3年越しの思いでたどり着いた最終目的地
若かれし頃、バッグパッカーだったこともあり、日本に住んで普通に就職することが窮屈だと感じていた。
そんな私には、バングラに駐在する前から抱いていた夢があった。
それは「香港に住む」ということ。
なんで香港か。
それは、映画「恋する惑星」に心奪われたからだ。
アホみたいな理由だけど、それだけでほんとに行動にうつすから「若い」の馬力はすごい。
バングラの社宅にはwifiがなかったので、恋する惑星のDVDを見ながら「私はここに住む!」と鼓舞していた。
バングラで孤軍奮闘している中、過酷な日々が祟ったのか、体調に何とも言えない違和感を覚えた。
帰国して病院に駆け込んだら、案の定。
医師から2週間の入院、手術と告げられた。
風邪すらほとんどひかない、頑丈なつくりなはずなのに、もうボロボロだった。
またバングラに行ったら、普通の状態に戻れないかもしれない、、、。
そう確信して治療を終えたあと、たくさんのチャレンジをさせてくれたマザーハウスを退職した。
ブロークンを話す度胸だけついたオーストラリア留学
帰国後は、英語強化のためのオーストラリア留学に行くことを決めていた。
留学と言ってもたいしたものではなく、片道航空券とワーホリビザ、安宿を3泊取っただけ。
荷物はちっさいスーツケースに着替えが数枚。
「英語はよくわからんが、スーパーあれば、なんとかなるでしょ」
バングラ生活の直後なので、もう怖いものなし。
駐在時代は、主にベンガル語を強化する必要があり、このときは英語がほとんどできない状況だった。
ただ、うっかりしてると死ぬという生活が1年続いたので、妙なサバイバル能力だけは備わっていた。
まずは異国の地で家探し。
使い方も英語もよくわからないローカルの情報サイトで、何件か物件のオーナーに連絡をとり、住む家の内覧予約を取る。
2つ目に見た物件のオーナーが、ほぼオージーのマレーシア人で、もうひとりのルームメイトはほぼオージーの中国人だった。
物件は中心から少し離れるが、ルームメイトの感じがよかったのでここに決めた。
学校はあまり意味なくて、
ルームメイトと毎晩いろんなことを語り合い、
遊びに行ったり、買い物したり、料理したり。
とにかく楽しかった。
彼らは私の拙い英語を馬鹿にすることなく、生きた英語を教えてくれた。
おかげでスーパーブロークンでも英語を堂々と話す度胸だけはこの時身に付いた。
そして、オーストラリア滞在3か月目で当時では珍しく、リモートで就職活動を開始。
英語ゼロ、スキルゼロの状態から、3年がかりで香港での内定を取ることができた。
ようやく着いた最終目的地
入社したのは香港のファッション商社で、雇用形態は現地採用だった。
現地採用とは、現地の人たちと同じような条件で働くことで、給料や待遇、すべてローカル基準の雇用形態だ。
決して条件がいいわけではないが、私はこれから始まる新生活に心躍らせながら一人、最終目的地の香港の地に降りたった。
そして、会社が用意してくれたホテルに到着し、上司に電話。
「あなたの一番最初の仕事は、家を探すことです。
住む家が見つかったら、連絡ください。以上」
「え??、家??」
ちょっと戸惑いながら、とにかく家を探した。(また異国で家探し)
香港は、非常に家賃が高く、
中心部は東京の港区をゆうに超える家賃相場で、
なかなか住める家が見つからなかった。
右も左もわからない、広東語は全くわからない。
英語も半分くらいしかわからない状態での物件探しは予想以上にハードルが高く、かなり苦戦した。
私の給料で住める家はこんな物件ばっかりで、絶望した・・・
これで家賃は月8万くらい。
さすがの私も、とてもじゃないけど住めない。
厳密に言うと、住めないことないがせっかく香港に来たのだから、ちょっとはゆっくり異国の雰囲気が楽しめる部屋に住みたい。
私は香港の中心地はあきらめ、ほとんど日本人が住まないようなローカルエリアに
何とか住める家を見つけた。
香港で感じた絶大な日本人気
家探しは大変だったけど、自分が日本人であるだけでたくさんの恩恵を受けた。
家賃は若干安くなり、
家のオーナーは日本人が借りてくれて嬉しいと言ってくれて、鍵交換はタダでやってくれた。
そのほかにもいろいろ、日本人というだけでだいぶ得をした。
一方、仕事では海外工場とのやり取りですったもんだしながら、香港生活をそれなりに楽しんでいた。
言わずもがなだけど、バングラより圧倒的に住みやすい。
職場の近くにはイオンもあるし、日本のチェーン店もいろいろあって食べるものも着るものも何もかも不便はなかった。
でもなんだろう、日本の商品が並んでいてもなんか魅力的に見えない。
バングラからきた身としては、日本製品があるだけでありがたいはずなのに。
なんかもっといい感じに日本の良さをアピールできないものかな。
日本人であるだけで、たくさんの恩恵を受けたから、
少しでも恩返しができたらいいな。
このような経緯で、日本のことを海外に伝えるようなことをしたいと思うようになった。