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[糸]|シロクマ文芸部

「恋猫とボクの30日。何ですか?これは。」
編集長の戸谷トタニから渡された冊子の表紙に書かれたタイトルにボクは困惑した。

「山田、お前の次の体験ルポ企画だよ。恋猫は知ってるだろ。」
「はい。猫になりたい女の子のことですよね。そういう女の子を1ヵ月預かって無事猫になったら、猫を飼いたい人に引き渡すって、あれですよね?預かりボランティアみたいな。」
「そうだ。お前、それやって記事書くんだよ。」

──恋猫
猫になりたい女性が男と1ヵ月暮らして、本当に猫になりたいと思えた女性だけが猫になれる。
やっぱり人間の方が、という思いが少しでもあれば猫にはなれないらしい。
預かりボランティアになるための条件もいくつかある。
──女性が好きなこと、40歳以下の男

だが、最も厳しいのはこれだろう
──恋猫とのキス及びセックス、恋愛禁止
若い男を条件にするのにこの高すぎるハードルのせいで、猫になれる女性はごく僅かだ。

「あの、編集長。さすがにボクも性欲はあります。」
「それは分かってるよ。程度の問題だよ。溢れんばかりなのか、お前みたいに小さじ一杯程度なのかってこと。この企画にはお前しかいないんだよ。」

戸谷トタニに半ば押し切られる形で
恋猫──伊都イトとの暮らしは始まった。




『恋猫とボクの30日』企画のために出社するのは週に1回程度。
朝から晩まで下僕のように伊都イトの世話をする毎日だ。


「山田ー、ごはん。今朝はオムレツが食べたいの。」
「山田ー、あたしの服クリーニングに出しといて。」

こんなボクでもちょっとキツかったのは「猫になった時のための予行演習」だと言って、伊都イトがほぼ裸みたいな恰好で家の中をウロつき回ることだった。
伊都イトは普通に可愛い女の子だ。
我慢できる男はそうはいないだろう。
ボクなら伊都イトを猫にしてやれるかもしれない。
男としてどうなのかは分からないけど。

伊都イトはそこそこ大きな会社のOLだった。
何不自由なく暮らしているのに、なぜ猫になりたいなんて思うのか不思議で、一度聞いてみたことがあったが「別に」の一言で終わってしまった。




ある日ボクが仕事から戻ると大切にしていた盆栽が全て無くなっていた。
伊都イト、盆栽どうした?」
「捨てた。部屋に枯れたとこが落ちたりしててイヤだったから。」

プチンとボクの堪忍袋は音を立てた。
伊都イトの腕を掴み、「恋猫預かりボランティア」の事務所へ連れて行った。
「すみません、この子ボクでは無理です。別の人でお願いします。」
事務所の人が引き留めるのも無視して、伊都イトを一切見ることもなく乱暴にドアを閉めて出て行った。

企画を潰してしまったことを戸谷トタニに謝罪したが「まぁ、気にするな」と言われただけだった。
成功したらラッキー、くらいの企画だったのかもしれない。

伊都イトがいなくなって、ボクは元の平穏な生活に戻ったけれど、新しい盆栽は買う気にはなれなかった。
伊都イトはどんな猫になったのだろうと時々考えたりした。



──ガチャン
玄関ドアの前で何かが割れる音がした。

ドアの前で伊都イトが割れた盆栽の鉢を拾っていた。

伊都イト。猫になってないじゃないか。」
「山田、前に『何で猫になりたいか』って聞いたよね。居場所だよ。猫は家に付くの。山田が恋しくて帰って来たんじゃないから。家が好きで帰って来たの。」

──あぁ、もう我慢しなくて済む。
ボクは伊都イトにこれでもかというほどキスをした。


(終)




#恋猫と
#シロクマ文芸部
小牧幸助さんの企画に参加させてもらいました