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わきまえるとは

子貢問ひて曰く、
「一言にして以て終身之を行ふ可き者有りや」。
子曰く、
「其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ」。

孔子の弟子(その中でも特に裕福で知性ある)子貢が孔子に尋ねる。

「一言で言える、生涯実践すべき教えはありますか」

孔子は答えた。

「それは思いやりだ。自分の望まないことを相手に施さぬことだ。」

論語の中でもとりわけ有名な章句だろう。

他人に対して何かを行う時、もし自分がそれをされた場合にどう思うか、それを考えた上で相手に行うと言う心掛けはとても大切なことだろう。

いきなり脱線するが、俺は他人に対して中々厳しいことを言うが、逆に厳しいことを受ける覚悟を持っているからできるのだ。また批判するにしてもこちらなりに相手の真意を探り、間違っていたら訂正謝罪する覚悟があるからやっているのだ。

「謝れば済むのか」なる意見もあろうが、謝らねば済めばそれでいいと言う話も間違っているし、済まない場合にはそれ相応の仕打ちを受けるだけの話だ。

また、優しく諭せと言う意見もあろうが、そんな態度の人間は聞く耳を持たない。考える頭を、受け入れる心を持たない。

せめて心を持ってくれなければ俺はその心に答えることはできないし、換言すれば、心に答えた結果が厳しい言葉となると言うことでもある。

さて、前置きが長くなったが、何を言いたいかと言うと、ゴッチを批判したいと言うことだ。

いや、ゴッチと名指しにするのは、ゴッチの言語能力が他の者を代表するのに相応しいからであり、ゴッチと言いながらもゴッチ的な者全員への批判であると言うことは間違いない。

さて、どう言うことかと言うと、

フジロックへの参加の姿勢だ。

以前ゴッチのロックインジャパン(ロッキン)に関する意見に対して俺も意見を表明したが、

ゴッチはロッキンに対して、真摯に対峙した結果、中止やむを得ないとの苦渋の決断に至ったことを記している。

そして同時に東京オリンピックを行うことへの批判的な疑問を投げかけた。

もし真剣にそう考えて東京五輪を批判したのなら、当然己の参加するイベント等に関しても同じ基準を用いて自己の判断を評価せねばなるまい。それが真摯さと言うものだ。

しかし、彼はそんな真摯さをかなぐり捨て、開催と言う選択を、自分達の実存に関して「のみ」行使することを決断した。

これは極めて不誠実な判断だった。

それこそ、彼等がオリンピック批判に用いた数々の批判に耐え得ないからだ。

ゴッチは前回の4-3で政府に怒りを表明したはずだ。

俺はずっと怒っている。

布マスク2枚配布という世紀の愚策に。困窮者よりも支援者のほうを向いた支援策に。補償なき自粛要請に。叩けるところから叩くメディアのあり方に。お互いを監視し合うような空気に。いよいよ誰のためかわからないオリンピックに。一向に上がらない投票率に。ずっと続いている政府の不正と隠蔽に。もちろん、それでも彼らに負け続ける自分の不甲斐なさに。

ゴッチは、フジロックは、困窮者(コロナ脳の被害者)より、支援者(参加者)の方を向いていないか?

五輪や政府だけを叩けるだけ叩いてこなかったか?

お互いを監視し合う空気に逆らったか?

誰の為かオリンピックが分からないのなら、フジロックは分かるのか?

結局、ゴッチのこのダブルスタンダードは、ゴッチ自身の信用を無くしただけではないか?

五輪は反対だが、フジロックはやる、と言う矛盾、欺瞞、これに答えるだけの理論は持ち合わせているのか?

誤解なきよう触れておくが、五輪賛成派は恐らく全員が、「他のイベントを中止してでもオリンピックはやれ」なんて言っていない。我々は、制限そのものが不当故に、オリンピック及びその他のイベントも中止すべきでない、と言っているのだ。

政府にしても基本はそうだ。何でも自己責任、個人の自由でやれと言うスタンスだったが、コロナ脳の自粛圧力の為に、それこそ誰の為だか分からない自粛の為に、譲歩に譲歩を重ねたが五輪だけは守ったと言う事実に対して、五輪をやる為に他を犠牲にした、なる呆れた解釈を示せるのは己の視野狭窄を示したことにしかならない。

だから本来、フジロックやロッキンを開催せよと言えるのは五輪に賛成した者でなければならないはずだ。

少なくとも、フジロックを開催した者なら、間違っても五輪反対なんて言える訳がない。

それこそ、フジロックに参加するミュージシャンや、その裏方、ケータリングその他の間接的な部門も含めて携わる人々の生活を思うのなら、同時に五輪に参加するアスリートやその裏方、また施設やボランティアその他の方々の生活へも配慮するのが誠実さだろう。

また、ゴッチは大阪でも別のイベントをやったようだが、

本気でやりたいのなら、やれるようにするのなら、自分達だけでなく、他の人達も含めた基準作りをすべきではないのか?

それ等を放棄して自分達だけはやる、そんな傲慢な態度を、ゴッチの良心は許すのか?

許すとしたらとんでもない欺瞞ではないか?これまでの信用を完全に失墜させやしないか?

そう言う人々の欺瞞を端的に批判したのが、哲学者の東浩紀氏だ。

まさにその通りで、これに反論しようとすれば、意味不明な屁理屈を捏ね繰り出すしかなくなる。

やはり、人間として、自分も相手も公平公正に何かをやろうとするなら、自分に対して真摯に考えねばならない。

抜け駆けするようなアンフェアは人々の心を、その個人からも、また社会や常識からも遠ざける遠心力にしかならないだろう。

ちなみに、こんな馬鹿もいる。

直前でやめる意味がわからないし、苗場と新潟の距離感も知らないし、そもそも音楽イベントにお呼ばれする理由も分からない、この言論が不自由な人は、東浩紀の批判のモロにターゲットとするような馬鹿馬鹿しい形で恥を晒した。

ちなみに、最近このお二人はTwitterで激しくバトルをしていた犬猿の仲。俺が見る限り、津田の筋違いなイチャモンでしかなかったが。

さて、我々は、コロナ禍とどう向き合うか。

せめて誠実に生きようよ、と俺は言いたい。

自分を守りたい。ならばそうすればいい。他人の行動にケチをつけるな。その他人が守りたいものはお前の守りたいものと必ずしも同じではない。それこそ命より守りたいものがあるかも知れないし、そもそも命に関わらないことも知っているのだから。まさに価値観の違いだ。お互いの価値観を尊重しよう。

自分は自由に生きたい。ならば他人の自由も認め合おう。勿論引きこもりたい奴を引きずり出すなんてことはしなけりゃいい。

私権制限は、人々の生活そのものを奪うと言う事実を共有しよう。普段から何も考えない、理性の断捨離の天才、思考ミニマリストには想像が難しいだろうが、日々人間と関わりあって、社会を担うのが人と言うものだ。この"人"にとって、繋がりと言うものは有機的で連続的で極めて複雑なものだ。一度破綻したものを再構築するのは最早不可能と言っても過言ではない。私権制限はこれ等を犠牲にして成り立つし、しかも結果が伴う保証もなければ、失敗例しか今のところは見つからない。

あなた達の見せかけの不安の為に多くの犠牲が必要であると言うことをしっかりと認識しよう。

今回はゴッチを題材に、人々の不誠実さを批判した。

コロナ禍の原因とは、この不誠実さにあると言うことを問い直そう。

これがある限り、コロナが例え落ち着いてもコロナ禍は終わらない。

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