おとうと

第40話

弟が高校中退した頃。
父の口から「カネがない」と聞かれるようになった。

この8年ほど前。前妻の子を跡取りとして
経営する会社に入社させていた。
面識のない男性。けれど私は一目見て、その人に気付いた。

この人の苦悩を私は知らない。

父親が見知らぬ女性と恋に落ち、母親を捨てた。
この人はきっとそう思っている。
実は違うのだけれど。
父は私の母以外にも何人か付き合いのある女性がいて、
その人たちの間を行ったり来たりしていた。
母の居場所が安息地ではなくて。
沢山の場所に安息を求める煩悩の塊だった。
けどそんなこと。この人にはどうでもいいんだろうと思う。
婚外子をもうけたのは私の母だけ。
他の女性にそれはない。
ただの遊びと言い切れない付き合いを母として、子をなし
堕胎を求めるも無下にされ望まない子（つまり私）は生まれ。

そんな細かいことなんてどうでもいい。

この人にとって母は憎むべき悪鬼であって
気のいい知り合いのおばちゃんなんてこと、絶対に有り得なくて。
悪鬼の娘も悪鬼に決まっている。
初対面でそこまで考えたわけではないけれど。
10年ほどの付き合いがあったが1度たりとも
私と個人的な会話をしたことはない。
子供に罪はないと思ってほしかったけど、
それは望んではいけないことだった。

と、それはさておき。

父が経営する会社がどうにもうまくいっていないようと、
母も気付くまでになっていた。
ほぼ夫婦としてのかかわりはなく仮面夫婦とも呼べない
希薄すぎる繋がりは、いつ断ってもよさそうだったけれど
母にその気はなく、結局ダラダラと夫婦で居続けた。
父が間違いなく母に生活費を工面してくれていたから
私は安穏と会社員を続けていられた。
父の会社が倒産するのは私が30代に突入してすぐだったが、
それまで培っていた生活力の全てを、父の嫉妬心から
奪われていた母は一文無しで社会に放り出された。
極端にお金のない生活が始まったのは、実家が競売に掛けられたから。
母と2人住まう家の家賃だけでも、私の安月給には堪えた。
それまで使っていた化粧水や美容院や通販や。
全て安価なものに変えるか若しくは止めるか。
無職の母をひとりで抱えている気になってしまって、
私は酷く拗らせた。色んなことを。

母との関係は急激に悪化した。
跡取りが入社した頃父が酒席でうっかり口を滑らせた

「貯金なんてものは70過ぎてからすればいい」

という発言。耳ざとく聞きつけ父に
「え？お父さん貯金ないの？」
「ああない。1円もない」
「嘘でしょ？やっていけるの？」
「あんなもん、銀行を喜ばせるだけだ」
間抜けな会話を父は忘れていたが私は忘れない。
帰宅して母に離婚するよう伝えた。
夫婦関係はとっくに破綻しているのに
いつまでも同じ戸籍にいることを不思議に思うほどだった。

「別れなよ。あの感じだともしもの時、お母さんに凄い負担がくるよ」

もしもの時って何よ？という問いに高校生なりに思いつく限りの
理由を挙げてみたが、母に伝わることはなかった。

「お母さんはお父さんと別れるつもりはないよ」

この少し前、経営していた喫茶店を閉めることになり
それ自体は本人も納得してのことだったのだが、
父が母を所有物として扱う意味での
「お前は俺が食わせていく」
という言葉にかなりの引っ掛かりを覚えていた母は、父に

「自分の言ったことくらい守れ。そこまで言うなら死ぬまで食わせていけ」

と拘っていたのだった。そんなこと、露ほども知らなかったが。
離婚離婚と喚く娘を母は一喝し、会話は強制終了となった。
私は私でこの時の出来事にかなり憤っていた。
あの時離婚していれば、母はその後経営することになる居酒屋まで
手放すことはなかった。
岩にかじりついてでも生きていかなければならない立場なら、
おいそれと生きる糧を手放すことはしなかったはずだ。
だから父が母を捨て出奔し行方不明となったとき、母に

「これから2人で頑張っていこうね」

と言われた瞬間猛烈に沸き上がった憎悪に
私は自ら飲まれにいったと言っていい。
4年ほど母と2人で暮らしたが会話らしい会話はほぼしなかった。
母を嫌悪し憎悪し強い不満を抱き。
袂を分かってほどなく、母は遠方に引っ越した。
物理的に直接関わることが難しくなって漸く
私の気持ちは落ち着いた。
やっと自分らしく生きられると実感して気付いた。
子供の頃からずっと母を憎んでいたと。

弟は職を転々と変えた。
母の勤務先でかなり好き勝手やってしまい
居場所がなくなって、半ばバックレのような形で無職になった。
そんな会社に居座れるほど母は厚顔ではない。
ほどなくして母も退職した。
急激に貧乏になる我が家に唾棄し出奔した。
弟は20歳になっていて、
もう親の庇護の元過ごす世代ではなくなっていたから
家を出ること自体、反対も賛成もなかったけれど
金目のもの全て奪って出て行ったことは、未だに許せていない。

カネのないうちから金目のものを奪っていく。
弟にとって私たちは既に家族ではなくなっていた。