Q. 人前で外国語を話すのが恥ずかしいんだけど?
A. 何か目標があるなら、恥じらっている場合ではない
「生きるとは何ですか?」
「恥を恐れないことかな。」
(サッポロ生ビール黒ラベルCM《大人エレベーター》より)
俳優の妻夫木聡氏が「大人エレベーター」なる架空のエレベーターに乗り、各階(=年齢)で待つ「大人」に会いに行く。そんなテレビ・コマーシャルの一幕だ。「生きるとは何ですか?」とたずねた妻夫木氏に、「恥を恐れないことかな」と答えたのは77階で待つ俳優の仲代達矢氏である。
いやに大きく出るじゃないか。そう思う読者もいるだろう。我々筆者も外国語学習にかこつけて人生論をぶとうとは考えてはいない。しかし、外国語をものにするためには何が大事かと考えるとき、仲代達矢氏の一言にはやはりそのエッセンスが詰まっていると思われてならない。
つまり、
外国語学習には、ある程度の度胸がどうしても必要となってくる
と我々は言いたいのである。
代表的な例は「出川イングリッシュ」ではなかろうか。「出川イングリッシュ」とは、日本テレビ系のバラエティ番組《世界の果てまでイッテQ!》の不定期コーナー《出川はじめてのおつかい》で、お笑いタレントの出川哲朗が駆使する型破りな英語のことである。同コーナーは、ニューヨークやロンドンといった英語圏を舞台に、「自由の女神にたどり着け」などのミッションを受けた出川氏が、道行く人々に英語で尋ねながら目的地にたどり着くまでの言動を放映するものだ。
このコーナー、たかがバラエティ番組とあなどるなかれ。参照対象として教育や研究報告にも取りあげられるほど、外国語習得の重要事項を含んでいるのだ。
例えば、獨協中学高等学校教諭の原田淳氏は、ハワイ修学旅行にのぞむ高校2年生たちに《出川はじめてのおつかい》さながらにミッション(ハワイ王朝時代の女王の別荘を改装したホテルを探せetc.)を課し、生徒たちは班ごとに現地ミッションに取り組んだという[1]。
この際、原田氏は《出川はじめてのおつかい》を教材として推奨し、事前学習用の教材として生徒たちに鑑賞をすすめた。生徒たちに出川氏の姿から受け取って欲しかったものはなにか。原田氏はそれを「勇気」だという。はじめての海外研修、異国で現地住民や外国人観光客に話しかける、それも英語で。この緊張感はなかなかである。不安を感じる生徒たちのロールモデルとなるべく選ばれたのが、ハチャメチャな英語をものともせずミッション達成までこぎつける出川哲郎氏の姿であった、というわけである。
正確な発音、完璧なイントネーション、これらは学校教育の場でも言及されるし、外国語学習者ならクイーンズ・イングリッシュに憧れても無理からぬことである。もちろん大事だ。
しかし、人の意志・思想・感情などの情報を表現・伝達するのが言葉である、という大前提を忘れてはいけない。自分の発音に注意するあまり、話の内容が支離滅裂になったり、そもそも会話を始められなかったりしては意味がない。
先の出川イングリッシュでもそうだ。出川氏が破格の英語を駆使してまで現地住民とコミュニケーションをとろうとするのは、「自由の女神にたどり着く」という目的を達成するためである。この目的のためであれば(それが仕事でもあるので)、英語がおぼつかなくても道を切り拓いていかなければならない。
もちろん、「恥ずかしい」とか「格好が悪い」といった感情は外国語学習を阻害する要因にもなりうるので、軽視するべきではないとする指摘もある[2]。それは承知している。しかしだ、恥を恐れてばかりでは前に進めないのもまた事実ではないだろうか。むしろ完璧な発音を習得したいと思うのであれば、自らの発音をさらして、客観視して、修正してゆくほか道はない。
もしこの記事を読んでくれているみなさんに、外国語を学んで何か成し遂げたいことがあるのであれば、つながりたい誰かがいるのであれば、伝えたい思いがあるのであれば、恥じらいでいる場合ではない。その恥じらいをかなぐり捨ててからがスタートである。なぜなら、きっと今の自分にとって発音は一番大事なことではないのだから。
最後に一点だけ注意してもらいたいのは、このような「ブロークン」は外国語学習の入り口としては良いが、最終的な出口としては悪例である可能性があるという点だ。
外国語学習は度胸だけではどうにもならず、確かな「技」も必要である。この点は今後の様々な記事を参考にしてほしい。
結論:言語は「度胸」
[1] 原田淳「出川イングリッシュと海外修学旅行での英語タスク」『チャートネットワーク』(81)、2017年、17-20頁。
[2] 鈴木栄「感情が語学学習に与える影響:置き去りにされた課題」『湘南工科大学紀要』(51)、2017年、105-114頁。
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