幼少期の日常
ママが私の手を引いて長ーい道のりを歩くと、大きな集会場のような場所に着いた。そこには優しそうなふとっちょのおじさんがいた。画用紙と絵の具が私の目の前に出され、そのおじさんは私の目の前で絵の具と水を混ぜて見せ、おじさんの前にある白い紙の上に薄い水色のお空の絵を塗るように描いた。そのお空に白い淡い雲を描き足して、私に筆を渡した。同じお空をかけるかな?と問う。青と白の絵の具をパレットと呼ばれる板の上でお水と混ぜ、お水のように水分を沢山含んだ空色で、画用紙の半分にお空を描いた。その後にお絵描きのおじさんを真似て、雲を足した。お空があっという間に完成した。おじさんは笑顔で、今度は緑色で画用紙の下の部分を描き出した。時々白を混ぜたりしながら、おじさんは木々と芝生と大きなお空のある綺麗な絵本に出て来る世界を1枚描きあげた。私もおじさんと同じように、緑色を使ってみたり白を混ぜてみたりした。筆は一回一回お水の入った幾つかに分かれている小さなバケツのようなもので洗わないといけなかった。おじさんの絵には程遠いが、おじさんの絵に似せるように真剣に描いた事を、今でも覚えている。
その日から絵が大好きになり私はお絵描きのおじさんから行く度に、絵の不思議を沢山教えてもらった。その太っちょのおじさんは毎年お手製年賀状なるものを、おじさんの絵顔付きで送ってくれた。2歳の私にはおじさんから届いた絵葉書がとても嬉しくて、以来毎年とても楽しみにしていた。そのお絵描きの先生はとても優しくいつも笑顔で、芝生やお家、かわいい動物やかわいい人の顔の描き方も教えてくれた。水彩画との出逢いは私の人生の大切な一部。それからは絵本を沢山読むようになり、自分でも絵本を幾つか描いてみたりした。画用紙のブックに描いたり、時には自分で小さなブックを作ったり。パパが沢山褒めてくれるので、帰宅したパパに自慢するのがとても楽しみになっていき、将来は絵本描きさんかな?とパパが言うので、本気でなりたい、って思ったものだった。ママもいつも笑顔で褒めてくれるから、もっともっと沢山画用紙や自分で作った小さな紙で作った本に絵を描いて見せた。両親の買ってくれた絵本は私の宝物、私の描いた絵はママの宝物だった。
二段ベットって今でもあるんだろうか?大好きな兄が居る上段へ潜り込むと、自分のベッドへの帰り道がとても大変で、あの大きい穴の開いているような階段を、一歩一歩恐る恐る、物凄い時間をかけて降りた。夜になると二人共、英語の単語の入った日本語の物語のテープを聴きながら毎晩就寝した。小さな時だったのでタイトルは覚えていないけれど、宇宙の話しだったのを覚えている。宇宙のとても変わったストーリー。とても興味深い自分を別の世界へ引き込んでくれるもので、英語の単語は時々出て来る、そんなテープと絵本。思えば、私と英語の出会いはこんな小さな時だったのだな~。
ゼーゼーハーハー、喘息と闘う日々はとても大変だった。時に苦しくて眠れず、3日間起きっぱなしな事もあった。横になると苦しくて背中を布団の上に付けられず、ずっと斜めに体を起こした状態で、ゼーゼーいいながら数日を過ごす。とにかく喘息とは苦しくて、小さな身体の子供には今にも死にそうと思える病気である事は間違いない。内科の先生はとてもとても優しくて、幼稚園や学校よりも病院通いの多い私の大好きな人の一人が先生だった。病院へ行くと看護師さんや薬剤師さんもとても優しくて、時に誰もいない病院の2階のベッドの上で、腕に点滴をしながら先生か看護師さんが来てくれるのを待った。
喘息が良くなる魔法の水泳を習いに行こうか?と4歳になった時に母が言った。ママの手を握りしめて電車に乗り、電車を乗り継いでスイムスクールに到着した。初めてのプールでのお教室は、お顔を水につける練習だった。喘息で苦しいのでみんなよりも一息ズレて潜る、一息つかないとゼーゼーが止められず顔を付けられなかった。
お風呂でシャンプーする時に、シャンプーハットと呼ばれるものを着けて髪の毛を洗っていたけれど、この水泳レッスン開始日を境に、シャンプーハットとさよならをした。お兄ちゃんは私よりも何倍も泳ぐのが上手だった。いつかお兄ちゃんのようになりたくて、一生懸命水泳に取り組んだ。
スイムスクールにハンバーガーの自動販売機があり、お金を入れると暫くしてから秒数が60と出てきて、温まって出てくるハンバーガーを今か今かと待ち望む。60からのカウントダウンを見つめて、あと10秒のところで、みんなで10、9、8、7、•••3、2、1、ゼロ~~~!と大きな声で叫び、ハンバーガーを笑顔で取り出すのが習慣だった。人気者のハンバーガーの自販機は、子供達の一つの一大イベントで、レッスンの後のハンバーガーは、ひときわ美味しかった。スイムスクールから駅までの通りの道沿いにある店々では、貝殻で出来たオブジェが沢山並び、レッスン帰りに可愛い貝殻のウインドウショップならぬ路面ショップ?を楽しんだりもした。時々気に入った貝殻で出来た飾り物をママにおねだりをして買って貰って、色々な種類の貝殻がビー玉や飴玉のように透き通り綺麗で、貝殻で出来た箱や貝殻で出来た置き物が、私のコレクションの仲間入りするようになった。
ある日ママが、一人で水泳に行けるかな?と、初めてのお買い物ならぬ、初めての一人旅へと出ることになった。小さな私は、いつもの道を通り階段を登って、まずは切符を買い階段を降りて電車に乗る。電車を降りて電車を乗り継ぎ、それからいつもの道を真っ直ぐに歩いて、確かこの辺に~、、、無事にスイムスクールに着く事が出来た。帰り道は行きより楽しかった。レッスン後は恒例のハンバーガーを食べて、お小遣いで貝殻にウサギの乗ってる可愛い小さなオブジェを買って、電車を乗り継いで、駅の売店でコーヒー牛乳、時にフルーツ味やイチゴ味の飲み物を購入して駅で飲み干し、電車に乗って家に到着した。私の初めての一人旅は大成功だった。ママはこの日そしてその後暫く、実はずっと私の後をつけていたらしいが、私は大人になるまで知らずに成長した。今思えば、ハンバーガーの時は兄が頻繁に一緒だった。あれは母が兄にお願いをしていたのかも知れない。
小さな身体に制服を来て、両親と一緒に初登園。年少と年長のある幼稚園で、お父さん先生とお母さん先生が、優しい笑顔で子供達にまた明日、と言って手を振っている。幼稚園に行く時は、制服の上から手帳などの入った黄色いバックを斜めがけにして、制服用の帽子を被り、巾着のようなバックにはスモック、キャップ、コップ、歯ブラシセットなどなどを入れて、さらには右と左のポケットには必ず、ハンカチと折ったちり紙4枚ぐらいを入れて、お弁当を持って準備万端。ママがバス停車場まで送ってくれた。幼稚園のバスが到着して乗り込んでママに手を振る、毎朝のルティーン。園生の時にお芋掘りのイベントがあったのを、なぜかとてもよく覚えている。お芋掘りイベントでママは、こちらを向いて笑顔で一緒に楽しんでいた。多数あるイベントにママは出来る限り一緒に参加をしてくれた。
一方パパはと言うと、時々鳥を持ち帰って来る事があった。3歳ぐらいの時だったかな?家の中に鳩がいた。誰かに貰ったのかある日起きると、籠の中に鳩がいた。私の咳が止まらなくなったりして、結局ある休日、鳩の沢山いる神社へ家族で出向き、みんなで鳩さんにさよならをした。パパによると、鳩さんはお友達が沢山いる場所へ来たから寂しくないし、神社にいるからご飯もちゃんと食べられる、と言う事だった。パパがそう言うので、ホッとして帰路へ向えたのを覚えている。
パパは鳥が好きだったのかな?またまたある日、パパは九官鳥を持ち帰って来た。九官鳥はお利口さんでお話が出来るようになる、と言うので、小さな私が教えられる挨拶を教えてみた。九官鳥の九ちゃんは、九ちゃんという名前を真似したり、おはようなどの挨拶が言えるようになっていった。時々テレビの音や人の話し声を真似る時もあった。そんな九ちゃんがいつしか家からいなくなり、その後はカナリアや文鳥、じゅうしまつやセキセイインコがお家にやって来た。みんないなくなってしまったけれど、セキセイインコだけは、その後も家族のメンバーとして、長きに渡り家にいるようになった。時に近くの鳥ペット専門のお店で、セキセイインコを選んで家族の一員を数羽増やしたり、メンバーの数羽が増やしてくれたり。卵を産んできちんと雛が出て来るのか今か今かと興奮をしながら待っていると、雛が声を上げ出して無事に出て来た事を知る。これが卵から赤ちゃんが生まれると言う事なんだ、と小さな私は何かを学んだ。
桜の下でオシャレをした私とママをパパが写真を撮り、無事に入学式が終了。晴れて小学生になった私は、母から新たな事を教わった。掛け算九九。家では掛け算九九を必死に覚えさせられた。そして、セキセイインコのお世話をするのが、当番制になった。カゴの底を大きな水場で綺麗にして、タオルで拭く。カゴの上の部分も綺麗に拭いて、お水入れと餌入れを洗って拭いて、新しいお水と餌を足す。鳥のフンは体に悪いらしいので、毎日綺麗に丁寧に洗った。これが小学生になった私に与えられた、初めてのお仕事だった。お家には大きめのカゴが2つあって、時に十数羽がカゴの中で生活をしていた。私にとって鳥達は家族。野生の鳥達も含め、生物に愛情と興味を持てるようになったのも、鳥達のおかげなのだろう。喘息持ちだったけれど、学校では活発に過ごしていた。とても内向的だったとは思えないようなトムボーイに育ち、うるさいほどに元気な生徒だったのでは、と思う。それもこれも水泳のおかげ。引っ込み思案だった私が活発になれた。そして、喘息も徐々に楽になっていった。
私はパパの教育的な言葉をあまり覚えていない。唯一覚えている言葉の一つが、弱気を助け強気に立ち向かえ、だった。お兄ちゃんはまさにパパの言っているような人間に育っていった。尊敬しかなかった。だから私も大好きなお兄ちゃんみたいになるんだ、と弱気を助けることは大切な事、強気に立ち向かうのは当然の事、と信じて育った。
素敵な音色がクラスルームに響き渡っていた。クラスルームにあるオルガンをクラスメートが引いていた。クラスメイトに曲名を聞くと、エリーゼのために、と言うタイトルである事を教えてもらった。同級生の指さばきを見て、とても感動をした。それから頻繁に、彼女にオルガンを弾いて欲しい、と打診をし沢山の曲を披露して貰った。そのお友達の家にも遊びに行くと、彼女はピアノを弾いてくれた。これが私とピアノとの楽しい出会いだった。私は紙の鍵盤を作りピアノを弾く真似をして、お友達みたいに弾けたらいいなと思って過ごしていた。
3年生に上がる時、パパとママにピアノを習ってみたい、とお願いをしてみた。ピアノのレッスンに行ける事となり、ある日家にオルガンがやって来た。そしてパパが、いつか大きなお家に引っ越して、グランドピアノを買おうね、と言った、その言葉を忘れた事はない。パパはいつも大きく物事を言う癖があったからだ。ママはいつになるかしらね?と言いみんなで大声で笑った。3年生になると私の習い事は水泳とピアノ、二つになり、少し忙しくなった。ピアノの先生は優しくて、先生のお宅でする小さな発表会が私にはとても楽しくて心地よく、引き終わった後はホッとして嬉しい気持ちになった。ドレスはママが作ってくれていた。ママの手はなんでも出来る魔法の手だった。
お家の週末の食卓では、流しそうめん、手巻き寿司、お好み焼き、たこ焼きに、焼肉やすき焼き、などなど、様々なイベントを楽しむ日々があった。うちには客人も多く、その度に手の込んだママ手作りのお食事が、沢山食卓に並んだ。時々家族でわたあめ器、かき氷器、ジューサー、などなど、色々な美味しいものを作るガジェットで、ワイワイ言いながら、楽しい笑顔多き時間を過ごす事が多かった。3年生の時だったか包丁を初めて触った。ママはずっと私に集中して、包丁の使い方を教えてくれた。それからママのお手伝いをするようになり、私のお仕事はどんどん増えていった。
ピシュン、ピシュン、、、鳥達を撃ち落とす音。家の壁や襖に映像が映し出され鳥が沢山飛んでいる。お兄ちゃんと雉打ちのゲームをしたのをよく覚えている。大好きな遊びの一つだった。今のようにテレビゲームがなかったので、家の中には、沢山のゲーム機器やオセロや人生ゲームなどのボードゲーム、それから、お人形さんなどが沢山あった。テレビゲームだけで楽しめる時代に生まれた人達には、想像を絶するようなアナログなゲームが沢山あった。そのアナログゲームで友達や家族と良く遊んだ。
ママとパパとお兄ちゃんと私。家族4人。こんなに笑顔多き幸せ一杯だった家族が、この後直ぐに3人になってしまうとは全く想像などしていなかった。
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