大いなる和の国
大和(ヤマト)とはこの国の別名のようなもので、元々はヤマトと呼ばれていたものに、「大和」と言う字を当てたものだ。
和と言う価値観、規範は日本においては特に重視されている。
聖徳太子の十七条憲法(以下2つ引用はwiki)にもある。
和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
和を尊重し、争わないことを宗旨(主義)としろ。人は皆、党派を作るし、(物事の)熟達者は(常に)少ない。そのため君主や父親に従わなかったり、近隣と考えが相違したりもする。しかし、上の者も和やかに、下の者も睦まじく、物事を議論して内容を整えていけば、自然と物事の道理に適うようになるし、何事も成し遂げられるようになる。
畢竟、人間は徒党を組むし、従わない者もいる、だから上も下も分け隔てなく議論して、道理に基づいていこうぜ。
と言うのが聖徳太子の言いたいことだ。
ここには当然漢籍の影響がある。
論語の次の章句こそがそれだろう。
君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず
意味:和して同ぜずとは、人と協調はするが、同調して道理に外れたようなことや、主体性を失うようなことはしないということ。同じて和せずとは逆で、同調はするが協調しないこと
儒学が廣く知られているのならば、和と言う一字に、対義語の同と言う一字が常に対となっていることは理解せられたであろう。
聖徳太子をはじめ、漢籍に通じ、和の重きを尊ぶ者共にはこれが理解されていたから、和が何より重視されてきた、我々はその様に考えるべきだ。
何事も一長一短、連帯、連携には協調と言う長所もあれば、不和、暴走と言う短所もある。
そして人々の教養、常識が貧弱化、形骸化すれば、そのリスクへの配慮はなくなり、短所のみが流行るようになる。
和は消え去り、同が蔓延ることとなる。
今の日本が腐っているのはここにある。
和と同の分別を付けず、同調を指して和までも否定し、同調はダメであることの哲学を放棄し、同調を禁止するような同調圧力をかけたりするような有様なのだ。
俺はずっとこの和を何よりも大切にしてきた。
そして和とセットになる次の章句も和して同ぜない為に必要な考え方だ。
君子は義に喩り、小人は利に喩る
意味:君子は道理、正義に基づいて判断し、小人は自分の利益に基づいて判断する
この義と和が、利と同の対立軸であるとの理解が大切なのだ。
義が無く、利しか考えない者はどのように判断するだろうか。
今のコロナ対策から考えてみよう。
まず手順としては人々が何の為に、どのような協調をすべきか、即ち義の定義から始めねばならない。
それはコロナ対策の是非そのものだ。
すると義はこうなる(俺が考えると、だがそれは必ずしも普遍性のないものではないと考える)。
義とは社会の維持にあり、経済や教育その他様々な社会活動を可能な限り維持することにある。またウイルス感染症の根絶は不可能であること、また社会において致命的なウイルスでもない(これまでのインフルと同程度かそれ未満)ので、個々人ができる範囲でなるべく健康を維持し、日常を送り、経済や、人々の生活、精神をしっかりと維持することにある。何故なら過剰な対策は他への副作用的なリスクを及ぼすからであり、他で被害が出ては本末転倒だからだ。
と言う我々の義を確認したところで、和を検討しよう。するとこうなる。
我々がやるべき対策は定められた。個々人がそのできる範囲で感染対策をとる、と言うことだ。そしてそもそも社会活動の維持が最大の目的であり、それを妨げるような対策は推奨すべきでない。勿論、個々人がその範囲内においてやりたいことをやるのは自由の範疇だから尊重はするが、それを他人に強要したりするのはよくない。そもそも目的にも適っていないのはこれまでの我々の経験が物語っている。だからやるべきことは社会活動の維持だけ基本的に考えていればいい。それと、差別はよくない。コロナはなりたくてなるものでと、なろうと思ってなるものでもない。自然の活動の内の一コマに過ぎない。我々は互いを尊重しあい、より良い日常を送ろうではないか。
それに対して、利で考え、同じる奴等はこうなる。
俺は罹りたくない。だから対策するんだ。お前等も俺に移すかも知れないだろ?ちゃんと対策しろ。もしそれでも罹ったら、病院で治療してもらわにゃならん。お前等が対策せずに病院を不当に占拠することは許せない!俺等の為にだけ医療リソースは割り当てられている!対策に協力しない奴等は何人たりとも医療機関の世話になるな!自業自得だ!どうしても世話になりたいのなら協力しろ!そして協力しない人や店を淘汰しろ!奴等が潰れるのは仕方ない!その資格がないのだから!
とまあ、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の一場面が脳裏に浮かぶが、
結局大衆とはこんなものだ。
大衆とは同じて利に喩るものだ。
我々は和して義に喩るべきなのだ。
これが大和の国の、名前が示す基本だ。
それを忘れると、我々はその欠点を忘れ、それへの対策を怠り、付和雷同することとなる。
そんな社会は極めて生き辛い。窒息するようになる。
言ってはならぬこと、言わねばならぬこと、
してはならぬこと、せねばならぬこと、
それが全く道理に基づかずに押し付けられる。
人々はそこに疑問を持っていてもそれを解き明かす認知能力、現す言語能力、実行する胆力(勇気)がないので、長い物に巻かれるのだ。
そんな国のことが嫌いになるのは、基本的に優秀な人だ。
優秀な人は価値観を作る人々であり、周りに押し付けられることを嫌う。
何故嫌うか、それはこちらにも考えがあるのに拒否されるからだ。
そんな人は、海外で活躍し、日本には戻らない。
逆に活躍しないものは、日本に残り、日本を穢していく。