おとうと
第9話
「お母さんはね、お父さんとホテルに行ったよ」
夏休み。私は一応受験生。
教科書は明星ヘアカタログ、参考書はデュエット。
学校も塾にも熱が入らず
学校には殆ど行かず、塾は中学2年の秋にやめた。
勉強する意義が全く見いだせなかった。
世の中には楽しいことが沢山あるのに受験生というだけで
どうしてそれらを遠ざけねばならないの。
テレビも漫画もゲームも
母が警告する「将来立ちはだかる問題」の何より大切だった。
夏休みなんて寛ぎ以外に求めるものなどない。
朝は9時頃に起きて顔を洗い母が作った朝食を食べる。
その後はテレビを観たりゲームをしたりダラダラ過ごす。
夕方なんてあっという間に来る。
友達と遊ぶ約束でもしていない限り、私は外出しない子だった。
その日は仲のいいクラスメートに
新しい服を買いに行きたいから付き合ってと頼まれ
昼頃まであちこちのショップを練り歩いた。
買い物を済ませた友達と別れ帰宅すると、弟はひとりでいた。
「お母さんは?」
尋ねる私に冒頭の発言を弟はした。
「ホテル?」
聞き返す私に、うんと頷く。
「ホテルって?」
意味が分かっているのかと聊か驚いてしまったのだ。
弟は人差し指を鼻先に立て「しーっ」と合図する。
内緒だよ、という意味だろう。
私は立腹した。
ホテルに行くのは別にいい、夫婦なんだから。
でもそれを幼稚園児である弟にそれと分かるような伝え方で
外出するのは。まして弟ひとり残すだなんて。
「お母さんはあなたにそう言ってお父さんと出かけたのね?」
更に確かめると弟は「うん」とはっきり返事した。
カンカンになった私は弟に冷凍庫から棒アイスを取り出して渡し
ゲームでもしてなさいと促した。
大人しく言われた通りゲーム用のテレビの前に座り
ゼルダの伝説をプレイし始めた。
小さな背中が堪らなく幼気で、私は両親への怒りを更に滾らせた。
母が呑気に帰宅したのは午後2時過ぎ。
弟と2人で母が用意してくれた昼食を摂って
ゲームに興じる弟とテレビ画面を眺めているときだった。
「ただいま」
と機嫌よく言う母に私は思い切り憤った。
「ただいまじゃないよ!何で子供を傷つけるようなこと言うの?
親のそういうの知りたくないって分からないわけ?
この子がどれほどお母さんたちのそういうのを負担に感じるのか
考えてみなさいよ!!」
帰宅した途端喚き散らす娘に呆気にとられながら母は
「どうしたの?」
とどこまでも呑気だった。
両手の荷物を椅子に置く。デパートの紙袋を3つも4つも抱えていた。
「だから!ホテル行くのは勝手だけどそういうことをイチイチ
子供に伝える必要ないっての!ちょっと出てくるね、でいいいじゃない。
それにさ、私友達に付き合って買い物に行ってたんだよ?
私が帰ってくるまでこの子ひとりだったんだよ?
何かあったらどうするの?」
詰め寄る私に母は唖然として言った。
「ホテル?お父さんとお中元を見にデパートに行って帰って来たのよ」
・・・?デパート?頭の中が徐々に混乱していく。
「何?ホテルって」
汗をびっしょりかいている。歩いて帰ってきた証拠だ、荷物抱えて。
「え、だって」
慌てて弟を見やる。弟は知らん顔でゲームを続けている。
「お母さんホテルに行ったってあんた言ったよね?」
問い質す私に変わらず知らん顔。ゲームがそんなに楽しいか。
「また嘘吐いたの?」
呆れた、と言わんばかりの顔で母が弟に尋ねる。
母は無視できない様でコントローラーを膝の上に置き
ちらり母に目を移す。
「この間幼稚園で『ゴールデンウィークなのにハワイって、お宅
お金持ちなのねぇ。豪華で羨ましいわー』なんて言われたのよ」
ハワイ?常磐ハワイアンセンターさえ無縁のうちがハワイ旅行?
「ハワイ旅行なんて行ってないわよ、何の話?って聞き返したら
この子がそう言ってたって。『僕は連れて行ってもらえないの』って」
なんと。そんな仕打ちするわけなかろう、あの父が。
しかし。何の嘘だ?
両親がハワイ旅行に行ったなんて事実はない。
母はそもそも嘘を吐くような人ではない。だから幼稚園で保護者から
そんな打ち明け話を聞かされたのは事実だろう。
「あんたお姉ちゃんに嘘吐いたの?」
ほんの少しだけ気まずそうにして私をじっと見た。
「ダメじゃない!そんなこと言って。お姉ちゃん信じちゃったよ!」
うんともすんとも言わない弟は、どうもゲームを続けたい様子だ。
「ごめんなさいでしょ。ちゃんと言いな!」
大声で怒鳴られてやっと渋々「ごめんなさい」と口にした。
荷物を持って帰宅するのに弟を連れて行くのを躊躇った母が
「お姉ちゃんもうすぐ帰ってくるけど待てる?」
と聞いたら「うん」と言うので留守番させたとのことだった。
確かに帰宅時間は母に伝えていた。
予定外の行動をとるのは子供の頃から苦手だったので
伝えた時間になっても戻らないということはまずなかったが。
「ちょっと危ないよ、子供ひとり残すって」
「そうだけどこの荷物抱えてこの子連れてって、どうやって」
「タクシー使いなよ。そういうときのためのタクシーでしょ」
父とはデパートで別れたと言った。
「簡単に言うけどあんた、子供連れてデパート行って買い物してって
大変なのよ。それにあんたが帰ってくる少し前よ、うちを出たのは」
弟が嘘を吐いたことは弟の「ごめんなさい」で流れていった。
母と私ははすぐに違う話題を口にし始める。
弟はそれを聞きながらかそれとも完全に聞き流しながらか
ゲームに興じる。ソフトはゼルダの伝説からグラディウスに変わっていた。
この後暫く疑問を抱いた。弟が吐いた嘘に何の意味があるのだろうと。
悪さしたり咄嗟に出たり。
嘘を吐いたことがない人なんてこの世に存在しないだろうけど。
それにしたって、何の嘘?
考えたところで答えなど出るはずがない。
そういう特徴のある子だったのだ、生来の。