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携帯小説『コンプレックス』

トイレの入り口に位置する手洗い場の鏡の前に立ち、歯を磨いていた。歯ブラシの毛先を歯の表面に当て優しく縦に横に小刻みに動かす。
ごめんね、とあまり話したことのない先輩が化粧をしにやってきたので身体を横にずらしてスペースを空けた。口は泡で塞がっているので会釈で返事をする。念入りに歯を磨く私を鏡越しに見た先輩と目が合った。
「歯並び綺麗でいいなあ」
生まれて初めて言われたその言葉に動揺した。
大人の歯に生え変わるときに曲がって生えてきた前歯にずっと苦しんできた。朝から夜までバイトして貯めた百万円で始めた歯列矯正。歯茎に埋まった親知らずを撤去するのは盲腸より大変な手術らしい。麻酔の効いた肉を切り込み取り出す時は溺れるくらいの血で溢れた。痛みは柔らかいが血の匂いが呼吸するたびに嗅覚に触った。尋常じゃない頬の腫れと痛みでパンやチョコレート一欠片すらも噛めない。ゼリーとヨーグルトだけで一ヶ月過ごした。ワイヤーが張り付いた状態で二年。麺類や繊維がある野菜などは挟まりやすいので人との食事は気が進まなかった。
小学校の時から人前で笑う時は必ず手で口を隠した。無理矢理笑顔を作らされた高校の卒業アルバムも憎かった。芸能人でもないのにインフルエンサーでもないのに自分の名前で立てられた掲示板での悪口だらけのスレッドに書かれた「あいつ歯並び悪い」の文字。
その全てが昇華された瞬間だった。
口の中の泡を吐き出して水でゆすいでから更衣室にいる先輩の姿を見つけ言った。
人生で初めて言われて、その、なんかすごい嬉しかったです。ありがとうございます。
とても重い気持ちだった。本人は何気なく目に入ったものを軽く褒めてみただけなのはわかっていたからこそ告げるのを一瞬躊躇したが、伝えたいと思った。
当然あまり話したことのない先輩は、えー?だって綺麗じゃん。羨ましいよー。と笑った。

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