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時間調整と力配分の難しさ

学生だった頃、色々な人から、「社会人になると、自分の自由に使える時間が少なくなる」と言われました。けれども当時は、まだ自分が社会人になっていなかった事もあって、その字面の意味を頭では理解したものの、今一つ具体的な感覚を持つ事ができませんでした。けれどもいざ自分が社会人になってみると、少しづつではありますが、上記の言葉の意味を理屈ではなく感覚として理解できるようになりました。

誰しも一度は、自分のやりたい事ができない状況に対して、不満を抱いた経験があるかと思います。それは金銭的な余裕の有無に因る場合もあれば、時間的な余裕の有無に因る場合もあります。或はもっと別の事情に因る場合もあるかもしれません。

そうした諸々の事情の内、ここでは時間的な余裕の有無という事情について、少し考えてみたいと思います。

程度の差こそあれ、何かに取り組もうとすれば、ある程度まとまった時間が必要です。そのまとまった時間というのは、必ずしも自分のやりたい事と直接関係する作業をしている時間だけを指すとは限りません。ある時にはどんなに試行錯誤しても解けなかった問題に、少し時間を置いて取り組んでみると、拍子抜けする程にあっさりと解けてしまう事があります。解けた後で振返ってみると、「何であんなに苦労していたんだろう」という、不思議な感じがします。けれども問題が解ける様になったのは、それに先行する悪戦苦闘の過程で、その問題に対処するノウハウが培われていたからでしょう。この様な場合、手詰まりの状態からそうでない状態に変化するまでに、少しが置かれています。それ故、見方によっては、自分のやりたい事と直接関係する作業をしていない時間も、何かに取り組む上で必要な要素であると言えるでしょう。

この様に考えるならば、何かに取り組む際に必要な時間は、我々が考えているよりも、ずっと長くなるのではないかと思われます。そしてその中には、試行錯誤をする過程が含まれている以上、その試行錯誤をする為の体力も必要でしょう。つづめて言うと、何かに取り組む為の時間を確保する事と、そこで必要な体力を確保する事とが、不可分の関係にあると考えられるのです。

ここで再び、「社会人になると、自分の自由に使える時間が少なくなる」という言葉に立ち戻ってみましょう。時間の確保と体力の確保とが不可分の関係にあるとするならば、上記の言葉は次の様に捉え直せるかと思います。即ち多くの人が社会人になった後に、「自分の自由に使える時間が少なくなる」と感じるのは、自分の自由に使える時間を現実のものとする上で必要な体力が、職場から自宅に戻った頃には残されていないからだと考えられます。体力を回復させる為には休まなければなりませんが、体力の回復を済ませたタイミングと、自分のやりたい事に取り組めるタイミングとが一致するとは限りません。そして残念ながら、一致しない場合の方が多いのではないかと思われるのです。

時間調整と力配分が上手くできるに越した事はありません。けれどもそれは実の所、中々骨の折れる事なのかもしれません。我々は時間調整と力配分をする過程で、却って疲れてしまっているのではないか、と思う事が増えている今日この頃です。


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