普通や常識って?

我が社(JTC)は、普通や常識に囚われている人がとても多い。
普通や常識といっても、40〜50代サラリーマンの言う普通や常識である。
20代中盤の私にはジェネレーションギャップに感じることも多々ある。

普通こうするでしょ!常識でしょ!と表でも裏でも言われることがよくあるのである。
ただ、普通とは何をもって普通なのだろう?
我が社の普通や常識は典型的な古風日本の考え方である。
結婚するのが当たり前、子供がいるのが当たり前、大学に行くのが当たり前、名の知れた会社に勤めるのが当たり前、異性愛者が当たり前、マイホームを持つのが当たり前、定年まで我が社に勤めるのが当たり前などなど。

そういった古風日本的な考え方には良い面もある。年功序列でガツガツせずに仕事することができ、入社すれば一生安泰だ。また、意志を持たなくても何となく多数派に乗っかっておけば、必要以上の努力も必要がない。

自分自身が、海外でその国々の文化に適応してきたように、今の会社では会社の文化に適応するべきであるし、出来るはずである。
しかし、なぜ私は適応できないのだろう。いや、適応しようとしていないのかもしれない。

その答えは多様性にあるのではないだろうか。
普通◯◯だ。と特定してしまうと普通じゃないことや人に対して差別的ということだ。
普通結婚するだろう。という考えの裏には、結婚しない人はおかしい。例外的だという意味も含まれているのである。
結婚するしないは個人の自由意志だ。特に我々若い世代は、結婚しなくても幸せになれる時代だと思っている人も多い。
しかし、我が社の価値観では結婚しないのはどこか問題があると思われてしまうのである。
なんと思われようが関係ない!
と言い切りたいところだが、実際そんな簡単な問題ではない。
大多数が私のことを問題があると思っているとするならば、いくら自分が良くても居心地が悪い。
何で結婚しないの?と多くの人から聞かれればそれはとても不愉快であるし、裏であの人はおかしいという噂でも流されれば気分は良くない。
一人一人の価値観を認めないところに私の保守的な日本的な考え方の嫌悪感があるのではないかと思う。

一人一人の価値観を認めることはそんなに難しいのだろうか。確かに統制することやルールを決めることは難しいかもしれない。
しかし、マイノリティになったことがある人にとってマジョリティが決めたルールに従うことは非常に難しい。
今や時代が変わり昔はマイノリティだったことが今やマジョリティに変わりつつあることも沢山ある。

歳を取るにつれ経験に囚われて変化が怖くなることもある。しかし、時代において変化していくことはその時代に最も効率的で合理的な考え方でもあるはずだ。
常に社会にアンテナを張り、自分がマジョリティだからと言う理由でマイノリティを排除的に考えないようにしたい。
自分自身がそれをやられたら居心地が悪いから。
だからこそ、今JCT勤務で非合理的なことは自分が古株になった時に強制しない。
若者に教え伝えるだけでなく、若者から学ぶ上司や先輩になりたい。

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