携帯小説『みーちゃん』
住宅街に構える茶色い屋根の一軒家。深夜二時の蒸し暑いリビングで美智子は受話器を片手に愚痴を漏らしていた。
「誠さんがね、帰ってこないの。早くて二十三時。ありえないよね。ほぼ毎日だよ。
次の日が休みだと朝まで帰ってこないの。浮気してるよね。絶対。ね?」
肯定も否定もしてほしいような気持ちで聞く。曖昧な返答があったのか納得いかない様子で話を続ける。
「同棲してた時の方が幸せだった。うん、二十代の時の。そうそう、あの狭いマンション。」記憶を蘇らせながら笑った。
「アイスクリーム屋のバイト気に入ってたし。専業主婦って向いてない。てゆうか、ご飯作っても洗濯しても何しても当たり前なんだもん。マイホームで専業主婦って夢だったけど実際最悪だった」
ありがとうの一つも言わなくなった誠を思い出して「いや、夫が最悪なのか」ひらめいた表情で言った。
「それでね、どうせ一人で家にいるんだし子供も作れないし、あ、そうなの。子供作れないの私。笑えるよね。高校の時この中で一番最初にお嫁さんになって若いママになるとか言ってたのに。一番早くお嫁さんにはなれたけど子供作れないんだって」
ため息をついて「結婚してから分かって。そこから誠さん、つめたくなっちゃった。誠さんのお母さんもお父さんも。そんなことならお前みたいな夜職女選ばなかったって言われちゃった。ううん。誠さんのご両親は知らないよ。絶対言うなって言われてたし。別に言うつもりなかったけど。アイスクリーム屋の子ってことになってる」
「あ、でね。どうせ一人で家にいるんだし子供も作れないし猫飼うことにしたの。ペルシャ猫。出会ったときに一目惚れした。」あいた左手を握って顔の近くで震わせながら興奮する。
「壁で爪研ぎしちゃうんだけど怒れない。ご飯も一番高いのあげちゃう。本当はダメなんだけど。可愛くて全然しつけできない。私が料理してても掃除してても擦り寄ってくると家事どころじゃなくなっちゃって」少しの間を置いて笑顔は薄れた。
「子供ができたらこんな感じだったのかな。怒れなかったかも」と呟いた。美智子が黙ると会話が終わってしまう。気がついたように「みーちゃんっていうの。そう。私の小さい頃からのあだ名。源氏名もミチだったから。ずっとみーちゃんって呼ばれてた。今誰も呼んでくれなくなったからみーちゃんにした」
「誠さん?あぁ。気持ち悪いって言われた。お前の名前つけるなんて気持ち悪いって。自分は私のことお前って呼ぶくせに」鼻で笑った。そして黒い瞳から光が消えた。
「でも、みーちゃん死んじゃった」
無表情で経緯を語り出す。
「誠さんが蹴ったの。普段は私にしか擦り寄らないんだけど。今朝は何故か誠さんに擦り寄ったの。そしたらあいつ、蹴飛ばした。最初何が起きたのか分からなくて」人間ってショックなことが起きると記憶が飛ぶのね。少しだけ笑みを浮かべたが双眸に光はない。
「叫びも怒鳴るもできなかった。みーちゃん、床で動かなくなちゃって。血が床に垂れてたの。それみて吐き気がして…」ちょっとごめん。と言って受話器を置いてキッチンに走った。嗚咽がして胃のなかのものを出す。とはいえ今朝から何も食べていない胃のなかは空っぽで胃液だけが流れていった。水を飲んで気を取り直し受話器を再び持った。お待たせ。
「みーちゃんに会いたい」みーちゃん。みーちゃん。みーちゃん。
何度も呼んだ。かつて自分が呼ばれていた名前を何度も呼ぶ。
みーちゃん。みーちゃん。みーちゃん。みーちゃん、みーちゃん。みーちゃん。みーちゃん。みーちゃん。みーちゃんみーちゃんみーちゃんみーちゃんみーちゃん。
受話器を持つ手に汗ばむ。光のない双眸が潤んでいく。
にゃあ。
何度目の呼びかけだろうか。小さな鳴き声がリビングに響いた。心臓が強く鳴る。爪がフローリングの床を掻いて駆ける音は近づき、やがて美智子の足元で止まった。柔らかい毛が美智子の脚をくすぐる。受話器を落とし、あいた両手で抱き上げた。
みーちゃん!泣いている美智子をよそに、ぎゅっと胸におさまった猫はなんの気無しににゃあにゃあと鳴いている。抱きかかえたまま再び受話器を取る。
「みーちゃん、生きてた。生きてたよお」涙を流しながら報告をした。
「そうだった。みーちゃん、まだ動いてたの。すぐ病院に行って。命に別状はないって言われたんだった」涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔は満面の笑みに変わり言った。
「死んじゃったの、誠さんだった」
美智子の背後に横たわる男の腹部には包丁が刺さり白いワイシャツは赤黒く染まっている。滅多刺しにされた身体からは臓器がはみ出ていた。食卓には固くなったパンと乾いた目玉焼きとベーコンエッグ。プチトマトの入ったしなったレタスのサラダが並んでいる。床に広がりこびりついた赤黒い血液を見て困った顔で「私、専業主婦向いてない」と笑う。
どこにもつながっていない受話器はツーツーと返事をした。
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