掘ったのかコレ、手で⁉の巻
昨日一日お休みをしていろいろ調べものをしていて、どうしても気になったものを今日実際でかけて見てきました。
長年の疑問でもあったので少々長くなりそうです、一応「知的コーフンの川」シリーズと銘打ち、2回に分けてお送りしたいと思います。
(とはいえ、これは個人的な無知に発するものなので、「そんなこたあ常識だ」と思われる方は読み流していただけると幸いです(^_^;))
きっかけはそもそもこの日であった(._.)
この日、たなかよしあきさんの回顧録に付録をつけるため、都内をカメラもって自転車で走り回っていました。記事に書いたように東京は坂の多い街です、大変くたびれましたが…(^_^;)
その時から、いえ、ホントはずっと前から疑問だったんです。東京には
こんなに山谷が多いのに、川が少なかぁないか(._.)?
ということが…。
ふつう、谷があればそこに水が落ちてくるはずです。山があれば(小さな山だって)湧水があっておかしくない。でも、23区内にはあまりにも川が少なすぎる。正確に言うと、でっかい川しかない、という印象なのです。これは不自然なことである。でっかい川は枝分かれするものではないか。
それをこの日、半日走り回って改めて実感しました。
まして東京は海のすぐ隣だ。枝分かれした支流がたくさんの三角州を作ってるのがフツーではなかろうか。
それに、川もないのにナントカ橋とか、カントカ島とか、そういう地名も多すぎる。回顧録のために回った西ヶ原にも霜降橋という地名があった。いったいどうなっておるのじゃろうか。
…でもまあ
なんかうまいことやったんだろう
といつもは深く考えないのでそこで終わってしまうのですが(笑)
今年はどうも、早い台風が海外で発生しているみたいですね(._.)しかもかなりの大型であるという。
今年も、荒川が心配になってきた当方。(これ未読の方は是非<(_ _)>)
どうにも川のことが気になって、今度はちゃんと調べてみようと思ったのでした。
・
で、ここからが今日の本題ですが…。
当方、これを一昨日知って非常に驚いたのですが、いま世間が荒川と呼んでいる川は
むかしはなかった
ということ、ご存知でしたでしょうか?重ねて申します、不覚にも当方一昨日初めて知りました<(_ _)>
もともとはいま隅田川とよばれているヤツ、あいつが荒川だったそうです。
ナンダッテー(今日の隅田川・談)
んじゃあの、隅田川よりかなりデッカイ荒川というのはナニモノだというと、どうもこれはもともと
放水路
であったらしい。
荒川はその名の通りアラぶってる川で、たびたび氾濫しては東京中を水浸しにしております。今でも十分その危険があり、氾濫したら被害は人的にも経済的にも計り知れないものがある。歴史的には明治の大氾濫のあと、
荒川が溢れないように、もう一本川つくるべえ
ということでできた放水路が今の荒川…だというのです。
くわしくはココ、すっごい面白いですよ(._.)
…しかし。しかしですよ。
当方この資料をすべて詳しく読んだ後でもニワカには信じられないものがあった。
だって、荒川ですよ。
近くで見たらこんなんですよ。
・
掘ったのか、これ、手で⁉
・
それもちょっとやそっとの距離じゃないんです、当方、この放水路(現・荒川)の起点まで今日自転車で行ってきました。起点は岩淵水門といって、昭和57年にできたものですが。
その近くにあった案内板を見ると、
つまりこっから20キロ、川幅数100メートル、深さだってだいぶあるだろうに、それをパワーショベルもユンボもない時代に
基本ツルハシとモッコで
掘り進んでいったということになります。
…信じられられられない(._.)
ただ、ただよく見ると、
確かに放水路の方は人工的だと思える部分があるのです。それはもともとの自然川である隅田川と比べてみると感じるのですが、
この地点で見比べてみた。隅田川はこうです。
んで、荒川(放水路)はこう(._.)
やっぱ人工物だからか、おそろしくまっすぐである。そういえば。
航空写真で見てみましょう(誰でも好きな場所の航空写真が見られる時代はスバラシイと改めて思う(._.))
全体に見ても、自然の隅田川よりはカーブが緩やかであります。
そしてこの巨大な放水路、昔の地図で見ると確かにないのです。古地図を見てみましょう(誰でも好きな時代の地図が見られるというのはスバラシイと改めて思う(笑))
これは明治時代の地図だそうですが、あるのは隅田川だけです。荒川は影も形もない。(…というより正確には「荒川」しかなく、隅田川などという名称すらなかったわけですが…)
このつたない記事だけではとても荒川放水路の歴史を語りつくすのは不可能ですが、明治、大正、昭和にかけて作り続けたこの放水路が、いまは
本物の「荒川」になっている
というのは、まあ実になんというか、知的にコーフンする話であります。
んでこれ、実際ものすごい役に立ってる…というか、コレがないと東京中水浸しになるのは今も全く変わってないんですね(._.)
なんせ土手をはさんで住宅地の方が、川より低いんだもの。
切通しがこんなに高い(._.)
先ほど引用した、令和元年の台風でも、水位はこんなです。
コレの上から5番目。放水路と堤防がなければ4メートルの浸水です。
このポールの前に立つとはるか見はるかす高さです。
…どうでもいいんですが、こういう豊富な資料を目の前にすると
やっぱ取材は行けるなら現地に行くべき
だと痛感しますね…。
余談ですがこの岩淵水門のあたりは新河岸川と新芝川も合流する、水門のいっぱいある地点です。
(新芝川の水門、岩淵水門とよく似た青い門です)
もう一つ、今の岩淵水門の前にメインで活躍していた旧岩淵水門というのもあり、これは対照的な赤門。公園が島になってくっついています、すばらしいロケーションでした。
(パースと質感のお勉強のような写真(笑))
島の公園はほとんど昔話の世界である(._.)
走り回って疲れたのでここで少し寝ました(笑)
・
・
・
なるほど。少なくとも荒川に限っては、
氾濫を抑えるため放水路を作り、整理した
ということがわかりました。まあその作成方法が人力によるガッツというところが何度読んでもスゴすぎですが…(^_^;)たしかに、大きな川をもう一本作って「溢れないようにそっちに流す」というのはシンプルというか、といってホントに作るかねというか…うーん、スゴイ。これで東京の川が巨大である理由はひとつ解明できた気がします。
・
あと残る問題は「支流はどうした」ということですが…いい加減もう疲れたので、またこんど描きます(^_^;)
お粗末様でした<(_ _)>
オマケ
近所の公園にある「土嚢」
油断なき荒川区民(笑)