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視覚偏重社会―触覚が衰えるとどうなる?


山内壮夫《森の歌》札幌・中島公園

美術館に実習をしにやって来た大学生から、彫刻についてこんな質問を受けた。

「なんで彫刻に色付けないんですか?」

そんな素朴な質問に対し、私は「色を付ける彫刻家ももちろん居ます。一方で、色を付ける必要がないと考える彫刻家も沢山居ます。彼らにとって彫刻はカタチの芸術なので、色が無くともカタチで勝負できるんです」とひとまず答えた。が、後で思い返すと少し足りなかった気もする。
カタチの芸術、というのもそうなのだが、彫刻は「触覚」の芸術でもある。美術館で作品を鑑賞することに慣れているとそのことをつい忘れてしまいがちだ。日頃美術館では、保存と安全の観点から作品に触れることを禁止している。しかし作品に触れるということは、作品について知るのにとても重要な行為であることも理解している。日々そのようなジレンマを味わいながら学芸員は展示を作っているのだ。一部の美術館では、「特別に作品に触れられる展覧会!」を企画しているところも散見される。
私たち現代人は非常に「視覚」に頼っている。彫刻に色が必要ではないかと考える大学生も恐らく視覚に支配されている。現代人の多くはスマートフォンやタブレットの平らな画面にばかり触れているし、手作業で何かを作ったりする機会もそれほど無い。

「ハニワと土偶の近代」東京国立近代美術館

最近、美術館でステージの上にたくさんの彫刻を並べる展示手法を見かける。これもモノを視覚で(しかも平面的に)捉えがちな文化の顕れであると個人的には考えている。ステージに並んだ彫刻たちはとても写真映えするのだ。なので「美術館でこんな作品みたぞ!」とSNSで発信するにはうってつけ。一方でこの展示では彫刻に触れられないし近づけないのはもちろんのこと、自由な角度から見ることもできない。せいぜい180度といったところか。作者はきっと正面とか裏とか関係なく、360度どこから見ても破綻のないように作品を創っているはずなので、学芸員の一存で見る角度や位置を制限してしまうのは若干勿体ない。

それでは、視覚に頼り、触覚が衰えることに何かデメリットはあるのだろうか?別に視覚偏重でも日常生活には困らないのでは?この答えは自分自身まだはっきりとは見いだせていないが多少考察してみよう。

例えば目隠しをして何かに触れてみると、触覚だけで物体を認識することの難しさ、新鮮さを感じ、普段自分がいかに視覚に頼っているか自覚できるだろう。この新鮮な感じというのが、私たちが忘れてしまっている感性であり、そこに大きな知らない世界が広がっているのではないだろうか。実際、堅い、やわらかい、熱い、冷たい、ふわふわ、ざらざら、つるつる、とげとげ・・・など実に多くの情報が触覚を通じて伝達可能なのである。
ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーは『言語起源論』の中で「あらゆる感覚器官の基礎には触覚がある」と語っている。赤子が最初に周囲の世界と自分との境界を認識するために周囲(物体、他人、空気、自分自身)を触れまわることを考えると理解しやすいかもしれない。まず感触を確かめ、そこから音や色や味などを認識する段階に入る。ヘルダーによれば、人間は何か一つの感覚器官に優れているわけではないが、多くの感覚器官を同時に駆使することによって世界を多元的に把握することが可能である。そしてこの複雑な世界を理解、伝達するために言語が発達したのだ、という。
そういうわけで、触覚という基礎的な感覚が衰弱するということは他のあらゆる感覚にも悪影響を及ぼす可能性がある。ただこれは科学的に検証されたものではないので、誰かに検証お願いしたい。
今わかることは、触覚から広がる様々な情報をキャッチする感性があるのとないのとでは、芸術作品を味わえるかどうかに雲泥の差が生まれる可能性があるということ。美術が好きな人は、モノを触覚的にみる「触角」を作るトレーニングでもしたほうがよさそうだ。まずは野外彫刻を触れながら鑑賞してみるのが手っ取り早いだろう。

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