火球2. Une autre histoire〜後編〜
海は朝を迎えていた。目を閉じている彼女の身体が熱い。頰は上気して呼吸も荒い気がする。声をかけると苦しそうに返事をするので彼女を病院に連れて行くか、ひとまずどこかで休ませるか、とりあえず車に戻ろうと彼女をおぶった。
背中越しの体温が熱い、間違いなく熱がある。外で雨が降りしきる中、裸で地下駐車場にいたので風邪を引いたのか…。
彼女をおぶって車に戻るともう追っ手が来ていた。黒塗りの車から屈強そうな2人の男が降りてきた。車の中では資産家の男まで来ていてこちらを見ている。あのいつもの穏やかそうな眼差しで。しかし、その瞳の奥に暗い炎が宿っているのを、僕は見た気がした。
車のGPSを調べれば居場所なんてすぐに調べられる。恐らくそれで見つかったのであろう。
僕は「彼女は自分の身の危険を感じて逃げ出しました。しかも熱があります。病院に連れて行きます。」と言うと、
男のボディーガードと思われる男が「病院を目指してこの海に来たのか?」とニヤニヤ笑いながら言った。すごく腹が立った。
「その女はこちらで対処する」と男が言って彼女を連れて行こうとする。彼女は苦しそうな表情で、目に涙を浮かべて、こちらを見つめていた。抵抗したが彼女は連れて行かれた。僕は腹を殴られて意識が薄れる中、彼女の涙を見て、必ずまた助けると思っていた。
気がつくと僕は自室にいた。彼女のことをどうやって助けようかと考えを巡らせる。しかし僕自身も職責を受けることは免れないし、監視もされるだろうと思った。
彼女を助けたい、彼女はまるで僕じゃないか?勝手に決められた階級。僕を含めた大多数の人間は、彼女のようなE市民ほどの扱いは無いにしても、何もかもこの階級制度の中で監視され、すべての自由が制限されていて、まるで奴隷のようだ。彼女を助けることは自分を助けることと同じことを意味するのではないか?
昨日彼女と最初に接した時は同情の感情しかなかったが、自分の中の彼女に対する気持ちが、とても変化していることに気づいた。彼女の胸の音を聴いたから。自分と同じ、海の音だった…。
そんな思いを巡らせていると職場から連絡が来た。僕が濃厚接触者になったのでウイルスの検査を受けるようにということだった。
僕の濃厚接触者、おそらく彼女だ。彼女はウイルスに感染して、熱があったのだ。
僕はむしろ彼女からウイルスをもらい感染したいと思った。それが彼女との絆になるような気がしたから…。
検査の結果、僕は陰性だった。しかし濃厚接触者である為、僕は2週間ほど隔離されることになった。もどかしい2週間だった。ウイルスに感染したであろう彼女の安否がただ気がかりだった。E市民の彼女がきちんとした治療を受けられるとは到底考えられなかった。しかし僕も厳しく監視されていて、とても自宅から逃げ出すことができない。
彼女を連れて逃げ出したことは、不思議と特に何の罪にも今のところ問われていない。何事も無ければ2週間後は普通に出勤するよう命じられている。このまま2週間大人しく過ごし、再び出勤した際にチャンスを伺おう、彼女の居場所を突き止めようと思っていた。
彼女の安否を考えると夜もなかなか眠れなかったが、それでも2週間は過ぎた。再びあの男の運転手をする為、出勤する日が来た。職場に向かう道を僕は高揚しなが歩いていた。すぐに助けに行くから待っていて。そんなことを心の中で彼女に語りかけながら歩く。いつも仕事に向かう時は暗澹たる気分だったけど今日はまるで違った。彼女のことを想うと芽生えるこの狂おしい気持ち、これは一体なんだろう?愛でなかったとしたら…。
男の邸宅に着いた。そこには目を疑う光景があった。黒塗りのロールスロイスに女神がついているのはいつものことだが、その女神が、彼女だったのだ。
彼女は四肢を切り取られて、それでもなお生きていて、ロールスロイスの女神さながらに車に取り付けられていた。彼女は僕に気づくと悲しそうな顔で少し微笑んで僕を見つめた。
僕は車をいつものように運転するように命じられたが心の中は男への憎しみでいっぱいだった。そうだ、このままどうにか運転してまた逃げ出すことはできないだろうか?僕は彼女に必ず助けるからというアイコンタクトを送った。車に乗り込む間際、彼女も僕に視線を返した。
ウイルスから彼女は生還したのだ。例え四肢が無くとも、僕と2人逃げ出す道がきっとあるはずだ。そう考えながら車に乗ると、珍しく男が助手席に座っていた。
男はいつもの穏やかな調子で僕に車を出すように命じた。僕は彼女が振り落とされないように恐る恐るアクセルを踏んだ。
「もっとスピードを出しなさい。」男が命じたが僕は躊躇した。しかしそこで男が横から僕の足を強く踏んだ。車は急発進する。男を殴ってやりたかったがハンドルをしっかり取らないと彼女が危ない。
車は加速しながら邸宅の敷地内にまだいて、車の目の前を男に仕える人が歩いていた。ぶつかりそうになり、僕は咄嗟に急ハンドルを切って車を停止させた。
彼女の身体はふわりと空に放り出された。
車をすぐに降りて彼女にかけ寄るが既に集まっていた人達が身体を強く打ち付けて即死しているというようなことを言っていた。僕は涙で彼女の姿をまともに見ることが出来なかった。ただ、
「ねえ、この女の子の顔を見て。笑ってる。
良い夢を見ているように。」
と集まった中の1人が言っているのが聞こえた…。