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今日までコック帽を被っていたのに、明日からわたしはナースサンダルを履く

 2023年の夏、パン屋で販売のバイトをして6年が経った。ご近所さんたちが常連の、町の小さなパン屋さん。顔馴染みのお客さんたちとの触れ合いにやりがいを感じる一方で、お店の奥でパンを作る職人さんたちへの憧れが抑えられなくなった。これまでドラッグストアとか百貨店とか、とにかく販売しかしてこなかったわたしは「手に職」を猛烈に尊敬している。
 製造なんてまったくの未知の領域。それでもどうしてもやってみたくて、パン製造の求人を探した。これまでの販売を担当するお店と新しく製造のお店、2店かけ持ちをする生活をはじめた。ちょうどふたりの子どもたちが巣立つ年ごろだったから、子離れして自分探しをしなきゃという気持ちにもせき立てられていた。

 製造の仕事はとにかく難しかった。担当したのはパンのまるめと成形という、パン作りの行程のほんの一部分だったけど、それでも覚えることが山積みだし、手順を覚えたところでうまくできない。何年ぶりだろう、あんなに苦しかったのは。ああ、やめたほうがいいのかな…と弱気になる日が4か月くらい続いた。

 2店かけ持ちして気づいたことがある。販売の仕事ってかっこいい!って。それまで自分の販売の仕事を、人が作ったものを売ってるだけで、作ってくれる人がいなきゃ仕事がはじまりすらしない…と、けっこう卑下していた。でも、実際はそんなことないんだ。新しく通いはじめたパン屋の販売員さんたちがお店の1日の流れを熟知し、気持ちのよい接客をしているさまを横から見ていると「わぁプロフェッショナル!」と思わず感嘆の声が漏れる。販売員のことを「手に職がある」と表現することはなかなかないけれど、それに匹敵するような仕事っぷり。あ、わたしにもこれができてるんだ!もっと自惚れていいじゃん!って思った。かけ持ちしてみて、ほんっとによかった。

 4か月を過ぎるころ、製造の仕事がどんどんたのしくなってきた。手順は完璧に体に入った。まるめや成形のスキルはまだまだからっきしダメだけど、前日比で成長をひっそり感じられる。周りが見えてきて、新しい発見がいっぱい。質問がいっぱい浮かび、それを店長に訊ねる勇気も湧く。わー、たのしい!たのしいな!子育て終わって第2の人生はパン屋に没頭しよう!ええい、社会保険にもいれてもらっちゃえ!がんがんはたらくぞ!!

って、そしたらなんだか…
手指の関節とか足の指の付け根とかが痛い日があって…
でも平気な日もあるし、まぁ大丈夫でしょって。そう思ってはみたんだけど…
今度はひざが激痛で。伸ばすのも曲げるのもできなくて。歩けなくって、座れなくって。

受診したら、関節リウマチだって。
へー、そうなんだ。
聞いたことあるけどどんな病気かな。調べてみたら…
難病に相当する病気だと。
完治はないと。

真っ暗になった、目の前が。
ほんとかな。
ほんとにわたしにこんなことが起きてるのかな。

 仕事がたのしくなってきて、まだたった7か月。「長時間の立ち仕事や重いものを持つ仕事はなるべく避けたほうがいい」どの本を見ても、どのネットを見てもそう書いてある。主治医は、痛みが大丈夫なら今の仕事を続けてていいと言ってくれたけど、手が痛すぎて製造を続けられる気がしなかった。これからはじまる服薬生活の副作用も得体が知れず不安だったし、泣く泣く、製造のパン屋の退職を決意した。

 それから3か月が経とうとしている。薬のおかげで痛みはほとんどなくて、副作用も感じず生活に支障がない。だからといって服薬は減らずにむしろ増える。そこに病気の重さを感じてしまう。ただすこぶる体調がいいので、主治医の言うとおり製造の仕事も続けることにすればよかったのかなという激しい後悔。後悔しても仕方なくって、後任は決まり、引き継ぎが佳境に入っている。やめたくない!って叫びたくって、でも絶対今後も続けられる!って断定しきれなくって…。モヤモヤ、モヤモヤ。

 で、これからはどうしよう。座る仕事って言っても長時間座るとなると、それもそれでダメっぽいし。しかも事務職は未経験。何をすればいいのか。でも何かしなくちゃ。子どもたちの教育費に加えて、わたしの治療費も必要になっちゃったんだから。
 難航する求職活動のなか、ぽっと近所の歯医者さんの受付の求人が飛び込んできた。飛びついてみた。掬い上げてくれた。うれしかった。すごくうれしかった。

 想像してなかった、こんな未来。なりたかったのは、パン屋で製造を少なくとも10年はがんばる未来。成形だけじゃなくて窯もできるようになって。その先はどう転ぶのかなって楽観的に考えてた。そう、いつだって未来は楽観的だった。
 でも現実は違う。悲観の要素を注ぎ込んでくる。でもそれを悲観のまま受け取るか、楽観で薄めるかはわたししだいなんだ。やりたかったこととは違う新しいことをしなきゃいけなくなったけど、それもいい機会なわけだし。だからそれをたのしめばいい。わたしは手に「歯科受付」という職を持つ。そのチャンスを与えられたんだ!
 うん、だからきっとこれからもだいじょうぶ。

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