
『さよなら、野口健』
久しぶりに面白いノンフィクションを読んだので感想を残しておこうと思う。タイトルは『さよなら、野口健』。
アルピニスト・野口健のマネージャーを10年間勤めたという小林元喜(こばやしもとあき)さんによる著作だ。
もともと知人のおすすめで知り、そのあと以下のnoteを読んで即効本屋に走った。もし本書の魅力を知りたい方は以下noteをぜひ。
というわけで以降は私の個人的な感想です。
そもそも本のジャンルでノンフィクションが好き、という人は少数派な気がする。テレビ番組で「ドキュメンタリーが好き」という人が、バラエティやドラマが好きな人に比べて少ないのと同じように。
この理由はおそらく、エンタメ性の低さ、というか、要は「なんか真面目」なイメージなのかな?と。
たしかに、例えば引きこもりや鬱、貧困のような社会問題にフォーカスしたものや、環境問題などシリアスなテーマのノンフィクション・ドキュメンタリーもある。
そういった作品は社会的意義は高いと思うのだけれど、私が好きなノンフィクションは普遍的な社会問題よりむしろ、書き手の個人的な興味関心が発端の、ある種の自己満足* ともいえる作品だったりする。(*賞賛・尊敬の念です、念の為…)
ひとりの人物が、何らかの理由によって特定のテーマや人物に強い関心を持ち、執念にも近いエネルギーで取材を続け、書き上げたもの。
その意味で、『さよなら、野口健』は非常に面白かった。
筆者がなぜ、どんな思いでこれを書き上げたのか。どうしてここまでのものを書かなければならなかったのか。
読み終えて、その胸中を想像するだけでも震える。というか、想像を絶する。
ネタバレしないよう詳細は控えるけれど、もし読了した方がいたらぜひ一緒に考えてみたい問いがある。
筆者はいま、野口健と関わった10年をどんな過去として振り返り、どんな視線で自分の人生を見つめているだろうか?
野口健のおかげでたくさんの光を見れた。美味しい思いもした。最終的に本も出せた。だからもう「過去に葬り去ることができた」?「良い思い出」?「感謝している」?
もしもあの時。もし、あの時に。
ずっと消えないさまざまな感情と強い記憶は、筆者のこれからを照らし、強くするのだろうか。
ちなみに、筆者は野口健を憎んでいるか?というのは問うまでもない。
筆者は間違いなく野口健を憎んでいる。言うまでもなく愛してもいる。
ふつう、一人の人物を描いたノンフィクションというのは、読み終えるとその人物のことをまるでよく知ったかのような気持ちになるものだけれど、読み終えてもなお野口健という人物はよくわからなかった。そのよく分からなさ自体が野口健という人なのだとも言える。
むしろよく知れたのは、著者のことだった。本書の中で、散々吐露される自己否定。ときに自惚れたり、かと思えば自分をひどく責めて精神病棟に入院したり、ダメだと分かっていながらまた人に期待したり。
「共感する」などと簡単には言えないけれど、世の中の99%の凡人は、野口健よりも筆者に自分を重ねるだろう。
光の強いところに虫が集まる。
光の中にいるときはまるで自分もその一部のように感じるけれど、それは自らの光ではなく、自分は光に群がったただの一匹の虫にすぎないということを忘れてはいけない。
我を忘れた虫は光の強さにやられてしまう。
けれど実際は、光を放つ本人も自分自身に飲み込まれまいと必死なのかもしれない。
光の強い場所は影も濃い。
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