさにいま闘病中の人。
こんなに、というほど、何人もいらっしゃいました。
会社が倒産してしまった方もいました。
5月に入って、少しずつ目立ってくる仕事や生活の試練に直面しているコメントは、こんな場所にもその変化が反映され忍び寄るのか、と読み進める手が思わず止まりました。
そんな今まさに苦しい思いの人には、必ず何人もが声をかけました。
それは単に「表示される言葉」には過ぎないのだけれど、まるでそっと手を差し伸べるように、背中にそっと手を添えるように。
亡くなったご家族を思い自責の念にかられそうになっている方に、亡くなった方を控えめに代弁して心をほぐしたり、
事業に行き詰っている方に、「じゃあ、僕を雇ってください!」と明るく名乗り出たり。
ここに集っていた人たちが、総じて私の心を動かすことが多かった理由のもう1つは、ただ優しいだけじゃなく、
賢明だったことです。
いまその人を囲んでいる人がどれくらいいて、どんな声掛けがされていて、というのを踏まえたうえで、バランスのとれた分量と言葉の種類を考えて、励ましているんだろうなと思える人が、何人もいました。
言い過ぎるでもなく、無視したり放っておくのでもなく、確実に気にかけているのがわかりました。
そして、励まされる人も
力強さを、失いかけているけれど、決して捨て去ってはいない。
顔も知らない言葉だけの励ましだけで、その悲しみや辛い状況が根源的に解決できるわけではありません。
それを自覚したうえで、励まされ、少し元気になり、感謝の言葉が交わされる。お互いに。
まるで、稲葉さんが書く詩の価値観に近いものを、リアルにその方たちの矜持として実行しているかのようです。
心から、私もこの人たちを応援したいと思いましたし、こちらも元気づけられましたし、こんな人たちと、同じものを好きで聴いてきたことが、とても誇らしくありがたく感じられました。
#3につづきます___。
あいかわらずなボクら
作詞 KOHSHI INABA 作曲 TAKAHIRO MATSUMOTO
今まで好きなこともしたし たまに我慢もしてきた
「あいつはダメだ」なんてキミ勝手に
決めないで 余計なお世話だヨ
どこに行ってもいい 道なんていくらでもある
立てなくなるほど考えこむより
行こうよ行こうよ 自分を叫ぼう
元気なうちにやりたいこと 見つけだしたいよ
大好きなひとに 会いたいときに会えればいいのにな
気がすむまでケンカして 仲直りしたいよ
やりたいようにやりたいこと できればいいのにな
いつでも正しい人なんているのかな
まあ そんなことたいした問題じゃないね
行こうよ行こうよ あいかわらずなボクら